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ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

モンゴル餃子を作る。

2008年09月14日 | ガリバー旅行記
 先日、久しぶりに三年前から日本に留学していて、私とは五年来の友人である中国の内蒙古自治区からやって来ているナラングリという名の若い美しい女性が、わが家に名古屋からやってきたのである。

 彼女は、私が1990年に初めて内蒙古自治区のダライノール近郊の町で出会って以来の交流を続けている、包海岩君の妹さんで、来日から二年間は京都の同志社大学留学生別科で日本語を学んでいたので、宇治市に在住していたのだが、現在は名古屋の大学に通学しているので、名古屋から夏休みの一日を京都まで来てくれたのである。

 彼女は、内蒙古の地元で高校を卒業後、親元を離れて単身、大連の歌舞団の学校に入学し、モンゴルの民族的踊りを中心に、ウイグルの踊りや馬頭琴の演奏までやる、とても素敵なお嬢さんなのである。

 現在は名古屋の大学で環境マネージメントを学ぶ傍ら、生活費と学費を稼ぐために、近くのスーパー銭湯でアルバイトに忙しい女子学生でもある。

 昨年のクリスマスに、私が名古屋に彼女と兄貴を訪ねて、共にクリスマスディナーを、名古屋のモンゴルレストランで楽しんで以来の再会だったのだが、彼女はガリバーさんちに行ったら、餃子を作りますと言って来てくれたのである。

 毎年夏に、私が数人の友達やモンゴルに行きたい仲間を集めて、彼女たちの住む町に近い大草原に行って、モンゴル草原の移動式住居であるゲルを中心に交流しながら四五日宿泊するのだが、この草原でも羊の解体料理と共に、必ず「餃子作り」はしている恒例の「モンゴル餃子」なのである。

 しかし、今回は彼女の得意のレシピというべきか、日本ではあまり「羊肉」を食することがないので、羊肉とは違う、鶏肉と豚肉の二種類の「餃子」を作ることになった。

 中国やモンゴルでは日本と違って、餃子は焼くより水餃子として茹でて食することが普通で、しかも主食として食べる時には、びっくりするほど作って、ともかく食べるわ、食べるわ。

 そこで、今回もお祝い事の時に、日本では「巻き寿司」などを作ったり、注文して皆で食事をするが如く、モンゴルでも家族や友人を交えて賑やかに楽しい宴を囲む時には、とてもたくさんの餃子を作って食べるのである。

 二種類の餃子の「ナラングリ風」は、鶏肉と玉ねぎを主にしたものと、豚肉と韮を主にしたものであったが、特色は煎り卵をほぐして、どちらの包みにも入れたことである。

 薄力粉と水を約2:1で捏ねて、よく混ぜて一時間ほど寝かしたものを、麺棒と手で上手に延ばして、適当な餃子の皮の大きさに丸めて、各々が具を入れて餃子を包むので、なかなかユニークな形も出現する。

 私の孫のK君、六歳も真剣に「餃子作り」に集中し、何と百個以上の餃子が、約二時間ほどで出来上がった。

 あっさりとした食感のおいしい「モンゴル餃子」としてたくさん食したのだが、ほんとうは羊肉で作ることや、ニンニクを入れる場合もあるので、少し子供向きと言った感じではあったが、翌日の朝は「焼餃子」にして食べたり、煎り卵入り餃子は大好評であった。
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インドの旅(7)

2008年09月06日 | ガリバー旅行記
 私のインド、ネパールへの初めての旅は、実は北京オリンピックのおかげで実現したと言っても過言ではない。

 毎年の夏のライフワークの様になっている「中国・内蒙古草原」へのツアー企画を今回は、昨年行った時から、2008年はパスすると宣言していたので、今年の夏の休暇をどう過ごすかは、5月頃まで未定だった。

 しかし、私の友人の写真家のTが、ある大学教授の依頼を受けて、ネパールの女子労働と児童労働の実態を写真におさめて来てほしいとの課題を受けて、六月半ばに日本を発ったので、これを機会にある時期から一度は行きたいと思っていたインドと共に、久しぶりの一人旅での貧乏旅行をすることになった。

