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ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

『カローリング』初体験。

2009年11月01日 | ファミリーイベント
 何故か昨日の好天からうって変わって、今日は昼ごろから雨模様で、午前中から大阪へ母を訪ねて出かけたのだか、夜には孫のK君の付き添いで、市内の小学校の体育館へ「カローリング」に出かけた。

 彼か幼稚園の年長さんだった6歳の頃に初めて、「ニュースポーツ」として始めて体験したらしい「カローリング」なのだが、月に一度は市内の体育館で夜二時間ほど練習をしているので来てみたらと誘われて、都合がつく限りは父ちゃんと一緒に出かけて腕を磨いていたらしいのである。

 今日の雨のために父ちゃんは仕事の都合で出かけてしまったために、じぃじにお鉢が回ってきただけなのだが、小学2年生の彼にとってはぜひ参加したい「カローリング」の練習のために、初めて私が付き合いと付き添いを兼ねて、雨の中を七時過ぎに会場の小学校の体育館へと向かった。

 だいぶ早く会場の体育館に着いたので、市の体育協会の体育指導員の数名の方のお手伝いをしながら、「カローリング」のコートの設定を、テープを貼ったりしてしたのだが、八歳の彼も年配の大人の中で、一人準備のお手伝いもしていた。

 私は聞いてはいたが、初めての参加なので、孫の指導による練習もしながら、順次雨の中だが来られる私よりもご年配の方々の到着を待ちながら、だいだいの「カローリング」のゲームの進め方と体育館のフロアを滑らせて的の近くに運ぶ力の入れようやテクニックを教わった。

 全くの初心者なのだが、ゲームの進め方は簡単に会得できたので、三人一組でのAチームとBチームの対抗戦としての試合に早速臨むこととなった。

 二年以上の経験から、とっても自信を持っている八歳の孫のリーダーシップに従いながら、私なりに適当にフロアを滑らせて、三人での的に近づけるコツを考えながらゲームを進めた。

 一回戦はK君と70歳代のおばさんと私の三人一組だったが、何とか上手に相手チームに勝る成績、得点を挙げることが出来て、見事勝利したのであった。

 二回戦は、私も慣れてきて、益々的に近く滑らせるための力の加減が分かりだして、彼の指示や拍手も手伝って、再び大差で勝利してしまった。

 あの冬季五輪で氷上のチームプレイとして「青森チーム」が活躍した「カーリング」になぞらえて、発案されたと思われる「カローリング」は、年中平らなフロアがある体育館などで出来るスポーツで、老若男女が楽しめる競技である。

 しかし、よく見てみたら、十数人の今夜の競技者の中で最年少の小学二年生の彼は、私も含めて自分のおじいさん、おばあさんやそれ以上の老人たちと一緒にスポーツを楽しんでいる変わった少年ということであった。

 日曜日の夜とはいえ、幼児や小学生の参加は他になく、周りの年配のおばさんたちから「K君上手ね」と言われながら、得意げに「カローリング」に興じる少年の姿に私も励まされて楽しく初体験が出来たのであった。

 ファーストラッキーとでも言うべきかもしれないが、二戦とも勝利したK君のチームに私も大いに貢献できたと思う初カローリングであった。
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「孫」と「母」の手をひいて。

2009年09月23日 | ファミリーイベント
 昨日、いつものように母のいる大阪へと妻と娘と孫二人を連れて一緒に行った。

 一昨日が敬老の日で、今日が秋分の日だということもあって、ちょっとした「親孝行」のつもりもあって、元気な二歳半の男の子ともうすぐ八歳になるお兄ちゃんを連れての老人ホームへの訪問だった。

 昼下がりの住宅街を母を誘って散歩に出た。

 一ヶ月前に「閉塞性黄疸」のために緊急入院して、処置をしていただいてから約三週間で退院した母だが、実年齢が今年の暮れの誕生日を迎えると、なんと93歳になるという長寿の母の健康のためもあっての「近くの公園への散歩」であった。

