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ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

見つかってよかった。

2008年12月05日 | ファミリーイベント
 「あーぁ、見つかって、本当に良かった。ありがとう。」である。

 実は今日の朝、仕事に出かける途中、社用車のガソリンが不足していたので、給油しようとガソリンスタンドに寄った。

 昨日借りてあったガソリン給油用のカードを何処に入れたかわからなくなり、千円分だけ給油しようと自分の免許証やカードを入れた常にズボンのポケットに入れていた名刺入れのようなケースから現金を出して支払った。

 その時には気づかなかったのだが、昼休みに昼食用の食べ物を買おうとズボンを探したのだが、そのカード入れが見つからない。

 やむを得ずポケットに入れていた小銭で昼食代は支払ったのだが、自分の大事なカードケースが車内を探しても見つからない。

 よもやと思いつつも、ひょっとして何処かで落としたのではと思うようになり、再度自分のカバン、仕事用のカバン、車内、自分の着衣のポケットなど大探ししたが見つからない。

 昼からの仕事も「カードケース」の紛失が気になりながら、雨の中を歩いていた。

 結局、見つからない自分のカードケースには、運転免許証、健康保険証、各種クレジットカード、名詞、図書館カード、現金数千円とガソリンカードなど、多種多様な有価物につながる大事なカード類が一緒に入っていたのである。

 時間が経つにつれて不安と共に「見つからなければ大変なことになる」という思いが徐々に増して、仕事をしながらも気は落ち着かなかったのは当然であった。

 三時過ぎに友人の勧めもあって最寄の警察署に念のために「遺失物届け」を提出したのだが、その時点では該当物はないとの返事だった。

 事務所に帰る途中も、だんだんと大変なことになるかも知れないとの思いが増して、携帯からクレジット会社に紛失した旨を伝え、カードの不正使用を未然に防ぐ手続きをして、一番良く使うカードとETCカードは止め再発行手続きをした。

 でも、免許証や健康保険証の紛失は厄介だと思いつつも、再発行の手続きをどうすればいいのかと頭を悩ませながら帰宅し、週末の移動有機食品販売の準備に取り掛かった。

 その時であった。携帯電話に最寄の警察署から「遺失物が見つかった」との知らせがあつた。

 免許証の不携帯となるため、すぐに取りに行きたかったが、八百屋の準備中のためもあり、頼んで家人に代わりに行ってもらった。

 警察での話では、宇治警察署前のマンションの駐車場付近で配達業務の郵便局員が発見し、目の前の宇治警察署に親切に届けてくれたらしかった。

 本当に感謝である。今時、なかなか遺失物、特にカードや大切な免許証、健康保険証など悪用されることがあっても、届けてくれて戻って来るとは思わなかった

 何とか免許証が戻って、夜にかけて営業する「移動八百屋」に間に合ったのである。ありがとう、親切な郵便屋さん本当にありがとう。

 
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繁昌亭、落語三昧。

2008年10月31日 | ファミリーイベント
 昨日のプログに記したように、健康保険の生活習慣病予防のための健康診断のために、仕事場の有給休暇を一日とって、午前中は鼻からの胃カメラの初体験を含む半日ドッグといった感じの診察、検査を集中的にやった。

 何とも言えぬ「鼻からの内視鏡胃カメラ」体験で、気分はあまり良くなかったので、昼からは気分転換も兼ねて、カネガネ行きたいと思っていた、大阪北の落語の常打ち小屋「天満・天神繁昌亭」に家内と初めて出かけた。

 二年前の五月に長年の関西の落語関係者の念願であった「天満の繁昌亭」がオープンし、連日多くの落語ファンや観光客で賑わっていると聞いていたので、私も落語好きの一人として、どうしても寄席で生の落語を思い存分聴いてみたかったのである。

 昼前に天満宮前の「繁昌亭」に着いて、早速入場券を求めたが、先客万来の様子で「補助椅子席」のチケットしか手に入らなかった。

 でも何とか初繁昌亭への入場が可能になったので、入場までのひと時を近くの日本一長い商店街と称される「天神橋筋商店街」で昼飯を食べ、落語観覧の折のちょっとしたおやっと飲み物の買い物をし、天満宮に参って入場の時を待った。