 世間でいうところの還暦を過ぎて、ますます元気で健康な自分へのご褒美的な気分もあって、行きと帰りのネパール・カトマンドゥとインド・デリーの往復航空機の予約だけは事前にして、あとは全く未知数、決めないでの一人旅となった。

 「地球の歩き方」についても、ネパール編は買ったが、インド編は2006年度版を図書館で借りての情報集めをして、イメージだけは抱いての出発だったが、正直なところ、ほとんど何処へ行きたいとか、どこで何日滞在するとかは全く決まっていなかった。

 その旅の始まりで、タイ・バンコク国際空港での日本人の若い学生の二人との出会いから、自分自身の旅のイメージと具体的な宿泊、移動手段、食事なども含めた「貧乏旅行」のイメージが生まれてきたのであった。

 私が大学生だった頃には、一ドル360円の時代だし、学生とて海外への旅や語学研修、インターンシップ、ワーキングホリデイなど、現在の学生たちのような発想やチャレンジの思いなんぞ全く無かったのである。

 私自身が始めて海外に飛び立ったのは、仕事の関係であるラジオ局の一年間の帯番組を私がマネージメントしていたタレントさんと共に、リスナーも含めてラジオ局が企画した「香港・マカオ」3泊4日の旅だった。

 その後、東京から関西に家族も一緒に移り住んだ時期に、大きな人生の転機だとの意識もあって、なぜか「ロタ島」への一週間の旅の企画に一人で参加したのが、自分の意思での海外旅行の最初だった。

 今回のインド、ネパールの旅も、ここ20数年行き続けている中国・内蒙古との交流ツアーとは違った、一人旅のパターンで久々にリフレッシュしたわけだが、やはり大げさに言うと、人生のターニングポイントの時期での「感傷旅行」だったのかも知れない。

 「貧困とは、決して経済だけではなく、人生の生き甲斐か目的、夢などをもてなくなることではないだろうか」と、今回のインド、ネパールの旅での、一番の感想であり、印象を強く感じている。

 多くの人々が暮らすインドの雑踏の中で、ヒンドゥー教が支えている彼らの人生、暮らしのエネルギーは、間違いなく日本の現代の若者や我々のモチベーションと比べれば、全く異なるパトスを感じざるを得なかった。

 インドは、近未来に人口が世界一になるばかりではなく、経済も含めて世界の注目する先進国の仲間入りをすることは間違いないのだが、カースト制度をはじめとする社会構造と貧困の大きな課題は今世紀末にでも解決できないのではないかという見通しを感じた。

 やはり明るく重くなく「悩める国」のひとつではあったが、人々の眼は輝いていた。

 

 

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インドのガタロ

2008年09月03日 | ガリバー旅行記
 インド旅行も超低額貧乏旅行となってしまい、毎日、毎日、インドの低下層の人々の暮らしぶりとあまり変わらない一日一食の日々が続いていた。

 あまり食欲がないのと、ヴァラナシでの下痢がたたって、どうも食事よりも水分を忘れず取ることに専念する毎日を送っていた。

 あのヒンドゥー教徒たちの憧れの地でもある、ヴァナラシでの五日間は、まるで私自身もヒンドゥー教徒になったかの様な日々となった。

 早朝に目覚めて、身支度を簡単に済ませて、ミネラルウォーターの一リットルのボトルを手に、後は必要最小限の手荷物、お金、バスポート類だけを肌身離さず携帯するために、小さなポシェットに入れて腰にバンドのように結んでいた。

 足元はマジックテープで簡易に装着できるサンダルを着用し、半ズボンに小さな海水パンツを履いて、ガートと呼ばれる「沐浴場」に通う毎日となった。

 多くのヒンドゥー教徒たちは、たぶん全国各地から団体、個人を問わず、修行僧のシンボルカラーのオレンジ色の僧衣を身に纏って、手荷物だけはガートの世話役のような人に10ルピーほどの駄賃で預けて、ガンガに入水するのである。