 近くの公園までは二百メートルほどの距離だが、辛うじて自分で杖もつかずに歩ける母の手をとって、ゆっくりと一緒に歩くのであった。

 もうずいぶん前から、こうして母の手を軽く握っての散歩を時々しているのだが、よーく考えると幼き頃、逆に母に手を握られて歩いていた頃のことを、もうすっかりと忘れている自分に気づきつつ、なんともちょっとシャイな気持ちになることがある。

 そう言えば、妻の手も、もちろん娘の手も最近握ったり、手を繋ぐことがないことに気づきつつ、何かあっても、ちょっと恥ずかしさとテレもあって、素直に手を差し出すことが出来ない自分に気づくことがあった。

 母のやわらかく年老いた手のぬくもりを感じながら、公園からの帰途は右手に母の手、そして左手は孫の手を握って歩いていた。

 右手につながれた老母の手は、92歳の年齢を感じさせない『苦労の手』、そして左手には、2歳と六ヶ月の元気なやんちゃ坊主の孫の手である。

 なんとも不思議な感触が両手から伝わってきて、ともかく「幸せ」な散歩のひと時となった。

 男性、女性の性別はともかく、それなりの大人になると、恋する時代を除いては、なかなか人と人が手を繋ぐことが少なくなってしまうのだが、やはり「人間の手」は、「手から手へ」と感じる温もりや優しさが直接感じられていいものである。

 決して「孫の手」だけでなく、突然「手を繋ぐ」とビックリされるかも知れないが、たまにはチャンス?があれば、妻や娘や友人たちの出会いの際にもね「手を繋いで」みたいものである。

 男同士や、久しぶりに会った友人たちとは、「握手をする」ことはあるのだが、一緒に歩いたりする時に「手を繋ぐ」ことは全くない。

 野山や自然の中を散策する時などは、自然にお互いを思いやって「手を差し伸べる」チャンスがたくさんあるようにも思うが、日頃の習慣になってしまっているためか、なかなか素直に手を出せない場合が多いものである。

 余談だが、鳩山由紀夫新首相が、初の外交日程としてのアメリカ訪問の旅に出て、政府専用機と思われる飛行機のタラップを降りる時に、幸夫人と手を繋いでおられる光景を見て、ちよっと羨ましくもあり、ちょっとした勇気が必要だとも思った。

 母の手と孫の手だけでなく、妻や娘ともたまには「手を繋ごう」と思った。
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たまにある溜飲。

2009年09月13日 | ファミリーイベント
 本日、我が阪神タイガースが待望のセリーグ単独3位に浮上したようです。
 
 夏の甲子園を高校野球に明け渡しての「死のロード」で、今シーズンは勝ち越し、一時は3位のヤクルトスワローズとのゲーム差が10ゲーム以上離れていたのに、ヤクルトさんが負け続けてくれたお陰で、7連続同一チーム勝ち越しもあって、俄かに「クライマックスシリーズ」への出場枠の3位以内に入れる可能性が出てきて、盛り上がってきました。

 そして今晩の勝利で、デイゲームの3位ヤクルトが負け、5位広島も負けてくれたので、堂々と単独3位に「阪神タイガース」が浮上したのです。

 3位と言っても勝率が五割に満たない、ちょっと恥ずかしい成績なのですが、とりあえずクライマックスシリーズへの出場権を獲得できる3位になったので、とりあえずは喜ばしいことなので、「乾杯しょう!」ということで、「飲むでぇー!」との声がかかったのでした。

 私は二階の自分の書斎兼パソコン事務部屋にいたのですが、やっぱり気になる阪神タイガースの試合経過は、時折携帯電話やパソコンで確認を取りながら仕事をしていたので、横浜相手に僅少得点差1点で、抑えの藤川球児が登板しているところまでは知っていました。

