goo blog サービス終了のお知らせ 

ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

「日本から出て行け!!」

2007年06月23日 | ファミリーイベント
 昨日、私は「日本から出て行け!」と、孫に突然言われた。

 五歳のK君と仲良く遊んでいたのだが、思い通りにならないことがあり、彼は半べそをかきながら「じいじなんか日本から出て行け!」と突然言ったのである。

 子供の頭の中に、どんな発想、言葉が潜んでいるかは知る由もないが、突然の言葉に唖然としながら、「あと二ヶ月もしたら出て行くから」と彼にはよくわからない返答をしている自分がいた。

 彼は今までも、何か自分の思い通りにならなかったり、うまく行かなかったら、「じいじのせいや」と他人、特に私に恩着せがましく「責任転嫁」することが「くせ」になっていたのだが、まさか「日本から出て行け」って言われるとは思わなかった。

 考えてみれば私に対する一種の甘えかもしれないが、私なら「何を言っても怒らない」と思っているのか、潜在的には一種の対抗心を持っているのかも知れない。

 いずれにせよ、「日本から出て行け」という言葉は衝撃的であるのだが、昔一度同様の言葉を言われたことがあるのを思い出した。

 今から20年ほど前に、数人の仲間で「教育を考える会」という地域のささやかなグループに加わっていた頃のことだった。

 京都の二度目の国体開催を期に、小中学校の入学式や卒業式に、「日の丸の掲揚」と「君が代の斉唱」が義務付けられようとした問題があった。

 私たちは子供の保護者として住民として、「学校行事」に、「日の丸、君が代」はいらないとの思いから、ビラを配ったり集会を開いたりしていたら、地域のある人が、「そんなに日本が嫌なら日本から出て行け」と言ったのである。

 何とも短絡した発想と言葉に驚いたのだが、彼は「北朝鮮でも何処でも好きな国に行ったらいいやん」と言うのだ。

 彼らにとっては、「日の丸や君が代」が嫌な人は日本人ではなく、愛国心のかけらもない人だと思っているみたいで、非常に低次元の発想としか思えない「日本から出て行け」発言となったと思われる。

 果たして、「日の丸の掲揚」や「君が代の斉唱」が好きな、いや無意識に従ったり、無批判の人たちの神経は、どないなっているんだろうと当時は思ったものである。

 それ以来、全く背景や意味も違うが、同様の「日本から出て行け」という発言を、まさか自分の孫の口から浴びせられるとは夢にも思わなかったのでビックリした。

 私は後2ヶ月足らずで、恒例の「中国、内モンゴルツアー」のため、「日本から出て行く」予定なので、孫は「日本から出て行くじいじ」を見送ってくれるのだろか。

 この一件を娘に告げると彼女は、「あんたこそ、世界に出て行け!」と期待と呆れた思いをダブらせて息子に言ったのだが、孫にとっては意味不明な言葉だった。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「父の日」の別れ。

2007年06月17日 | ファミリーイベント
 今日は「父の日」である。五月第二日曜日の「母の日」と比較すると、どうも影が薄い。

 でも昼過ぎに孫達を連れた娘が我が家にやってきて、「父の日」のプレゼントを私に手渡してくれたのは、ありがたいことである。

 夕刻、私にとっては長年の「宝物」でもあった、秘蔵のレコードとの、寂しい「別れ」が待っていた。

 というのは、1960年代後半からの自分のレコードコレクションを片付けるついでに売却することにしたからである。

 夕方、広島からわざわざ中古レコードのバイヤーで、私より少し若い男性がやってきて、600枚ほどあった私の古いレコードをチェックして、ダンボール箱に8箱、一箱に平均50枚としても四百枚ものレコードを買い取って、宅配便で持ち帰ったのである。

 実を言うと、私自身が71年から当時のURCレコードと呼ばれる、レコード会社でしばらく仕事をし、その当時のフォーク、ロック系の日本盤と、好きで買い集めた洋盤など多種多様のレコードを所有していたからである。

 大阪の実家を皮切りに、東京に移住し再び関西に帰って、京都南部に自分の家を購入し住むに至るまで4回の引越しを経験したので、その度大量のレコードを箱に積めて引っ越してきたのである。