 写真でもわかる様に、ガンジスの表流水は、お世辞にも美しいとは言えない黄土色、または泥水と言っても過言ではない様子なのだが、多くの入水する信仰厚き人々は、この水を「聖水」として尊び、頭からかぶって、口にも入れて飲んでいるのである。

 私も手荷物だけは頭に載せたり、近くのガートの脇の目の付くところに置いて、入水するのだが、このガンガの水を飲んだり、頭からかぶったりだけは出来なかった。

 そんな中、写真の様な光景を目にして驚いたのである。

 たぶん10歳前後の少年だと思うのだが、沐浴場の賑わいの中で、何度も何度も潜っては、ガンガの川底の泥を手ですくっては、持ち上げて見ているのである。

 つまり、金目の物を探して、何度も潜っては泥の中から一ルピーコインや換金できそうな代物を見つけていることに気づいたのである。

 まるで「ガタロ」やと昔聞いた落語のネタにあった、大阪だと道頓堀川のガタロが有名だったらしいが、橋の下辺りの川底から鉄くずや金目の物を潜っては掬いだして生活していた男たちがいたとの噺を思いだしたのである。

 インドのヒンドゥー教の聖地のひとつである、ヴァラナシのガンガの沐浴場、ガートで、まさか「ガタロ」という懐かしい稼業に勤しむ少年たちに出くわすとは思っても見なかった。

 しかし、インドのカースト制度の現状と貧困の実態から考えると、全く絵空事ではない現実のひとつだと認識を新たにせざるを得なかったのである。

 あの憧れの地、インドのガンガで出会ったガタロの少年たちの生業が毎日あることを祈らざるを得ない心境で帰国したが、インドの深い悩みと現実を感じる実態の一シーンとして、一生涯忘れ得ぬ光景であった。
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インド20万歩の旅。

2008年09月02日 | ガリバー旅行記
 八月六日に関空を発って、ネパールに四日間滞在した後、私は自力で出来るだけインドを歩いてみようと、カトマンドゥからの夜行バスで、国境の町ビルガンジーを目指し、早朝に着いた薄暗い街中から国境のイミグレーションの事務所前で二時間弱待って、歩いてネパール、インド国境を越えてから、再びバスでブッダガヤを目指し、やっと夜半にガヤノ町に到着しました。

 その夜から私のインド20万歩、十日間で約150キロを歩くてくてく旅行が始まりました。

 日本では日頃は特別なことが無い限り、一日約五千歩ほどしか歩いていない私だが、今回の旅では行き帰りの飛行機便の予約以外は全く予想もつかない行き当たりばったりの不確定な旅の中、列車での長距離移動以外は、極力タクシーはもとより、リキ車なども使わず歩くことに専念したのである。

 小さな万歩計を常に半ズボンでも腰にぶら下げて、一日二万歩平均を目標に、歩くは歩くは。

 最長歩いた日は、なんとあのタージマハールで有名なニューデリーから東に3時間ほど列車でかかる世界遺産の町、アグラであった。

 理由は簡単なのだが、前日が金曜日だったのにヴァナラシで日本円をドルやインドルピーに換金することを忘れていたため、土日の二日間はほとんど現地で使えるお金がなく、ただミネラルウォーターは必需品なので、最低いつも一リットルボトルを一本携えて、いくら取られるかわからない便利な交通手段のリキ車にも乗らなかったのである。

 世界中の観光客がアグラでは世界遺産のタージマハールを見学するため、少なくとも4.5時間は滞在し、外人観光客は入場料として20ドル、750ルピーを支払って入場するわけだが、私にはどちらも財布にはなかったのである。

 そこで、私はヴァナラシで会った日本人の青年に聞いた情報を基に、タージマハールを正面から入場して見るのではなく、裏側に流れる川向こうから眺望する穴場へと歩いて行ったのである。