 そうこうしている内に、娘からメールが届いて、「阪神単独3位!」との知らせに続いて、妻からの「乾杯!」のお誘いなのでした。

 阪神タイガースファンのありふれた毎日なのですが、ここ連日はやっぱり試合経過や結果が気になる日々が続いていて、たかが3位か4位というシーズン後半戦での位置に過ぎないのですが、巨人のセリーグ制覇はほぼ確定ですので、せめて最後の日本シリーズへのセリーグ代表選考を兼ねた「クライマックスシリーズ」を戦う権利だけに望みを繋いでの応援が続いていたのでした。

 まだまだ最終結果が出たわけではないのですが、オールスター前後には全く今シーズンの希望を失いつつあった「阪神タイガース」にとっては、1985年日本一になった年にファンによって道頓堀川に沈められた「カーネルサンダース人形」が24年ぶりに発見され、先日阪神甲子園球場付近でお披露目されたことで、「カーネル・サンダースの呪い」、すなわち阪神タイガースが日本一になれない怨念が解けて、今回の3位浮上も実現したと思われています。
 
 いずれにせよ、今シーズンの我が阪神タイガースの戦いぶりは不甲斐ない一語に尽き、真弓新監督の下での最初のシーズンなので何とか有終の美を飾っていただきたいと、ファンの一人として祈るばかりです。

 老齢化した選手層の中で、金本、下柳、矢野、檜山といったアラフォー世代が何とか活躍している現在ですが、今岡誠選手がいないのがとってもさびしい限りです。

 さて、ささやかに溜飲を下げる、たまにしかない阪神ファンのひと時です。明日への英気を養うためにも。
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大好きな球技。

2009年08月12日 | ファミリーイベント
 夏の甲子園は、誰もが知らぬ間に自分の生まれた都道府県のチームを応援したくなる、真夏の高校球児の憧れの祭典でもある。

 今年の夏の高校野球は、雨のために二日間も同一ゲーム、広島の如水館と高知高校の試合が途中で中止、再試合という高校野球史上初の出来事もあって、出鼻をくじかれた感じだが、漸く順調に一回戦の戦いが進みだした。

 しかし、私が住む京都代表の「龍谷大平安高校」は、今日残念ながら一回戦で敗退してしまった。

 小学二年生の孫のK君は、知ってる漢字があったので、京都代表になった「平安高校」を、何と「ひらあん」と読んだ。

 阪神タイガースファンの彼にとっては、好守巧打の平野選手の「平」とエースであるべき安藤投手の「安」だから、「ひらあん」とは読めるのであった。

 平安高校が緒戦で敗退してしまったので、今度は私の出生地の大阪代表の「PL学園」を応援するしかないだろう。

 今晩の京セラドーム大阪で行われた、阪神、中日戦ではタイガースのPL出身の桜井広大選手が代打で左中間に大きなライナー性の飛球を飛ばして三塁打として、勝利を決定付ける二点を七回に奪っていた。

 いずれにせよ、私は野球が大好きで小学生の頃から草野球チームを作って、捕手、投手、一塁手などをして大いに遊んでいた。

 球技といえば、小さな玉で遊ぶ「パチンコ」から、大きなバスケットボールまで様々だが、野球の次には「ボウリング」が好きになった。

 ちょうど、私たちが大学生の頃に、最初のボウリングブームが起きて、特に女性プロポーラーの「中山律子」さんや須田加代子さん、並木さんという三羽ガラスが、テレビの「ボウリング番組」で活躍し、特に「中山律子」さんは抜きん出た実力で、たぶん日本の女子プロポーラーとして最初の300点の完全試合を達成したはずである。

 最初から「ストライク」を連発し、最後のフレームの3投までストライクを続けて、とびっきりの笑顔でゲームを終了した画像が今も脳裏に残っている。

 野球も40代までは、知り合いの草野球チームに加えてもらったりして時々ゲームに参加していたが、思うようには打てなくなり、学生時代にはまったボウリングは、歳を重ねてもある程度は出来るので、これからも時々ボウリングは楽しみたいと思っている。