 そんな際に家人に言わせれば、だいぶ処分したとのことでシングルレコードや記憶に多少でも残っているいくつかのレコードは、既に今はなかった。

 でも、中古レコードの買取歴20年に及ぶという、広島からやってきた彼によって選別されたレコードは、それなりに売買価値のあるものもあったようである。

 一枚は「林亭」と呼ばれるLP盤で、帯と呼ばれるレコードジャケットに巻いてあるの紙はないものだが、2万円の価値があると、彼は喜んでいた。

 他にも、とっても価値のあるものも数点あったようだが、なにせ40年近く経っているものもあって、ほとんどのレコードに「帯」がないのである。

 彼は、これだけの中古レコードの掘り出し物で帯があったら、とんでもない値がつくのだが、と溜息混じりに一枚一枚のレコードをチェックしながら語るのである。

 レコードジャケットの「帯」にそれほど価値があるとは考えても見なかった。

 彼は、とんでもない希少価値のレコードで一枚中古で200万円近くするものもあるが、「帯がない」と、たった1万円の価値にしかならないものもあると言うのである。

 誰も、「売るために」レコードを買ったりコレクションする人はいないので、そんなことはつゆ知らず、整理したりストックするために、帯は邪魔だと破って捨ててしまう場合が多いのである。

 いずれにせよ、昔のレコードやアーチストに関わる談義をしながら、ダンボール箱に詰められて行った、「僕のレコード」との「別れ」は、ちょっと寂しい儀式となった。

 これが「父の日の別れ」であった。

 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

健康に正しく強く!

2007年04月26日 | ファミリーイベント
今回の市長選に、多くの方々からの励まし、カンパ、差し入れ、お手伝いをいただき、心から感謝とお礼を申し上げます。

 市民の方々、市外からのエールもたくさんいただき、恐縮しながら大変うれしく、自慢したいくらいでした。

 その中に、私の母からのカンパと励ましの一言がありました。

 母は大正5年生まれの90歳で、父が亡くなってから38年間、大阪の実家で一人暮らしをしています。

 数年前からは、認知症と言われる症状が出て、今食べた食事も覚えていなかったり、電話で話しても、よく理解できなかったりと、毎日はデイサービスやホームヘルパーさんのお世話にもなっています。

 しかし、私の市長選への立候補の知らせを受けて、カンパを振り込んでくれて、その振込用紙に、「健康に気をつけて、正しく強く頑張ってください!」と記してくれたのである。

 間違いのない母の字であり、少し字が揺れている様にも感じたが、受け取った私は、強い感動を覚えたのである。

 現在、今、ここに、こうして生きていられるのは、言うまでもなく母の存在と、長年の間、私を見守ってくれた愛情のお陰である。

 父が他界したのが、38年前であり、父が60歳の歳であった。

 その息子である、私ももう少しで60歳という年齢を迎える。

 信じられない様な現実があり、私は父の年齢を超えて生きることが許されるとしたら、私に出来るならば、少しでも世のため、人のために生きられる「生き方」をしたいと思う、思いが今回の市長選への立候補の、私的な理由でもあった。

 その背景に、亡き父と、今も認知症はあるが健やかに生きている、実母の生き様がある。

 私の行動力の原点でもある、母の言葉に大変な重みを感じた。

 「健康に気をつけて、正しく強く頑張って!」

 肝に銘じて、今後の生き方も生き様も、母の言葉を大切に生きようと思う。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第8回田辺混声合唱団、定期演奏会

2007年02月18日 | ファミリーイベント
 決して「やっちゃった」は、失敗や問題が出たわけではなく、気持ちよく「定演」を歌い終わったのである。

 14年前に、当時の田辺町時代に発足した「田辺混声合唱団」の指揮者として、迎えいれた「橋本利嗣先生」の指導の下、第一、第三、第四土曜日の夜、地元の住民センターや駅前の私立幼稚園のホールを借りての練習が続いて、今日2年余ぶりに、定期演奏会を持てたのである。