 実は、広島から来ていた青年の情報では250ルピーで、橋を渡って反対側の一番タージマハールの眺望がいいポイントまで、リキ車で連れて行ってもらったとのことだったのである。

 でも、私には宿賃を払わなければならず、このリキ車代もないので、近くの鉄道線路横の歩道橋を見つけて、よじ登って渡り、なんと約5キロを歩いて絶好のビューポイントを自ら見つけたのである。

 夕暮れ迫るタージマハールの白亜の建造物には、蟻の子の様な見物客の姿が遠望されたが、反対側からの眺望は、たぶん私一人の独占的なシーンとして記憶にしっかりと納められたのである。

 ただ感激したのは、この白亜の殿堂を裏側からじっくりと見ただけではなく、帰り道をとぼとぼと歩いていると、バイクに乗った二人乗りの青年が、私に声を掛けて、後ろに乗れと薦めてくれたので、お言葉に甘えて、鉄道橋の脇まで約三キロを便乗する形で助けてもらったのには驚きながら感謝の一語であった。

 約150キロ、一日平均10キロを歩いたインドの旅のエピソードは尽きない。
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仏陀悟りの聖地。

2008年08月31日 | ガリバー旅行記
 インドの仏陀の足跡をたどる聖地は数知れずあるのだが、私はネパール国内にある仏陀の生誕の地である、ルンビニを目指すことをやめて、インド北部の有名な聖地のひとつで、ブッダが最初に悟りを開いたと言われる「ブッダガヤ」に向かった。

 ここは、仏陀が最初に悟りを開いた地で、大きな塔のあるメインテンプルに案内を勝手出てくれた日本語が分かる青年たちと一緒に少し半信半疑で境内を回ったのだが、なぜかこの日はスリランカからの大勢のヒンドゥー教徒のお参りがあって賑わっていたが、大きな菩提樹のある「仏陀悟りの座」が鉄格子で囲われていた。

 全く私は意外な事実を日本語のわかるガイドから聞かされて仰天したのである。

 実は、この仏陀が悟りを開いたと言われる黄金の座は、十数年前までは自由に観覧できたのだが、あの忌まわしい麻原ショウコウというとんでもない奴がインドを訪れた際に、この黄金の座に勝手に座して汚したということで、それ以来閉鎖されたのだという話を耳にしたのである。

 私は仏教徒でもヒンドゥー教徒でもない、ただのクリスチャンなのだが、なんとも日本人の一人として怒りに近い思いがこみ上げてきて、なんとなく謝罪したい心境にまでさせられたのは、いかなることなのだろうか。

 ともかく、ブッダが悟りを開いたとされる聖なる地で、日本の新興宗教、しかも犯罪集団と化して、サリン事件をはじめ数々の事件を起こしたオーム真理教の松本智津夫とか言う男が、インドだけではなく世界の仏教徒たちの大切な聖地を汚す、とんでもない自分勝手な行動に出たということに恥ずかしさを感じずにはいられなかった。

 このブッダガヤという聖地には、数多くの寺院があり、日本人が建てた寺もいくつかあったが、この市内に日本のNPO団体の資金で、小学校を造ったという話もあり、インド各地に、日本人のお金と協力で学校建設もなされていることは、少しは罪滅ぼしになっているのかなとも感じたのである。

 今回のインドの旅に出る前にはあまり意識していなかったのだが、実は私も二十数年前から数年間、そういえば「フォスタープラン」という名の団体を通じて、インドの貧しい子どものサポートになればと、年間6万円、毎月5千円の基金を寄付していたことがあり、そのときの少年が今、何処に住んで成長しているのかと思い出してはいた。

 インド各地を歩いていると、至るところに日本の基金の支援での学校の話があり、ブッダガヤ郊外のスジャータ村にも小さな建物の私立の学校があって、少し寄ってみると、50人程の小学生が暗い部屋で古い教科書とノートで勉強している様を見ることが出来た。