 他にも球技はたくさんあるが、どうも「ゴルフ」ってやつは、若い頃誘われて何度がコースにも出たが、自分には不向きなスポーツだと感じて、40代以降は一度もしたことがない。

 したことがないと言えば、冗談ぽいが、小さな銀の玉を打つ「パチンコ」も、スポーツとはいえないけれど、東京で音楽関係の仕事をしていた頃は、時々帰宅途中に、ちいさな子どもの土産をとしたことがあったが、京都に帰っては全くしていない。

 「球技」は多種多様にあるのだが、自分に向き不向きがあるようで、テニス、バレー、ハンドボールなどをしたことはあるが、野球、ボウリング以外では「卓球」くらいしかしないようになった。

 
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墓に「ひまわり」

2009年08月02日 | ファミリーイベント
 8月に入って最初の日曜日、天気がよければ「墓参り」と決めて、朝目覚めてから、大阪の母に電話をして、昼過ぎに迎えに行きました。

 8月の「墓参り」は恒例なのですが、今年はまだ「梅雨明け」していないそうで、天気が心配でしたが、なんとか昼からは雨が降りそうでないので、「瓜破霊園」にある、私の父、兄、そしてご先祖様の「墓参り」に母を連れて行ってきました。

 「お盆」が近づくにつれて、周辺の花屋さんや仏事用具店の「墓花」は値段が上がって、お墓にいける緑のサカキや白、黄色の菊や「仏事用」の用意された「仏花」などは、何と一対で1000円以上、中には2000円もするものもあります。

 私は、いつもは「墓参り」する日に、近くのお花屋さんか、墓地近くの母が馴染みの花屋さんで、「墓前用」の花を調達するのですが、あまり「仏花」として、セットされた花や緑が好きでないので、適当に「明るい季節の花」を選んで、墓前に飾るようにしています。

 今回は、一番花屋で目についた「向日葵」の花をメインに選んで、その周辺にピンクとしろとブルーの小さな花をあしらったアレンジメントを、父の墓前用に作っていただき、他の二つの墓石用は、シンプルな小さな白と黄色の菊にしました。

 今日の日中の炎天下は、母にはきつかろうと思ったので、大きな墓地の中の木陰に車を停めて、母にはしばらく、車内で休憩してもらっている間に、私が「墓の大掃除」をしました。

 なにせ、昨年の大晦日に行って以来、春のお彼岸にも行けなかったために、小さな墓地とは言え、雑草が茂ってしまっていて、約1時間は汗びっしょりになって、「草抜き」をしました。

 雨が比較的続いていたお陰で、雑草も比較的たやすく抜けて、墓地の横道に三山ほどの「雑草の山」が出来ました。

 バケツに汲んだ水を墓石と灯篭の石に十分にかけてから、母を迎えに行って、二人で、父と兄の墓石と、祖父や祖母の眠る墓石、そして「先祖代々の墓」の三つにお参りしました。

 92歳になる母は、腰を屈めて、ちょっと残っていた雑草を摘みながら、墓前に進んで、なにやら「健康で幸せに正しく」と祈っていました。

 幸いにも高齢ながら、健やかに過ごしている老母ですが、耳がほとんど聞こえないために、一人ぶつぶつ言いながらの「墓参り」となりました。

 それでも、帰りには「お墓参り」が出来て良かったと喜び、「また今度行こうね」と行ってくれました。

 汗びっしょりのシャツを着替えてもほとばしる汗を沈静化させようと、帰路の途中に喫茶店に立ち寄って、冷たいデザートとジュースを飲みました。

 やはり、日本の夏、お盆が近づく、この季節には「先祖や身内の墓」に参らなければ、気持ちが落ち着きません。

 40年前に他界した「父の面影」を思いつつ、青空に元気に伸びる「向日葵」を墓前に飾った私ですが、「ひまわり」の花言葉は、意外にも「あこがれ」「私の目はあなただけを見つめる」「崇拝」「熱愛」「光輝」「愛慕」だそうです。
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「ハリポタ」も6作目。