 発足当時は、150名近くいた団員も、若い人は結婚して住所が変わったり、年配の人は、体力や精神的な自信のなさや楽曲との相性が合わないなどの理由で辞めて行った人もいて、今回の「呉竹文化ホール」の舞台に立てたのは、約40名となった。

 「季節の便りに誘われて・・・」というキャッチコピーの「定演」の3部構成のステージにふさわしく、童謡・唱歌・「四季のメドレー」から、冬のメドレーと春のメドレーを第一部に歌った。

 二部は、ミュージカルの名曲を五曲、なんと英語の歌詞と格闘しながら、楽しく体をリズムにゆすって歌いあげたのだが、最後の 「I Could Have danced all night」では、胸に挿していた「赤系統のバラの花」を一斉に歌のラストで空中に投げて喝采を浴びた。

 そして二部と三部との幕間には、若い男性テノールの三人による、パフォーマンスで、幕前に出てきたお兄さんが、突然ビートルズの「イエスタディ」を歌いだして、仲間に引きづられて引っ込むという場面も演出された。

 第三部は、伝統的な混声合唱組曲として有名な「心の四季」をほぼ暗譜で歌い上げて、とっても気持ちよく会場の拍手を戴いたのである。

 アンコール曲は、田辺混声としての過去に歌った曲の中で、「大地讃頌」と共に、持ち歌の様になっている「筑後川」から「フィナーレを」と歌う「河口」を歌った。

 気持ちよく我々団員は歌い上げたのだが、聴衆の皆さんと一緒に歌いたいと思って、会場の全ての方々と、芹洋子さんが歌って大ヒットし、未だに親しまれている「四季の歌」を楽しく歌えた。

 この「四季の歌」を春、夏、秋、冬と歌って、五番として「ら、ら、ら」で歌っている時に、突然の如くこみ上げて来る感動を覚えて、不覚にも何故か涙ぐんでしまったのである。

 過去14年間の「田辺混声合唱団」の末席を汚しつつ、歌い続けながら、7回の定期演奏会に参加、出場して舞台には立たせていただいてきたが、初めての舞台での「涙」となって、自分でも驚きを隠しえなかったのである。

 「ありがとう」感謝です。団長さん、指導者の指揮者とピアノ伴奏の演奏家のお二人、またボイストレーナーやパートリーダーなどたくさんの関係者と会場に来て下さった皆さん。本当にありがとうございました。

 我が娘と五歳になる孫も、最後まで聴いてくれて、楽しんでくれた様子で、とっても満足した演奏会となりました。感謝です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

合唱の定演が一週間後だ!

2007年02月10日 | ファミリーイベント
私の所属する田辺混声合唱団の第8回定期演奏会が、あと一週間で本番となった。

 今回の定期演奏会は京都市呉竹文化センターホール(近鉄・京阪、丹波橋駅下車西出口前)で、来週の日曜日18日の午後2時開演で行われる予定だ。

 田辺町時代の今から15年ほど前に「田辺混声合唱団」は発足し、その当時は男女合わせて150名近くの団員を抱える大きな合唱団としてスタートしたが、よる年波には叶わず、少しづつ団員が減り始め、死亡、病気、転勤などと共に、音楽的志向性や団員との相性や指揮者や役員の方向性とのギャップなど、いろんな理由でメンバーが減り、現在は40名ほどの団となっている。

 ベースとテナーの男性で辛うじて10名、女性はソプラノが18名ほどとアルトが12名として、総勢40名なのだが、当日の健康状態やアクシデントも考えれば、40名を割るかも知れない。

 私は家人と共に、気がつけば唯一の夫婦団員として辛うじて残っており、過去7回の定期演奏会も何とか末席を汚しつつ参加してきたのである。

 しかし、毎回のステージの合唱曲を、なかなか暗譜することは出来なくて、いつも残り一週間となって、ようやく本気で「覚えるための」多様な試みをし出すという、学生時代の試験勉強の前日の一夜漬けと同様の、スタートの悪さが信条で、いつも瀬戸際まで、自分ではらはらドキドキなのである。