 しかし、その学校の執事か関係者が領収書を手にずっと付いて来て、少しでも寄付をと言い続けていたので、どうもその気にはなれず断って、その学校を後にしたのである。

 確かに、この村の生活の貧しさは、バイクの後ろに乗って十数キロを走っているだけで、よく分かるほど、近くに住む人々や子どもの姿は経済的には豊かさを感じるものは何もなかった。

 それにしても、寄付を請うのが仕事と化して、来る人全てに「物乞い」と同様に学校関係者までが、「お金を」と請求する日常が、どうも違和感を感じる訪問者が多いのではないかとも思った。

 仏陀の悟りの地は、今観光地化して、お金をと強請る町に化していた。
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インドの旅の始まり。

2008年08月30日 | ガリバー旅行記
 ネパールの長閑で自然に包まれた村々を散策して、すっかり自然志向に浸っていたのだが、四日目の夜、カトマンドゥーから夜行バスでインド国境の町、ビルガンジィーへと向かうことになった。

 雨が降りしきる八時過ぎに、カドマンドゥー市内のバス発着場から、インド人ばっかりの乗客約40人程の夜行バスに乗ったのだけれど、全く周囲の人たちとのコミュニケーションもないまま、ほとんどがすぐに眠りにつくと言った感じのバス車内であつた。

 なぜかサービスで袋入りの豆菓子のようなものが配られたが、車内の電気はすぐに消され、日本の深夜バスのようにトイレが後部についているわけではないので、いつトイレタイムでバスが停車するやらも分からぬまま、少しでも眠ろうと必死だった。

 どれほど走ったのか、何処を走っているのか全くわからないまま、2時間半ほどが経過した時、バスは停まり、みんなトイレタイムだろうと一旦バスを降りた。

 私も気がつけばバスが停車していたので、いまだと言った感じでバスを降りると、バスの停車したところは日本で言えばサービスエリアのようなところで、トイレ設備はないのだが、薄暗いレストランがあって、乗客のほとんどが、ここで夕食のカレーを当たり前の如く右手で器用に食していたのである。

 私がバスを降りた時には、すでに大半が定食風のカレーセットを食べている途中で、いつバスが出発するのかも不明な中、彼らのように上手くカレーセットの食事を手早く食べる自信もなかったので、追加で注文することなく見守っていただけであった。

 それから、バスは深夜のネパール南部を国境の町へとひた走ったのだが、ようやく早朝の薄暗い田舎町、ビルガンジィーに到着するまで、三度ほどトイレ休憩の停車ほを体験した。

 やはり一人全く前後が分からぬネパール、インド人ばっかりのバスに乗っているので、緊張感があったので、途切れ途切れに目覚めながら目的の町の路上に荷物と共に降り立った。

 国境の町だが、何処に出入国の事務所があるのかも分からぬまま、リキ車と呼ばれる自転車タクシーに乗った。

 英語もろくに通じない感じの運転者だったが、雰囲気を察知して間違いなく、国境ポリスのいる場所へと運んでくれた。

 イミグレーション事務所の係官が6時過ぎにやってくるというので、時間待ちをしている間、若いネパール警官たちは、いろいろと話かけてきて、一杯のチャイも振舞ってくれた。

 しかし、結局彼らも人の子であり、最後は携帯や時計に興味を示した上で、給料が少ないから何とか少し恵んでくれと警官が所望する始末であった。

 無事入国審査を済ませて、また一日かけてインド北部の釈迦が悟りを開き、最初の修行の地となった、ブッダガヤを目指してバスの乗客となった。

 最初の見学地となったのが、あの仏陀が悟りを開く前に、七年間の苦行の後に、下りてきた里でスジャータと称する若い女性からご飯とミルクと砂糖を振舞われたといわれる、聖地「スジャータ村」に足を入れた。
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ネパールの子どもたち

2008年08月26日 | ガリバー旅行記
 ネパールという国は、つい昨年までネパール王国と呼ばれる、王政の国だったのだが、王室内の権力闘争がきっかけで、内乱状態になったことで、民主国家へと生まれかわることになった国である。