2009年07月30日 | ファミリーイベント
 「ハリー・ポッターと謎のプリンス」を観た。

 今日、仕事仲間に「ハリポタ」の新作を今夕に観にいくと行ったら、小学2年生の男の子を持つママでもある同僚が言うには、前作を観にいった時は面白かったと言っていた息子が、テレビでの上映を観ようとしたら、「見たくない」と言ったというのである。

 何故かと思って、問いただしてみると「怖いから」と一言。

 まだ幼い小学生には、やはり「ハリーポッター」は、おどおどしく怖い映画なのかもしれない。

 妻と一緒に行ったのだが、孫のK君を連れて行ってくれる予定ではなかったのかと娘からのメールがあったそうだが、ファンタジー小説ではあるが、まだまだ小学低学年には理解が難しいし怖い場面があるのではないかと思った。

 というのは、私自身が映画を鑑賞中に「鳥肌が立つ」場面があって、背筋も寒くなる感じで、大人でも怖くなる場面が確かにあるからであった。

 今までの5作、たぶん全て観ているのだが、途中必ずと言っていいほど目を瞑ってしまう場面があったり、暗いシーンが続くと眠たくなることもあったと記憶している。

 ハリー・ポッターも少年時代のクリフ君と違って、ずいぶん大人びた感じに成長しているし、あのかわいいハーマイオニー役のエマ・ワトソンも美しい娘に成長著しく、ロン役のルバート・クリント君や悪役のドラコ・マルフィー役も青年となっていて、雰囲気が大きく違っている。

 ハリー・ポッターの最初の物語として映画化されたのが「ハリー・ポッターと賢者の石」で、今から8年前の2001年だったから、無理もないのである。

 かわいい悪がきと少女だった、ハリーとロン、そしてハーマイオニーの三人がボグワーツ魔法学校に入学した時の初々しさと子どもらしさは、今は昔の感じであり、余計にストーリーの展開も難解であり、子どもには分かりにくく怖い作品となってしまった感があると思われる。

 それに加えて、今回の作品を通して感じたのが、「呪う」とか「嫉妬」とか「逆襲」といった人間社会にある相克とでもいうべき「どろどろした」心の葛藤や戦いに終始していたと思うのである。

 確かに、人間の心の裏表には、そうした感情はつき物なのだが、せめて子どもたちの「夢」や「ファンタジー」としての空想の世界を描く「小説」なのだから、脚本や演出で、もう少し心温まる話や描写があってもいいのではないかと感じた。

 せっかくの「子どもたちの夏休み」だけれど、中学生以上だと問題なく理解できたり怖がったりはしないだろうが、小学生には難解でもあり怖い映画となってしまっていたことは残念である。

 当然、イギリスの作家、JK、ローリングの傑作ファンタジー小説の映画化としては忠実なのだろうが、2作目の「秘密の部屋」、3作目「アズガバンの囚人」、4作目「炎のゴブレット」、5作目「不死鳥の騎士団」と出演の子どもたちが大人に近づくに連れて、内容が暗いイメージと恐怖感を抱く作品となってしまったと感じたのである。