 今回のステージは三部構成で、第一部の童謡、唱歌の四季のメドレーの「冬のメドレー」「春のメドレー」と第二部のミュージカルアラカルトは、楽譜を持ってのステージだが、第三部の混声組曲「心の四季」は暗譜であり、アンコール予定曲とあわせて、絶対覚えないといけないのである。

 今日の練習では、暗譜の楽曲「心の四季」を中心に歌ったのだが、概ねの団員は全く楽譜を持たずに練習に没頭されていたが、恥ずかしながら私は歌詞を覚えきれてないので、片手に楽譜を持って、チラチラ見ながらの練習で、やっと「いけない!」という自覚に至ったのである。

 一週間後の本番のステージを想像しながら、明日は自分で出来るだけ覚える練習をして、明後日の午後の特別練習では、間違っても歌詞くらいは覚えて、練習に参加しなければと強く思った。

 少ない団員数になっているので、ひとり一人のパートにおける歌唱力というか、歌えるかどうかが、全体的な混声合唱としての表現力に大きく影響があることは言うまでもないのだが、今まで多くメンバーがいたので、しっかり歌える人をメインに、ついて歌うという、ちょっとした安心感があったが、今回は、そんな甘えは通らない。

 今自分でしっかり歌えてないと自覚している、第三部の「心の四季」の歌詞と暗譜と、第二部のミュージカルソングの英語の歌詞で、歌えていない部分があるので、特訓を自分に課して、この連休は頑張ろうと思う。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初汗かき登山。

2007年01月03日 | ファミリーイベント
 私達ファミリーの一年の締め括りと初めは、地元の一休寺の除夜の鐘つきなのだが、新年になっての公式行事の最初でもある、地元の「甘南備山」初登山も恒例にしつつあり、今朝は孫の五歳の男の子と共に夫婦で登ったのである。

 初登山と言っても、海抜たぶん189メートルの小高い丘と言ってもいいくらいの山なので、老若男女が誰もが気軽に登れる山である。

 この「甘南備」という地名や名称は全国にもあって、なかなか由緒ある歴史性に富んだ名前なのだが、頂上付近に祭られた神社は同じかんなびなのだが、「神奈備神社」と表しているのである。

 日本の古代史を紐解いて7世紀から8世紀には既に、この京都山城地方の木津川沿いの平野部には多くの人が住んでいて、平城京、奈良朝廷への多くの物資や仕事を担う人々がいたらしいのである。

 その中に朝廷や奈良の都に、その当時の大切なエネルギーである「薪」を提供していた人々の集落があり、甘南備山の地元の集落の字名は「薪」なのである。

 また平安京、京都に都があった時代にも、木津川と桂川、宇治川という、その当時の大切な交通手段であった河川が中心部に流れていたために、多くの物資が京の都を中心に行き来していたらしいのである。

 現在も詳しくは知らないが、奈良東大寺の二月堂の春を呼ぶ「お水取り」と呼ばれる行事の「松明の竹」を奉納する伝統を復活させた「松明講」があり、二月の十一日に恒例の「竹運び」が行われている。

 また京の都の夏の風物詩でもあり全国の三大祭りでもある、「祇園祭」に絡む数々の伝統的な由緒ある言い伝えや習慣、伝統が伝えられている、小さくても存在感のある山なのである。

 また現在はインターネットの「光通信」は当たり前だが、情報伝達手段として、電気通信技術のない時代には、権力や政治に絡む大切な伝達を、際立つ山の頂で火を焚いて順々に伝えていたらしく、古代の「光通信」の発信地にも、この甘南備山はなっていたらしいのである。

 今朝の甘南備山は朝方から霧が立ち込めた天気だったために、たった二百メートルほどの海抜ながら、「雲海」を見下ろすことができる眺望となっていた。

 いつもは緑の木々の隙間から町並みが見えて、木津川、万葉集では「いずみ川」と詠まれた水の流れが眺望できるのだが、全く白い雲に覆われたために下界が見えないという状況であった。

 山の頂を目指す人々は、登山道の入り口で文化協会の方々から、みかんと記念品を貰い、頂上の神奈備神社に参って、お神酒ではなく清い水をいただいた後、文化協会会長と市長挨拶、市歌の斉唱が行われるのが恒例だが、今年は私用があり急いで下山するため、頂上には15分ほどしか滞在しなかった。

 5歳の孫の「近道を教えてあげる」について神社裏からの地道を下り、来た登山道を元気に走る彼に追従して走って下山し、久しぶりに汗をかく、気持ちのいい三が日の締め括りとなった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

僕流、10大ニュース!