 国土は日本の三分の一弱だが、北緯28度から30度に位置する南アジアの国でありながら、国土のほとんどが海抜一千メートル以上、エベレスト、マナスル、ダウラギリなどの八千メートル級のヒマラヤ山脈を有する山岳国家で、人口は三千万足らずの牧畜と農業の長閑な国であった。

 そんなネパールでもカトマンドゥーの首都では、人々が経済生活に翻弄されて忙しそうに暮らしていたが、早朝に近くの寺院に行って、お祈りを捧げる敬虔な仏教徒を眺めていると、何処からか子どもたちが寄ってきて、ハローと声を掛けてくる。

 しばらく、片言の英語で「学校は?」とか「家族は?」などと会話していると、その内、一番外人との付き合い方を心得た様な女の子が、何やら言い出した。

 結局、何か食べ物をくれだの、ルピーを恵んでほしいなどと、物乞いをしだすのである。その後ろには小さな弟や妹が姉の様子を見ながら、待っているのである。

 そんな都会の貧しいネパールの子どもたちと違って、少し田舎の村に行くと、かえって、そんな光景とはおさらばする。

 ほんとうに透き通るような清んだ、しかも眼力の強い眼差しで私たちを見て、笑顔で応えてくれるのである。

 さぞ、都会の子どもたちよりも貧しいはずだが、お金を強請ったり、物乞い風情の態度は見せないし、子供同士で楽しそうに遊んでいる。

 結局、人間の貧しさとは、一体ナンだろうかと考えさせられるのである。

 「お金」という、物に換えられる「お宝」を手にして以来、人は何から何まで、お金の力で手に入れることを覚えて、自らの体と感性で人生を楽しく歩むことよりも、お金の魔力に魅せられた人生にチェンジしてしまうのではないだろうか。

 お金がないのが不幸なのではなくて、お金がないこと不幸に感じてしまう人間性が不幸に感じさせているのではなかろうかとさえ思うのである。

 あのネパールの田舎の村の子どもたちの眼差しは、全く不幸や貧しさを感じさせない力があった。

 突然立ち寄った小さな村の学校で、出会った数多くの子どもたちの歓声と眼差しに、この国の民主主義がかかっているのだが、インドとの地理的関係がゆえに、インドの属国のように経済的には依存してといる状態は否めないのだが、インド人以上のネパーリストは、この国の自然を愛し、独特の生きるエネルギーで成長していくだろうと確信を覚えた。

 あの三角が二つくっついた様な国旗に掲げられた青い色が象徴する「平和」と国のカラー「赤」を要して、子れからの国の発展を目指す「ネパール連邦民主共和国」の行く末を見守っていこうと思う。

 中国、インドという人口の多い大きな国のハザマにあって、新しく民主国家としてスタートしたネパールが超大国の緩衝材となって、平和を演出する国家として続くことを祈らずにはおれない。
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カレーづくし。

2008年08月25日 | ガリバー旅行記
 ネパール、インドの旅、約半月を終えて帰国した私だが、妻がカレーを作った。

 さんざんカレーづくしの旅立ったのだが、なぜかカレーに飽きることは無いのだから不思議なくらいである。

 ネパールでも、三度三度カレーを食べていたという印象があるのだが、何度も言うがその都度、自分のデジカメに納めていた自分の食事の写真もカメラの紛失で全て記憶の中にあるだけで、自分の食べた状態のカレーをお見せできないのが残念だ。

 だけど、だいたいインドもそうだが、タリーと称する「カレーセット」が主で、ライスにカレーが三種、それにナンとチャパティがついて、ベジタリアン用で普通のお店で、50ルピーほどの安価で十分満足できる量を食べることができる。

 しかし、ネパールから深夜バスでインド国境の町、ビルガンジィーを目指した時の深夜のバスストップでの乗員一斉のタリーの食事には圧倒されて、ついては行けなかった。

 というのも、夜半8時過ぎに雨の中を出発した薄汚れたバスに身を委ねたものの、いつ何処に停まってトイレタイムがあるやら、全く検討もつかないうちに、少し眠りについていた。