 
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『誕生日』なんです。

2009年07月11日 | ファミリーイベント
 本日は、私の誕生日なんです。

 いくつになっても誕生日とは不思議とうれしいものですね。

 昨夜12時過ぎに金曜深夜放送の「探偵ナイトスクープ」を観ていたら、携帯にメールが届いて、「お誕生日おめでとう!!!」と娘からのメッセージがあった。

 朝起きて、妻が「おめでとう」と挨拶してくれた後、私が仕事に出かけた直後の携帯に妻からのメールが届いた。

 「おめでとう」とさっき口頭での「おめでとう!」とは違った絵文字付であった。

 昼前に沖縄にいる息子の彼女、つまりお嫁さんからの「祝お誕生メール」が届いた。

 そして、昼休み前に、息子からめったにかけて来ない携帯電話があり、ちょっとはにかみながらのおめでとうコールとなった。

 家族からのメールと電話に励ましの祝福を受けて、有機八百屋で移動中の自家用車の中で、とっても幸せな気分であった。

 車を走らせている途中に、何故か「八百屋の備忘録」のスタートの日が今年の4月10日だったことから、小学校一、二年生の懐かしい今は亡き恩師の誕生日を思い出してたら、小学生時代からの親友で今は広島に住むTから突然の「お誕生日お祝いメール」が届いた。

 夕刻、八百屋の仕事を終えて、みんなに「祝誕生日メール」への「ありがとうメール」を返信し、娘には電話をしたら孫が携帯に出て、「おめでとう!」と言ってくれた。

 それだけのことなのだが、この日が自分の誕生日だと覚えてくれている家族、友人がいることが、とても嬉しい。

 92歳になっても健やかに元気に暮らしている実母からは、ここ十数年以上、誕生日のコールも何もないが、逆に私にとっては私を生んでくれた母が、今もこの世に元気に生きていてくれるだけで幸せなのである。

 誰にも誕生日はあるものだが、なかなか多忙だったり、自分の仕事や生活の煩雑さの中で、他人の誕生日をお祝いしようという気持ちすら失せて、なかなか電話やメールも出来ない人も多いのではないだろうか。

 私も出来る限り、家族、兄弟、知人の誕生日で覚えている日にはメールか電話をしようと思うのだが、ついついその日には忘れてしまうことが多い。

 夕刻、携帯にメールを寄こしてくれた親友は、「お礼のメール」に対して、「会いたいですね」とまたもや返信をくれた。

 人生は一度しかないのである。

 思った時が吉日だと思うので、何とかこの夏、彼に久しぶりに会いに行きたいと思った。

 そして、明日は「誕生日ディナー」をどうしようかと考えて、家人も娘も私も昼間は別々の予定が入っているので、夕刻集合できそうなら、私自身がディナーを料理しょうと思った。

 自分の誕生日に「お祝い夕食」を自分で調理するなんて、生まれて初めての経験となるのではないだろうか。

 美味しく家族と共に食べる自画自賛のお祝い夕食が楽しみである。
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大晦日、除夜の鐘。

2008年12月31日 | ファミリーイベント
 いよいよ2008年も最終日、12月31日、大晦日である。

 今朝はなんともけったいなカミサンの悪夢で起こされてしまった。

 何と、私が孫を連れて行って、どこかで孫を誘拐されたというのである。

 「夢」に怯えて叫ぶ声で早朝に起こされてしまった挙句、私が孫の誘拐犯人の様に言われてはたまつたものではないが、何せ「夢」なのでやむ得ないが、すっきりしない目覚めであった。

 とにかく、今年は幼児の誘拐や残虐な殺傷事件が多かったせいで、そんなけったいな夢を家人が見るに及んだのかもしれないが、世の中とんでもなくすさんでいる感じもする年の暮れである。

 昨日、ようやく宛名書きと一言添えての年賀状を一応書き終えたので、今日は大阪へと家族で出かけて、まずは実家の老いた母を連れて、亡き父と兄の墓を中心に年末の「墓参り」を済ませないといけない。