 狭くなった境内に多くの鳩が舞い降りていて、近所から鳩の糞害の苦情があるので、鳩には餌をやらないでと注意書きがしてあったが、鳩たちは悠々と境内で何かを啄ばんでいて、鳩たちにとっても境内は過ごしやすい場所のようであった。

 いよいよ天満・天神「繁昌亭」の昼席が始まり、一昨年の五月オープン以来の第百十週にあたる昨日木曜日は、桂 三段、桂 三ノ助、月亭八天と「落語」が続き、林家そめすけの「ものまね」が入って、露の団四郎、桂 春之輔で仲入りとなった。

 立て続けに「落語」を聴いていると、少し眠たくなる時もあったが、それなりに生の落語の面白さをかみ締めながら楽しんだのである。

 仲入り後のトップは、川上のぼるの腹話術があり、なんと何十年前にも見たことのある彼の腹話術を聞いていて芸人人生の悲喜こもごもを感じざるを得なかった。

 落語は、林家染弥、笑福亭純瓶と続き、とりは女性落語家、桂 あやめさんであった。

 学生時代から好きな落語であったが、還暦を過ぎた私のこれからの人生でより親しく楽しめたらいいなと思っている文化のひとつである「落語」をじっくりと聴き、自分でも真似して演じられる題目を、ひとつや二つは見つけたいと思っている。

 かつて、子供たちとのキャンプの夜などの出し物として「犬の目」や「天神さん」を真似て適当に話たことはあったが、ちゃんとしっかりとした「落語」を一度は演じてみたいと思ったのである。

 上方落語界には、笑福亭松鶴、森乃福郎、桂米朝、橘ノ園都、桂文枝、露の五郎兵衛、林家染丸、桂春団治一門などがあり、約200人もの落語家がいるという。

 ぜひ、若手、中堅、ベテランを問わず、多くの落語家の生の噺を聴いてみたいものである。
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定期健康診断。

2008年10月29日 | ファミリーイベント
 おっさんフリーターとして勤めだして一年半が過ぎて、今年一月からは政府管掌健康保険にも加入したので、いわゆる「生活習慣病予防検診」とやらを受診することとなった。

 受診費用は原則的には職場が負担してくれるのだが、仕事は有給休暇を利用して受診することとなり、今晩は早い夕食後、明日の受診までは何も飲食できないとのことで、なにやらちょっとした絶食、断食状態となるのである。

 地元の病院での受診となるのだが、日頃病院には縁のない生活をおかげさまで送っているので、少々緊張気味で明日の朝を迎えることとなりそうである。

 確かに還暦を過ぎても元気が取り柄の私だが、やはり自分の健康を過信しすぎてはいけないし、客観的な健康診断の機会を与えられたことは喜ばしいと思い、久しぶりの健康診断に赴く予定となった。

 当該病院から事前に送付されていた封書を改めて見てみると、なんと検便が二日分とあって、少々慌てさせられた。

 それなら前日の今晩と当日の朝に分けて、検便用の便を採取しなければならないこととなり、早速前日分を済ませて、明日の朝にも快便を祈って採取した後、検診に出かけることとしたが、毎日大の便通があるとは限らないので、ちょっぴし不安になった。

 まず検診では「胃透視造影検査」を受けるらしく、胃カメラを飲まされるらしいので、バリウムを飲む経験はあるが、胃カメラ体験は初めてなので、どんなものかと今から少々興味深く思っている。

 また前日の今晩は、九時以降の飲食が禁止されていることも夕食時に知って、油気の少ない食事にすることやアルコールは飲まないこととの注意書きもあり、私の場合はお酒を晩酌として嗜む習慣もないほど、めったに口にしないので心配はないのだが、お好きな方にはきついだろなと同情する。

 当日朝の持参品は、健康保険証と検便容器(一種類、二日分)と、同意書、問診票と記されていて、問診票には、喫煙、運動、飲酒、睡眠、食事についてをはじめ、最近特に自覚する症状について問われている。

 また既往症、現病歴についての記述もあり、その上、家族の病歴が父母、兄弟、祖父母、おば、おじまで記載されるようになっていた。

 同意書については、胃透視造影検査(バリウム飲用)の説明、同意であり、病名、必要性、方法、麻酔、危険性、拡大処置などが記載され、理解し、この手術、検査、処置に同意しますと患者の署名、捺印がいることとなっている。

 ついでに肝炎ウイルス検査の受診も可能で、自ら感染していることを知らない場合に病状が肝硬変や肺がんへと進行してしまう場合があると脅迫しています。

 最後に政府管掌健康保険の運営母体が問題山積の社会保険庁から全国健康保険協会に今年10月から変わると明記されていました。

 いずれにせよ、自分の健康維持のための少しばかりの目安にはなるだろうとの思いから受診はするが、何ともその効果は疑わしい限りである。

 
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父親を超える!!