 たぶん、まだ11時前だったと思うが、気づいた時にはバスは既に停車していて、周りの乗客がほとんど降りているのに気づいたので、トイレだけは行っておこうとバスを降りたら、何とほとんどの乗客が食堂に入って、一斉にトレイに乗った定食風のタリーを手早く右手で掻きこんでいる光景を目にしたのだが、時既に遅しで、勢いよく食べる集団には、到底勝ち目もないし、気づいた時には時間が読めずに諦めざるを得なかった。

 ともかく、得意の右手でのカレーの食べ方自体は、想像はしていたが、その速さと要領の良さには圧倒されるし、なかなか真似のできるものではないと悟ったのである。

 その後、自分のペースで食べられるチャンスに、どうしても右手で食べるカレーを体験しようと試みたところ、カレールゥの炊き込んだ熱さなどお構いなしで、手の平も上手に使って食べる、ネパール人たちを遠めで観察しながら、食べることができたのである。

 食事の前に手を洗うための水のボールも用意されていて、飲用と共に水をうまく利用しながら、さすがのテクニックですばやく食べる様は、芸術的でもあった。

 私は主にベジタブルタリーを中心にお腹に負担の少ないメニューを中心に選んで食したので、ネパールでの飲食物による下痢は回避できたのだろう。

 このナンとチャパティと称する小麦粉から焼いたカレーと共に食べる主食はなかなか香ばしくて、日本で食べるものとは比べられないほど旨かった。

 時には、仏教、ヒンドゥー教の国なので、牛肉は食べないのだが、水牛、つまりバッファローの肉を食す習慣があるので、進められて食べたが、少し硬くて噛み切れないものもあった。

 一番美味しかったのは、水牛のホルモンであり、心臓、胃、肝臓、は素より血に至るまで綺麗に食べる食べ方と共に、味も結構いける感じでビールや薄いアルコールの乳酸酒にも合って食べることができた。

 郷に入らずんば、郷に従え。ネパールの高級料理は食さなかったが、庶民の味は美味しかった。
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ネパール(3)

2008年08月24日 | ガリバー旅行記
 初めてのネパールは、カトマンドゥーを拠点に、のんびりと周辺のネパールらしい村々を歩くことから始まった。

 二日目の朝、ゲストハウスのあるタメル地区から歩いて、バスターミナル付近のネパール特有の春巻きとでも言うべき「momo」の店で、水牛の肉の入った餃子春巻きを食べてから、約一時間バスに揺られて、とっても長閑なネパールの山村へと向かった。

 ブンガマティと言う名の村で、村の中央部のターミナルにバスは止まったが、峠を越えて、この村に入る尾根から見た「ブンガマティ」の全景は、まるで桃源郷とでも言えないこともない様な佇まいの村で、とっても自然な地形をそのまま生かした暮らしがある集落の村であった。

 降りてしばらく歩くと、村の古びた寺院があって、その周辺では村人たちがいろんな木彫を中心としたハンドクラフトの仕事をしていた。

 子どもたちは学校に行っているらしく、少し歩くと賑やかな児童たちの声がしてきたので、学校だとすぐに分かったので、「見せてほしい」、柵越しに先生らしいおじさんに英語で声を掛けたところ、機嫌よく正門へと案内された。

 ここのプライマリースクールには、なんと530人もの生徒、児童がおり、障害児童も25人いるという。

 教室に招かれたので、簡単に「ナマステ」とシンプルな英語で挨拶すると、とっても眼力のある児童たちがやんやの喝采で歓迎してくれた。

 一緒に記念の写真をとお願いすると、これも僕も私もと賑やかな中で、何枚もの写真を撮影し、みんなでデジカメの映像を見直しては満足顔であった。

 写真に関しては、実は教頭先生だったさっきの先生にメールアドレスと住所を聞いたので、送る約束をしたのだが、後のインド旅行中にカメラを紛失してしまったために、残念ながら約束を果たすことができないことになって申し訳なく思っている。