2006年12月26日 | ファミリーイベント
この時期になると新聞、テレビ、雑誌などで,「今年の10大ニュース」とやらを必ずやっている。僕流に10大ニュースをあげてみた。

 ①教育基本法の改正案の国会での可決
 ②奈良の中学生の放火による親子殺人事件
 ③いじめ自殺の連鎖と教育再生会議の謎
 ④官製談合による三県知事の収賄事件
 ⑤永田議員の偽メールと政府のやらせTM
 ⑥秋田女児殺害畠山事件と模倣犯
 ⑦イラク自衛隊撤退と米共和党の敗北
 ⑧防衛省昇格の決定と麻生、中川核保有発言
 ⑨悪徳業者と建築士の耐震強度偽装事件
 ⑩堀江,村上ら虚業のヒーローの逮捕
 
いろいろ思い出しながら書き出して行くと、20も30も浮かんでくるのだが、今年の一字として、先般発表された今年の一字「命」は、いかにも今年を物語る字だと改めて思う。

 子ども達を取り巻く環境の中でのいじめや虐待が、これほどにも多く報道され、中でも自分の母や父による虐待死や教師、友人によるいじめを苦にしての自殺が、こんなにも多く発生したことに、やるせない「生きる」ことへの大切なメッセージ不足を感じざるを得ない。

 つまり大人社会が戦々恐々としている現代社会にあって、子ども達も大人や親の背中や価値観を見たり感じたりして、徐々に他人を敵としてしか見ない様な孤独感や疎外感に苛まれつつあるのではないだろうか。

 一人一人は優しく明るい少年や子どもだったはずなのに、追い詰められて相談したり、ゆっくり話し合ったりする余裕もなく、どんどんと袋小路の如き闇夜の様な世界に入り込んでしまったケースとして、奈良県で起きた少年の事件があった。

 この少年のことを私は詳しく知るよしもないのだが、未だに彼が義母や義兄弟であったとは言え、放火殺人を意図して犯行に及んだとは考えられないのである。

 父から毎夜厳しく勉強を強いられていた彼が、医学部への進学を通して医者になる道だけを目指して真面目に頑張っていたが、学期末の三者面談で少し低落気味の成績が父に公表されるのを恐れて、精神的に行き詰って放火してしまったのであろう。

 決して家族を殺戮することが目的ではなく、逃げたかったのだろうと推察できる彼の心境を思うとき、父だけでなく社会、学校、国もがエリート教育のみに傾斜する、教育の再生会議や愛国心重視の強制を強いる教育基本法の改正など、一連の教育改革とは、いったい何のためだろうかと改めて疑問に思わざるを得ないのである。

 「生きる喜び、生きる楽しさ」を一緒に味合う人生を、小さい時から家族を中心に過ごせる様な家庭づくりが肝心なのである。そして「生きる」のではなく、「生かされている」自分に気づくことが大切なのではないか。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

息子の結婚

2006年12月24日 | ファミリーイベント
 昨日、息子が結婚した。結婚式をしたわけではなく彼女と入籍したのである。

 最近の「結婚事情」は大きく変化していて、知人の女性によれば、娘さんの「結婚の手続き」の順序は、全く自分達とは逆だと笑っておられた。

 つまり「子どもが出来て」「籍を入れて」「お祝い会、披露宴」、そして二人で「結婚式」を挙げるのだそうである。

 お金がないので出来ることからすると言うのである。つまり彼と彼女が仲良くなって子どもを産んで、子どもの「籍を入れて」、両親、家族や友人達と「ささやかなお祝い会」をして、落ち着いてから二人で気に入った外国で、二人の記念すべきスタイルで「式をあげる」のである。