2008年09月23日 | ファミリーイベント
今日は秋の彼岸の中日、秋分の日であった。

 大変天気もよく、家族そろって秋の行楽シーズンの幕開けに、娘と孫たちと共に近隣のドライブに出かけた。

 本当は先祖や父親たちの墓参りに行くべき「お彼岸の中日」だったが、たぶん墓所に向かう道は混雑、渋滞が予想されたこともあって、またの機会にということになった。

 実は今年、私は「父の年齢を超えた」のであった。

 いろいろと思いを巡らせながら、今年の夏はネパール、インドを独りで旅して、「父の亡くなった年齢」すなわち享年何歳と言われる亡くなった実年齢を超えて、元気に暮らし、活動できている自分の、これからの人生は「おまけの人生」とも言える実感がこみ上げてきたので、還暦ついでもあってインドのガンガでの沐浴を終えて、出直しの丸坊主になったのである。

 父は、明治生まれの人間で、橋梁工学の教授を最期に亡くなったのだが、私がまだ21歳の時であった。

 その当時、私の在籍していた大学でも、70年安保を前にして、多くの学園闘争と政治的デモが行われていて、私もノンセクトラディカルと言われた学生の一人だったかもしれない。

 私が生活していた当時の学生寮でも、水光熱費の不払いを巡って、大学当局ともめていて、学生たちは学生のための福利厚生施設なのでという理由で大学と交渉し続けていた。

 父は、大阪の公立大学で教鞭を取りながらの研究者であったので、どうしても学生の主張を理解し難く、私の私立大学まで、個人的に「寮の水光熱費」を払おうと出かけたことがあるらしいのであった。

 しかし、母親に「息子が主張して不払いしているのだから」と忠告されて、払わずに帰ったというエピソードを後に母親から聞いたことがある。

 父が亡くなる数ヶ月前に、私は父とじっくりと話したことがあった。

 それは、ベトナム戦争を巡っての日米の国際的な対応を背景にして、父の仕事である「橋梁工学」、つまり「橋を架ける」ことの大切さと共に、何のために橋を架けるのかについてであった。

 私は父に、「橋を架けることはとても大事な仕事だが、橋の上を泣き叫びながら戦死した父親や兄弟を探して女、子供が走るために橋があるのではないはずだ」という私なりの主張をぶつけたのであった。

 父は黙って息子である私の話に耳を傾けた後、自分の書斎に入って「沈思黙考」だったのである。

 父の死後から長い歳月が経過し、息子である私が、あの父の亡くなった年齢を超えた今、あの時の父の心境と思いを想像してみたりするのである。

 年齢は確かに父を超えたのだが、果たして人間としての中身や人生の深さはと思えば、まだまだ「父を超えられない」自分がいるのである。

 これからの人生は、父を超えた年齢の分だけ、より一層、世のため人のために、ささやかでも役立つ仕事と役割を担えるようにと心に誓ったのである。
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インディージョーンズ

2008年07月06日 | ファミリーイベント
 10数年ぶりの映画「インディー・ジョーンズ」を観た。

 ハリソン・フォードが演ずる、考古学者が繰り広げる「冒険ロマン」なのだが、ハリソンも初老の65歳を迎えての、アドベンチャーアクションは少し無理な感じもして、娯楽映画としてのフィクションストーリーはさすがなのだが、老体を気遣って鑑賞した感じだった。

 アメリカ映画の特徴である、カーレースの様なアクションに、特殊撮影を交えて、ラブロマンスもフューチャーしての娯楽超大作なので、次から次へと早いテンポで展開するストーリーに、ハリソンフォードの荒い息が聞こえてきそうな感じすらした。

 原題は、「INDIANA JONES and KINGDOM OF THE CRYSTAL SKULL」、つまりインディアナ・ジョーンズとクリスタル・スカルの王国であるが、インディシリーズの最後の作品だろう。