 それにしても、盲目の少年、聾唖の少年、足のない少年と、多種多様な障害児童と共に、近くの町村からも児童たちが通っているという学校のわりには校舎は小さくぎゅうぎゅう詰めの状態の教室だった。

 日本のNPO組織の支援が、ここの障害児童の支援に使われていると聞いたが、学校運営までの資金づくりと先生たちの給料保障までは至っていないという現実も見聞きして、理想の教育のあり方は語れるが、なかなか現実は厳しいことが明らかになった。

 先生方と近くの喫茶店とでもいうか、休憩所でお茶を飲みながら雑談をしていたのだが、四人の先生が話しかけてくれて、
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パシュパティナ。

2008年08月23日 | ガリバー旅行記
 ネパールの首都、カトマンドゥーの古いバスターミナル、と言っても路上にたくさんの中型バスが客待ちをしている場所で、パシュパティナへ行くバスを探すのも難題なのだが、ここはカトマンドゥーに入って既に50日近くを生活している、友人Tatsuに任せて、同乗することになった。

 約40分くらいで郊外の田舎町、パシュパティナに到着し、早速パブマティ川に面した「火葬場」に入場するわけだが、なぜか外国人に対しては観光入場料もどきものを徴収していて、一人250ネパールルピー、つまり400円ほどを払って入場したのである。

 すぐさま、何処からか日本語を話すガイド役のような青年が現れて、火葬場の全容から修行僧の洞窟、遺体から焼き場への葬送、一日に10人から30人が、ここで焼かれるなどと説明をするのである。

 確かに布で包まれた遺体が河に突き出した木製のテーブルの様な台に乗せられており、薪と藁が積まれて点火され、モクモクと煙が上がっている様を眼下に見ていると「人の死」、つまり肉体が焼かれて灰と煙になる光景とはあまり感じない。

 川幅は約10mで、対岸へ渡って、少し高い位置から多くの観光客、見物客が近くの山から降りてきて餌を強請っているサルたちと共に、見守っていると、対岸には今運ばれてきたばかりの高僧とも思われる包まれた着衣の色が鮮やかなご遺体が水辺に静かに横たわっていた。

 昔、中学生の頃になぜか手にして読んだ「鳥葬の国」のイメージや、今回のインド、ネパールの旅の情報を得ようと尋ねた先輩からの「人が焼かれる様」を間近に見ることは大切だとの助言や、ヒンドゥー教徒が沐浴するすぐ傍を遺体が流れることもあるとの話を頭に浮かべながら、神妙な思いで凝視していた。

 先ほどの日本語の勝手ガイドの説明がうるさく感じられ、「シャラップ」と言葉を停止させて、帰ってもらって正解だった。

 他人とは言え、人を送る儀式の最中に、あれこれと説明はいらない。沈黙の中で、ご遺族と思われる家族や、友人、知人たちが思い思いに、亡骸に聖なる川、パブマティ川の水を掛けたり、花を授けたり、蝋燭の火を近づけて祈ったり、さまざまな「お別れ」の儀式をされていた。

 手前の川では、沐浴をし続ける人々や、河岸に腰を据えてずっと祈っている人たちもいて、結構音は聞こえてくる。

 一通りのお別れの儀式を終えた亡骸をもう一度川の聖水で清めた後、竹で組んだ担架で焼き場へと運ぶ様も、簡素な中でもみんなの思いが漲った、野べの送りと言った感じだった。

 白い布で覆われた小さな亡骸をゴールドの布で包み、運ばれて行った人の人生は、どんな人生だったのだろうか。想像だに出来ないが、死から葬送のセレモニーを全ての人々に公開して見せる世界は、とっても意味がある感じだった。

 ただ、山猿たちは何を思うのか、葬送と焼き場の周辺に出没しながら、隙さえあれば餌を取ろうと必死な「サル」のドライな生き方に、人間のウェットな感情など掻き消される感じでもあった。
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