 娘にとっての従姉妹も來阪しているというので、彼女に久しぶりに会うのも目的のひとつで、我が自家用の八百屋営業と兼用のディアスサンバーで孫も連れての五人旅である。

 今日は昨日とがらりと変わって、冬将軍の寒気団がやってきているそうで、京都の最高気温は摂氏7度しか上らず、最低気温は0度だと言う寒い日中となりそうである。

 年老いた母との「墓参り」は、年末の恒例となっているが、高齢ののため無理はせず、お花を捧げるだけで寒いお墓での長居は禁物と肝に銘じてはいるが、果たしてすぐに退散できるかどうか疑問である。

 2008年最後のちょっとした「親孝行」になるかもとの思いでの「墓参り」だが、天上にいるであろう父と兄は何を思うだろうか。

 一昨年から流行った「お墓の前で泣かないで下さい。私はそこにはいません」と歌う「千の風になって」の影響からか、「墓石」が売れないという話を聞いたが、私たちが先祖を敬い、墓参りをする気持ちは変わらない。

 大晦日なので、少し早い「年越しそば」か「年越しうどん」でも温かい麺類を家族で食べてから京都に帰り、夜は定番の「紅白歌合戦」を垣間見ながら、無事元気で育っている孫たちと過ごして、夜半に近くの「とんちの一休さん」で有名な一休禅師が晩年を過ごされた、通称「一休寺」、本名?「酬恩庵」に、除夜の鐘を撞きに出かける予定である。

 2008年の一年の感謝と悪い風情を吹き飛ばして、新たな年、2009年への「希望」と「期待」を胸に抱いて、謙虚な気持ちで家族揃って「除夜の鐘撞き」を厳かに敬虔に行おうと思っている。

 今年一番の寒気団の到来する大晦日から新年元旦に向けて、今日一日の無事を祈り、感謝の一年を振り返ろう。
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年賀状書き疲れ。

2008年12月30日 | ファミリーイベント
 さぁ、今年もあと30時間もなくなった。

 例年のことなのだが、クリスマスが終わって仕事に一段落してからの「年賀状づくり」が日曜日から始まった。

 まずパソコンの調子とにらめっこし、機嫌よく動いてくれるのを確かめながら、まずは来年の干支の「丑年」にちなんだ図柄と文章、住所、氏名などの書き込みをレイアウトして「デザイン」決定までに数時間。

 そして決定したレイアウトデザインを印刷にかかるわけだが、何せ500枚もの賀状を印刷するので、同じデザイン裏面では飽きてしまうので、百枚毎にデザインを替えて印刷するので、また数時間が必要だった。

 初日から二日にかけての年賀状の裏面印刷に10時間くらい費やしたように感じているが、それからが大変だった。

 例年のパソコンに入力していた「宛名入力ソフト」のCDロムが見つからず、パソコン内のアイコンにあった「宛名ソフト」のアイコンも数ヶ月前のパソコンのダウンで消えてしまっていた。

 そこで宛名のパソコン入力、印刷を諦めて手書きで書き出したのが、昨日の午後となったので、昨晩と今日正午ごろと先ほど夕方と、4回に分けて出来上がった分から郵便局に少しでも早くとの願いから投函しに行ったのである。

 その間、食事とトイレ以外は、書斎のデスクに昨年の賀状をいただいた名簿録を中心に昔のアドレス帳、同窓会名簿、今年知り合って賀状を出したい人の住所、名前を控えたメモなどを机に広げて、基本的にはアイウエオ順に、ボールペンで宛名、住所、一言と書き添えていった。

 当然、右手のペンは走り書きになって、思いつくまま感じたままに「一言」の文章が出てくるままに書き綴ったので、何を言いたいのか、まるで意味不明のものも少しはあったが、気持ちが伝わればとの思いで、宛名の人物を思い浮かべて書いた。

 懐かしい顔、心配な顔、幼き頃の顔しか浮かばぬ人など、長い人生で出会ったり、仲間として働いたり、よく遊んだり、議論したり、笑顔や怒った顔も時々思い出しながら、手は疲れるが楽しいひと時を一生懸命浮かべながら書き綴ったのである。