 レイダース 失われたアーク(聖棺)、インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説、インディ・ジョーンズ 最後の聖戦と続いた三部作から、実に19年を経ての正真正銘の最終作品だと思われる。

 ともかくインディ・ジョーンズを演ずる、ハリソン・フォードの年齢が65歳と知ると、やっばりハリウッドの看板俳優の一人とは言え、老いとの戦いであり、画面の至るところで、どうしても年齢を感じざるを得なかった。

 先ごろ公開された「ランボー最後の戦場」のシルベスター・スタローン
と比べたら、まだましだったが、最終作品でのインディー・ジョーンズの活躍は、なんとジュニアに受け継がれたようである。

 ヘンリー・”インディアナ”ジョーンズJr.として、新たな伝説と共に、インディー・ジョーンズノ物語は続くのかどうかは知らないが、どうもそんな予感すらするようなストーリーであった。

 もうひとつ疑問だったのが、冒険の行くつく最後の結末が、大きな宇宙船のような物体が映像化されていて、これもスティーブン・スピルバーグ監督作品として、ジョージ・ルーカス総指揮のタッグが、次の作品をシュミレーションしているようにも感じた。

 それにしても、この作品の舞台として、原子力爆弾が実験された、アメリカ合衆国のネバダに始まって、ナスカの地上絵で有名なペルーに飛び、そしてブラジルのアマゾン流域での、水陸両用車での大スペクタクルとロシア語らしき言葉を操る軍団との競い合いの戦いは、さすがの迫力で、アメリカ映画そのものであった。

 ほぼ20年の歳月を経て、帰ってきた「インディー・ジョーンズ」は、見事な特殊撮影と娯楽大作として立派な作品として鑑賞できたが、ハリソン・フォードの年齢だけは隠すことが出来なかったようである。
 
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「母べぇ」を観た。

2008年02月14日 | ファミリーイベント
 バレンタインデイに、山田洋次監督、吉永小百合主演の「母べぇ」を家人と二人で近くのシネコンに車を走らせて鑑賞した。

 夕刻の上映時間にも関わらず、観客は中年夫婦と思われる三組と若い男性の一人、計七人だけであった。

 上映時間前に観客席に入り「貸切状態」だと思ったのだが先客がおられ、偶然にも良く知っている近くに住むご夫婦がおられて、「日頃は近くにいてもめったに会わないのにね」とお互い苦笑しながらの鑑賞であった。

 テレビの芸能ニュースでは、山田洋次監督と主演女優、吉永小百合さん、助演男優の浅野忠信さんがドイツのベルリン国際映画祭に出席のために、この「母べぇ」を持って出かけている時に、私たちは観る機会を得たのである。

 正月明けに観た「続三丁目の夕日」とは違った日本の原風景としての、昭和十年代の戦争へ突き進む「帝国日本国」の状況下で、「治安維持法違反」の罪で夫のドイツ文学者を逮捕された妻佳代が、吉永小百合の役であった。

 つつましげに夫の無実を信じて、二人の女の子の成長を楽しみにしながら頑張っている吉永小百合の家に、坂東三津五郎演じる「野上滋先生」の教え子、山崎徹として浅野忠信がやってきて、何かとこの家族の世話をやくのである。

 そのうち、夫滋の妹野上久子を演ずる壇れいが加わり、まるで夫のいない家庭なのに、楽しげな一家団欒の家庭の様な毎日が続くのである。

 実は、浅野忠信演ずる山崎徹は、「母べぇ」こと野上佳代に好意を持っていることを、義妹の「チャコちゃん」は気づいているのに、母べぇは夫への変わらぬ愛情に満ち溢れているのである。

 戦時下の「贅沢は敵」「お国のために」全てをささげることを強いられた時代に、シナ事変と称された「日中戦争」を「聖戦」とは呼べない野上滋は、なかなか釈放されることがなく、「非国民」のレッテルを貼られて、佳代の父である警察署長もたびだび父として佳代に警告を発する。

 とにかく「三丁目の夕日」に描かれた貧しくとも、復興の兆しが見え、どんどんと街が元気になって行く昭和30年代以降の時代背景とは全く違う、暗くて重苦しい時代の中で、代用教員をしながら初子と照代という女の子を女手ひとつで育てていく「母べぇ」を演ずる吉永小百合は、やはり美しい。
 