 我が息子は彼女と八年ほど付き合っているので、今年早々に家族で会った時に、今年中に「けじめを」と約束していたので、年も押し迫った昨日、二人で「結婚届」を役所に出しに行ったのである。

 結婚入籍予定の息子の報告に、私が入籍後、ささやかでもいいから社会的なお披露目が必要だと電話口で話したら、「お父さんが、そんなこと言うか」と不思議がられた。

 息子は、私のことをどう思っているのだろうか。

 よっぽど社会的常識や習慣などに関係なく生きているとでも思っているみたいで、息子の目に映った「親父」である自分が社会的にどの様に見られたり、感じられているのかと自問自答する機会となった。

 長い間、遠い地に住んでいる息子と彼女とは、便利な携帯メールで時々連絡はしているが、昨日は携帯電話に彼女の声がして、「よろしくお願いします」と改めての「挨拶」があり、「親父」として「おめでとう!」、「末長くよろしく頼みます」と返答している自分がいた。

 娘の結婚式の時も、さほど感動というか涙するような気分にはならなかったが、今回の息子の「結婚入籍」は、それ以上にあっさりとした携帯電話への「報告」であり、仕事をしながらの片手まで受話器を耳に当てて、返答したのである。

 年末の押し迫った時期の「結婚入籍」は、たぶん彼女と息子が同い年となる二ヶ月間で、彼女の誕生日と同じ数の22日を選んだそうなのだが、戸籍上の新世帯として、「年末調整」で一年間の「控除」などが受けられるので、「結婚入籍」するなら12月が御得感があるのである。

 ともかく「おめでとう」。慌てて息子はプリンターを買って、年賀状で知人、友人には「結婚入籍」の報告をする準備をしているそうである。

 これで、今年の暮れに家族が正式に一人増えたが、来春には娘に二人目の子どもが誕生する予定で、またひとり増える。

 少子化、日本の人口の減少化が話題になっている昨今だが、我が家は確実に家族が増えつつある、嬉しい年末年始である。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あんたが持って帰った!

2006年12月16日 | ファミリーイベント
 外出先の集まりが終わりかけた時、急に私の携帯電話に母から電話がかかってきた。

 私の母は高齢で、軽い「認知症」の症状があって、今晩も電話口では「あんた持って帰った物、わかっとるから返してや!」と一方的に言うのである。

 何のことかと応対していると、先日私が実家に行った時、帰り際に床の間に置いてあった、昔の知人からの贈り物を、私が持って帰ったと言うのである。

 私が先日、大阪の実家に行った際に、母が言うには、郵便局からの小包が届けられたのだが、留守中だったので再度配達してもらいたいと電話で申し出たのに、届かないと言うのである。

 郵便局に再度電話をして届けて貰うように手配して、私は4時過ぎに車で帰ったのである。

 たぶん、私の帰った後、その贈りものは中身は定かではないが、届いたはずなのである。

 しかし、二日が経った先ほど、前述した通りの電話がかかって来たので、私は持って帰っていないことと、明日改めて行く事を告げて、電話をきったのである。

 先日実家を訪ねた際も、帰り際に母の誕生日が近づいているので、今度の日曜日にお祝いを兼ねて、も一度来る旨を話していたところ、突然「私の本当の誕生日と戸籍に届けられた一月一日は違う」と言い出したのである。

 私達姉弟は、今までにも何度も、母の誕生日に纏わる話は聴いているので、「知っているよ、今までに100回以上も聞いたかな」と言ったのである。

 すると、母は「自分の父が、そのことを記した紙があったのに、あんたが破って捨てた!」と言い出したのである。

 全くの濡れ衣とでも言おうか、そんな書かれた紙切れがあることも知らないし、ましてや私が破って捨てたこともないし、そんな話自体を聞くことが初めてなので、「そんなことはない!」と返答したところ、母は大きな声で怒りだした。