 北は北海道根室から南は沖縄に至るほぼ全国都道府県に友人、知人がいるので、郵便番号も00台から99台まで数字を赤く囲った四角の窓にちゃんと書くのも大変であった。

 なにせ書き続けて疲れた右手は、思うように動かない時も出てきて、書いているつもりの文字が自分でも読みづらい、けったいな文字に変貌してしまっていることがあって、白い修正ペイントで塗りつぶして書き直しも必要だった。

 五種類に及んだイラスト、レイアウトの年賀状はたぶん初めてだと思うが、誰にどのデザインで送るかも、咄嗟の判断、嗜好で選ぶので相手方に「気持ち」を直にちょっとでも伝えれるようにと工夫したつもりである。

 今午後8時、ほとんど書き終えて、今日のブログに取り掛かったのだが、まだ宛名不明や出したい人の詮索が続いている。

 明日は大晦日。賀状を全部投函してから、実家の母と年末最後の墓参りに出かける予定である。



 
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老母の誕生日。

2008年12月14日 | ファミリーイベント
 昨日のブログに90才で天寿を全うされて静かに美しく亡くなられた知人のご主人のおかぁさんのことを記しましたが、今日は私の実の母が満92歳を迎えるので、兄弟が寄って老いた母の誕生日祝いの昼食会をしました。

 母は大正5年12月18日に、岡山県井原市の醤油造りの商店の次女として誕生し、19歳で大阪に嫁いで以来、約70年余を大阪で生活しているのですが、約40年前に私の父が病死したため、一人暮らしでがんばってきました。

 昨年秋に姉や妹たちとも相談の上、実家に近い有料老人ホームに入居してお世話になっていますが、幸い至って元気で、耳が遠いことを除けば、健康に暮らしています。

 しかし、母の誕生日については二つの日があり、ひとつは戸籍上に届けられた大正6年一月一日であり、もうひとつが実際の誕生の月日である12月18日というのです。

 あの時代は、年齢を数えで語ることが常で、特に女性は「お正月を迎えると一つ年を取る」とのことだったので、両親が生まれてすぐに正月を迎えて二歳になってしまうことを避けるために、わざわざお正月1月1日生まれとして届けたとのことでした。

 母は、ずっとこのことを気にしていて、私たちは誕生日を迎える度に、「私の本当の誕生日は・・・」と教えられ、その経緯を何度も聞いてきました。

 その母が「私は幾つになったのかなぁ」と言う様な高齢となった今、私たち兄弟もすべて60歳を超える年齢となり、各々の連れ合いも幸い元気であるために、母を囲んでの誕生日祝いの会食を共にすることが出来て感謝感激なのです。

 母を迎えにお世話になっているホームに昼前に行くと、母はとてもすっきりした顔でロビーのソファでお茶を飲んで寛いでいました。

 「お風呂に入って少しノボセ気味の顔をしていましたが、機嫌よく身支度をして近くのターミナルの和食料理屋へと向かいました。

 先付けから始まり、食前酒、刺身、てんぷら、鯛のアラだき、煮物と次から次へと出てくるお料理を全部平らげて、美味しそうに満足げに笑っていました。

 とにかく92歳になるという老いた母ですが、食欲は旺盛で、「よく食べる人は元気」を地で行く健やかさでした。

 私たちは四人兄弟であり、その連れ合いであるご主人と私の妻を入れると8人が健康に恵まれて今に至っているのも、この元気な母の賜物だと思い、感謝の念でいっぱいで歓談しました。

 これからの寒さがます冬の本格的な季節、クリスマスから年の瀬、そして新年を迎える日々を「風邪をひかずに」元気に健やかに過ごしてほしいと改めて願いつつ、ホームの玄関口で何度も手を振る老いた母に別れを告げて帰ってきのました。

 「いつまでも元気でいてほしい母」の姿に見送られる私たちは、後ろ髪ひかれる思いでもありました。
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