 戦後生まれの私たちにとって、戦前、戦中の重苦しい時代の実感はないが、どんな時代にも「心から信ずる気持ち」を大切に、つつましくても「家族の絆」を大切に生きる、日本人の姿を、山田洋次は描きたかったのだろうと納得した。

 美しい野上佳代を演ずる吉永小百合が戦中に獄中の夫、滋を亡くしてもなお子育てに生き、戦後子供たちに看取られて亡くなる場面には、実母のことを思いながら涙をこらえることは出来なかった。

 映画鑑賞後自宅に戻ると、91歳の実母から「あんた元気にしてるか?」「大丈夫か」と電話があった。

 
 

 
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老いた母と初詣

2008年01月13日 | ファミリーイベント
今日は、昨秋から老人ホームに入居している、年老いた母を尋ねて今年二回目の訪問をした。

 昼食を済ませた母を散歩がてらに誘って、車で走り出したのだが、行く宛が定まってはいなかったので、私自身の昼食もかねて、お茶と軽食がいただけるような小奇麗な喫茶店でもと探していたが、もう初詣の参拝客も少ないだろうと、近くの住吉大社へと向かった。

 何とか待たずして駐車場にも車を停めることができて、母の手を握って懐かしい住吉大社の境内へと足を進めた。

 なんとも美味しい匂いが漂っていて、たこ焼き、いか焼き、焼きそば、ミニカステラ、お好み焼きと所狭しと屋台が店を並べていて、お腹の空いた自分には、参拝よりも何か食べたいという気持ちにかられたが、まずは参拝と本殿に足を向けた。

 やはり境内に入ると人が多く、奥の本殿の正面には人だかりが出来ていて、さすが大阪一有名な住吉大社は、参拝客の多さが違うと思ったのだが、本殿ではちょうど、白無垢、文金高島田の花嫁と紋付はかまの新郎の結婚式が執り行われていたのである。

 二百人近くの見物人の様な人だかりの中で、何やらちょっと違った雰囲気だと感じつつも、式が進行する本殿の最前列にある「賽銭箱」に硬貨を投げ入れながら、新郎、新婦を見守った。

 ところが、司会の宮司の弁を聞いていると、今回の結婚式は「模擬結婚式」だそうで、そう言えば両家の参列者席の人たちの服装が普段着だったことと、三々九度の杯を交わす場面でも酒は注がれておらず、「住吉大社での結婚式」の宣伝のためのデモンストレーションであった。

 イケメンの新郎と美人の新婦、いずれもモデルさんの様な顔立ちで、とっても様になっていて、宮司さんたちがマイクで紹介しながらの式の進行であった。

 参拝客の多くは最初は本物の結婚式と思って、静粛な中で投げ銭も慎んでいたのだが、結局模擬式典と知って少しざわつき出して、お賽銭を投げる人も何人か出てきた。

 正月早々ではあったが、縁起のいいものを見せていただいた感じで、社務所に立ち寄って、母が私の干支のお守りやひ孫たちの入学と成長を祝うお札を購入し、お宮参りを午前中に済ませたであろう私の姪と昨年暮れに産まれた赤ちゃんにあやかっての初詣となった。

 老いた私の母は、昔はよく行っていたと回想していたが、私はほとんど初詣などに行った記憶はなく、住吉大社といえば太鼓橋と言われるほど有名な赤い欄干の急な角度のタイコ橋を、母の手を引きながら、たぶん半世紀ぶりに渡ったのではないだろうか。

 たぶん半世紀前には、母に私が手を引かれて渡ったはずの「太鼓橋」を、逆に母の手を引いて渡っている自分に少し感動を覚えながら、いい初詣ができたと満足であった。

 実は私はクリスチャンで、神社仏閣には歴史的建造物として見学に行き、ついでに手を合わせることにしているのである。
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実家の大剪定!!