 私も、だんだん腹が立ってきて、「もういい、今日は帰る!」と言って、食事も一緒に出来ず帰ってしまったのである。

 昼前に実家に行き、一緒に食事でもと思ったのだが、「あんたは外で食事をしている間に、また家の物を勝手に車に積んで持って帰るから、行きたくない!」と言われ、やむを得ず断念して、母の生活で不都合なことの手当てや、庭木を素人ながら剪定し、剪定木や葉っぱを大量に車に詰め込んで帰ったのである。

 結局、また私が泥棒の様に言われる羽目となってしまったのだが、「認知症」が故と諦めざるを得ないのだが、たぶん明日、再び顔を合わせるとケロッとして、笑顔だったりするのである。

 今までに、私が勝手に持って帰ったとされている物には、嫁入り布団、座布団、布巾、植木鉢、箪笥など、私には全く不必要で、黙って貰いたい物などないのであるが、母の頭の中には、いつの間にか「悪い息子」になって、「あんたが持って帰った!」とされているのである。

 ああ、情けないやら、虚しいばかりである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ワールドトレードセンター

2006年11月08日 | ファミリーイベント
 昨日の午後、北海道佐呂間町で発生した竜巻で一瞬の内に9名が死亡、26名が負傷されたのだが、その「竜巻」は幅約200m、約1kmを南西から東北へ一瞬の内にかけ抜けた局地的な天災であったことが判明した。

 この自然災害の爪跡をテレビ報道でつぶさに見ていたので、映画「ワールドトレードセンター」を今晩思い立って観賞したが、ニューヨークのWTCツインタワービルが崩壊した2001年9月11日のテロの悲劇の惨状がダブって見えたところもあった。

 ともかく被災者にとっては天災の様な災難だったが、9.11は、テロによる犯罪である。しかしオリバー・ストーン監督が描いた「ワールドトレードセンター」は、意外にも夫婦愛、家族愛を強調した「人情ドラマ」として仕上がっていた。

 「プラトーン」や「7月4日に生まれて」等のアカデミー賞受賞作で知られるオリバー・ストーン監督なので、もっと策謀や政治的背景が渦巻く、きな臭い「9.11」が映像化されると思ったのだが、召集されWTCに入って被災した5人の港湾局警察官の内、ニコラスケージ演ずるジョン・マクローリン隊長と部下のウィル・ヒメノの奇跡の救出を、「勇気と愛情」として描いたのである。

 映画の半分近くが崩壊したトレードセンタービルの残骸の下で、奇跡的に命拾いした二人の警察官のシーンで、暗い映像の中で表情がうっすらとしか見えない会話と、一方は地上の二人の家族、妻達の夫を心配する様なのである。

 このコントラストの中で大いなる夫婦愛や家族愛が描かれている感動作なのだろうが、私にはどうも素直に映画そのものに入り込むことは出来なかった。

 今日は米国中間選挙の結果、ブッシュ大統領の共和党が民主党に敗北したことも重なり、あの「イラク戦争」への批判や「9.11」テロ事件の背景が全くなく、「ビンラディン」や「アルカイダ」、「ブッシュ米国大統領」の名前すら出てこない作品となっていた。

 その上、21世紀の歴史上に必ず残る大事件なのに、オリバーストーン監督は批判や問題を一切表現せず、「ふたつの尊い命」の救出劇を「真実の物語」として脚色したのである。

 つまり「イラク戦争」での、今も続くアメリカ合衆国を中心とする「侵略戦争」の犠牲者となった5万を超えるイラク人民や2800人を超す米兵などの無駄死には全く触れず、二人の命の救出のために働く海兵隊員やレスキュー隊員の活躍を描いているのである。

 しかも、この映画で救出劇に大きな役割を果たした二人の海兵隊員の内の一人は、この事件後イラク戦争へ出兵したというコメントまで最後にアナウンスされたのである。

 まさにアメリカの現体制の正義を背景に、美しい夫婦愛や家族愛、人類愛だけをクローズアップしたとしか思えない映画となってしまった。

 「イラク戦争」をしかけたブッシュ大統領への痛烈な批判と支持離れが顕著になった米国中間選挙での民主党の勝利が、映画とは裏腹に皮肉に感じられる映画であった。
 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする