年賀状は正月、元旦の楽しみだが、今日二日も年賀状が届いていて、学生時代に同窓生だった、あの「フォークの神様」岡林信康氏からの賀状も混じっていた。
彼とは同志社大学神学部に同時入学した縁で、しばらく行動を共にしたことがあり、彼がボクシング部に入部し姿を見せなくなった後、一回生の夏休みの終わった秋に、私にとっては衝撃的な彼の体験話が、大げさに言えば、今までの自分の人生の半分に影響を与えたと言っても過言ではないきっかけであった。
あの学生時代に右も左もわからないまま、若さの勢いで取得した運転免許証を活かして友達から車を借りて、岡林信康の実家である近江八幡のキリスト教会に夜道、しかも雨降る国道八号線を四人で飛ばしたことがあった。
当時、同志社大学の創立時に「熊本バンド」と呼ばれた若きキリスト教徒たちが強い情熱で行動していたことを知り、我々は「京都バンド」だと粋がって、彼の親父が牧師を勤める教会の礼拝堂で、四人で祈ったことを思い出した。
彼の年賀状は、自筆の独特のユーモラスなイラストで、どっしりとした乳牛が描かれていて、岡林信康自身と思われる麦わら帽子のおっさんが牛の尻を押していて、牛は草を食みながら「アセラナイ、アセラナイ・・・」と笑っている。
そんな青春時代の友でもある岡林信康が、今晩のNHK衛星放送のフォーク特集番組で、「山谷ブルース」、「チューリップのアップリケ」、「君に捧げるラブソング」と和太鼓、尺八、三味線をフューチャーしたのりのいい曲を演奏していた。
さすが還暦を過ぎた岡林信康なので、声や動きに迫力は感じなかったが、独特の照れ隠しの様な喋りと観衆とのやり取りは健在で、次はこのNHKホールで、「紅白でお会いしましょう」と滑っていた。
とにかく、この岡林信康君が大学一年生の夏休みに、東京の底辺労働者の町、山谷に行って経験してきたことを、後期の始まる前の京都御所の芝生の上で一時間ほど聞かされたことが、大きな私の人生での「ガリバー旅行記」の始まりとなったのであった。
真面目な学生だった私は、この話に触発されて後期試験が終わった二月のある日の夜行列車で東京の山谷を目指したのだった。
革靴に学生服姿のままの背の高いひょろひょろの青年が、翌日の早朝、山谷の涙橋の電停前の路上に「立ちんぼ」として仕事を求めて以来、一ヶ月半近い「山谷のドヤ暮らし」を経験したのであった。
岡林信康氏との縁はここに始まり、その後私が音楽業界で働くようになったのも、実は彼の所属したフォーク系の音楽事務所に友人の誘いで声をかけられて採用されたのがきっかけだったのである。
あれから四十年近くが経って、今彼の歌声をテレビで改めて聞いて感慨と共に、大きな出会いが僕を今まで生かしてくれていたことをも改めて感じた正月二日の夜だった。
岡林信康が歌う、「友よ」をその当時は真剣に歌っていた自分を思い出した。
彼とは同志社大学神学部に同時入学した縁で、しばらく行動を共にしたことがあり、彼がボクシング部に入部し姿を見せなくなった後、一回生の夏休みの終わった秋に、私にとっては衝撃的な彼の体験話が、大げさに言えば、今までの自分の人生の半分に影響を与えたと言っても過言ではないきっかけであった。
あの学生時代に右も左もわからないまま、若さの勢いで取得した運転免許証を活かして友達から車を借りて、岡林信康の実家である近江八幡のキリスト教会に夜道、しかも雨降る国道八号線を四人で飛ばしたことがあった。
当時、同志社大学の創立時に「熊本バンド」と呼ばれた若きキリスト教徒たちが強い情熱で行動していたことを知り、我々は「京都バンド」だと粋がって、彼の親父が牧師を勤める教会の礼拝堂で、四人で祈ったことを思い出した。
彼の年賀状は、自筆の独特のユーモラスなイラストで、どっしりとした乳牛が描かれていて、岡林信康自身と思われる麦わら帽子のおっさんが牛の尻を押していて、牛は草を食みながら「アセラナイ、アセラナイ・・・」と笑っている。
そんな青春時代の友でもある岡林信康が、今晩のNHK衛星放送のフォーク特集番組で、「山谷ブルース」、「チューリップのアップリケ」、「君に捧げるラブソング」と和太鼓、尺八、三味線をフューチャーしたのりのいい曲を演奏していた。
さすが還暦を過ぎた岡林信康なので、声や動きに迫力は感じなかったが、独特の照れ隠しの様な喋りと観衆とのやり取りは健在で、次はこのNHKホールで、「紅白でお会いしましょう」と滑っていた。
とにかく、この岡林信康君が大学一年生の夏休みに、東京の底辺労働者の町、山谷に行って経験してきたことを、後期の始まる前の京都御所の芝生の上で一時間ほど聞かされたことが、大きな私の人生での「ガリバー旅行記」の始まりとなったのであった。
真面目な学生だった私は、この話に触発されて後期試験が終わった二月のある日の夜行列車で東京の山谷を目指したのだった。
革靴に学生服姿のままの背の高いひょろひょろの青年が、翌日の早朝、山谷の涙橋の電停前の路上に「立ちんぼ」として仕事を求めて以来、一ヶ月半近い「山谷のドヤ暮らし」を経験したのであった。
岡林信康氏との縁はここに始まり、その後私が音楽業界で働くようになったのも、実は彼の所属したフォーク系の音楽事務所に友人の誘いで声をかけられて採用されたのがきっかけだったのである。
あれから四十年近くが経って、今彼の歌声をテレビで改めて聞いて感慨と共に、大きな出会いが僕を今まで生かしてくれていたことをも改めて感じた正月二日の夜だった。
岡林信康が歌う、「友よ」をその当時は真剣に歌っていた自分を思い出した。
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