2007年11月05日 | ファミリーイベント
昨日の日曜、大阪の実家の道路に面した、とんでもなく茂った植木の剪定の立会いを兼ねて母に会いに行った。

 昭和10年に建築された私の実家は木造二階建てだが、母と父が昭和12年以来、何と70年間も住んでいた家なのである。

 と言っても、父が1969年に亡くなったために、母は38年間は一人暮らしをしていた家なのだが、90歳になる母が近くの有料老人ホームに入居したために、空き家となったのである。

 母は数年前までは実家で、趣味の楽しみで何人かの方々に「先生」としてお茶とお花を教えていた程で、裏千家の教授と未生御流の師範だったのである。

 実家の玄関先から間口一杯に、母の大好きな植栽が植えられ育っていて、たくさんの植木鉢やプランターも処狭しと並んでいて、毎日の様に母は「水やり」を日課として楽しんでいた。

 母が有料老人ホームに入居したので水やりをする人もいなくなり、長年伸び放題に近かった実家の植栽を思い切って剪定、伐採することとにしたのである。

 そこで、大阪のシルバー人材センターに依頼したら、昨日の朝から4人の作業員が植木仕事のチームとしてやってきて、大量の植木類の伐採、剪定にとりかかってくれた。

 我が実家の表の玄関先の石垣の上には「貝塚」が整然と並んでいたが、親父が亡くなった後に手入れが行き届かなくなり全部伐採し、青色の柵を立てていたのだが、それが見えない位に樹木が茂り、公道に1m近くはみ出していたのである。

 そこで、「楠木」や「むくげ」、そしてオリーブ、バラ、アジサイなどの樹木を思い切って伐採もしくは剪定してもらい、実家の一階の雨戸や二階の屋根も見える様にしていただくことになった。

 朝から4人がかりで作業をし、10時頃からは私も手伝い、結局昼休みを挟んで午後4時近くまでの作業で、何と大きなビニール袋40以上の葉っぱや枝が「剪定ゴミ」となり、チェーンソーや鋸で短く切った太さ10センチ以上の幹も10括り程になった。

 剪定ゴミの大半は大阪での処分が難しいので、愛用の軽のワンボックスに詰め込んで、重たさ故に怖る怖るの運転で走って京都まで持ち帰った。

 この数時間の剪定、片付けの作業中、見知らぬ数人の道行く人が私に声をかけて下さったのが印象的であった。

 今は、この家に住んでいない母の姿を知っておられ、口々に母の植物好きだったことや元気な様子を懐かしく語ったり、現状を尋ねて下さったのである。

 実家の石垣の上は恥ずかしい程に、茂っていた植栽がなくなり、実家の家の全貌が久しぶりに見える様になり、母のいない家を懐かしがってくださる近所の方々に、如何に母が多くの人に励まされ支えられて生きて来れたかを、まざまざと実感する機会ともなった。

 ありがとう、母。そしてご近所の皆さん。多くの植木たち。ご苦労様でした。大阪シルバー人材センターの作業をしていただいた皆さん。感謝でした。
 
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秋の夜に思うこと。

2007年09月16日 | ファミリーイベント
 残暑厳しい今日だったが、私たち4人兄弟の母が、70年近く住み慣れた大阪の家から同区内の有料老人ホームへと引っ越したのである。

 数年前から少し認知症的傾向が出だした今年91歳になる母だが、みんなで数ヶ月間話し合って母にも了解を得たとは言え、なんとも忸怩たる思いを残しての「引越し」となった。

 暑い夏を乗り越えた母は、若い頃からの耳の不自由さを除けば、いたって元気な90歳なのだが、物忘れやお金の管理など、いろいろと大変になってきたのである。

 我々の父、すなわち夫を亡くして今年で38年目の母は、長年の独居にもめげず元気に暮らしてきたが、ここ数年は「さびしさ」と認知症のお陰で、いろんな小さな事件を起こしていた。

 他人様には気にならないことでも、身内にとっては何とも情けないと言おうか、どう表現すべきか、笑うしかない様なことも数々生じた。

 私は母の住まう実家から車で約一時間ほどの地方都市に住んでいるが、最近の母は私が心配の種になる瞬間があるらしく、よく突然電話がかかってきて、「あんた生活に困ってないか」「仕事はあるのか」「家はどうなっているのか」などと矢次早やに一方的に尋ね、「私の家は広いから一緒に住んでもいいよ」と、同居しようと、私を誘うのである。

 私もマジで、「お母さん大丈夫やで。僕には奥さんもいるし、家もあるし、仕事もしてるから」と答えているのだが。

 電話から二日が経って、直接実家で顔を合わせると全く電話で話したことは忘れていて、「みんなが元気で幸せだったら、それが一番!」と口癖の様に言うだけなのである。

 そんな母の日常生活と今後の介護や年齢のことを考えて、兄弟で「有料老人ホーム」への入居を決めた次第なのである。

 身の回りの荷物や日頃使っていた茶器セット、テレビ、丸テーブルなどを新しい母の居住する部屋に運んだ後、日頃何かとお世話になっていた実家の隣家に、母と兄弟4人揃って挨拶に行った。

 永久の別れではないのだが、お隣の老いたご主人も、母の姿に感極まるものを感じられた雰囲気で、私たちもお礼を言いながら言葉にならない感動を覚えた。

 夕刻、新しい部屋で、補聴器をつけた母と話をしながら、これからの母の生活を思い、「元気に仲良く暮らしてね」とメモにしたためてきた。

 夕食を嬉しそうに食しながら、「いろいろとありがとう」と言いつつ、僕を目で見送ってくれた母の姿に、後ろ髪を引かれながら秋の夜を複雑な心境で家路についた。

 卒寿を迎えた母の人生に、幸多かれと祈ると共に、私たち兄弟が母にできることと、自分達の人生を再びしっかりと考えたいと思った。

 坂本龍馬は、「世の人は我を何とも言わば言え、我が成すことは我のみぞ知る」と語ったそうだ。



 
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ついに還暦、60歳の誕生日。

2007年07月11日 | ファミリーイベント
 何と嬉し恥ずかし60歳、還暦といわれるお誕生日をついに迎えてしまった。

 まだまだ若いつもりだが、社会的には60歳というと一部高齢者いや老人の仲間入りをする年齢として認識せざるを得ない「とし」になったのである。

 自分自身にとっては、「還暦」という響きがピンと来ないと言っても過言ではないくらい不自然であり可笑しいくらいである。

 私の場合、父が還暦になった翌年に急逝したので、何やら自分が父の「生命」より、もう少し経つと長生きすることになると思うと、改めて複雑な心境にもなる。

 明治の末期の生まれの私の父親の世代と、現代の戦後生まれの我々団塊の世代と呼ばれる世代とでは、ひょっとしたら見た目だけでなく年齢から来る印象だけなら、1.5倍ほど「年齢」を感じる風情が違っていると言われる。

 すなわち60歳になっても、極端に言うと昔の40歳前後の年齢の取り方とも言われている。

 しかし、干支の12支が五順して基に戻ったことを還暦と言うのであるから、再スタートであり、新たな生命を与えられたのと同じなわけである。

 私の場合は自分の父が60歳で亡くなっているので、余計に60歳以降の「生」は実父を越えるという意味もあり、新たな「おまけ」とでも言えるような「いのち」なのである。

 すなわち今までもそうであったが、それ以上に「与えられた命」に対しての感謝と共に、親、兄弟、妻をはじめとして、子供たち、孫達、多くの友人、知人たちに直接あるいは間接を問わずに支えていただいたお陰である。

 実は二卵性双生児の私の妹も当然、今日60歳の還暦の誕生日を迎えた。

 今夕、家族で還暦の誕生日を祝う晩餐の時を持った。

 妻と娘夫婦と二人の孫達の6人での楽しい夕食の時であった。

 ローソクが一本の誕生日ケーキに火を灯して、新たな与えられた命を有意義に、しかも楽しく活かす生き方を祈らざるを得なかった。

 沖縄に住む息子夫婦からも誕生日おめでとうメールと、プレゼントが届いた。

 娘夫婦と五歳になるK君たちからは、たくさんの赤いグッズと光るクラッカーとクス玉の「おめでとう」垂れ幕も、部屋を暗くして「ぱーン、ぱーン」と賑やかに貰った。

 まだ3ケ月ちょっとの二人目の孫のR君は、目をぱちくり見開いて見ていたかと思うと、すやすやと眠り、またけたたましく泣き声をあげる元気なところを私に見せてくれた。

 家族が健康で幸せに過ごせていることが何よりもの喜びであり、感謝である。

 私の新しい「いのち」に、これからも皆さん懲りずに付き合ってくださいませ。よろしくお願いいたします。神妙かつ大胆に楽しく。
 
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