goo blog サービス終了のお知らせ 

ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

KNIGHT&DAY。

2010年10月14日 | ファミリーイベント
 トムクルーズとキャメロンデイァスが共演した、アメリカ映画でロマンチックアクションと称された「ナイト&デイ」を観た。

 最初は、ジュリア・ロバーツ主演の「食べて、祈って、恋をして」を観ようと思ったのだが、公開から日にちが経っていたためか、午後三時過ぎからの一回しか近くのシネコンでは上映していなかったので、妻の意見で急遽違う作品だが面白そうなので、久しぶりの映画館での鑑賞となった。

 特にトム・クルーズが好きというわけでも、もちろん名前は知っているがキャメロン・ディアスがいいというわけでもなかったが、さすがのアメリカ・ハリウッド映画の典型的な「ドンパチとカーチェイス」がふんだんに登場する娯楽大作であった。

 ともかく主人公のトム・クルーズが空港で偶然ぶつかった如くにキャメロン・ディアスと遭遇し、あれよあれよと言う間に旅客機に同乗したと思ったら、とんでもなく乗客からパイロットまでを射殺し、果てはトム・クルーズが飛行機を操縦し、高速道路に不時着させ、二人は無事に「魔の悪の集団」からの逃避行が始まるのであった。

 誰が善人で誰が悪人かも定かでないまま、とりあえず主人公であるので撃たれても怪我しても車が横転転覆しても決して死なないのだが、ドンパチとカーチェイスは激しく、最初の不時着させた飛行機も爆発炎上するし、ともかくアクションシーンやカーチェイスが盛りだくさんで、どこがCGやらスタントマンがやっているのかさえ全くわからないまま、全編ほとんどが二人を主人公ととするストーリーとして展開していくのであった。

 舞台はアメリカ合衆国に始まるのだが、なぜかイタリー、ドイツ、オーストリア、南の太平洋?の無人島などと展開して、なぜ「究極のエネルギー電池」を巡っての争奪戦とは云え、そんなに国際的にあっちこっちに行かねばならないのかは全く理解できないが、いろんな国の町の風景やら自然パノラマが随所で映像化されているので、観客にとっては見飽きないような演出となっていたようである。

 いずれにせよ、ナイトショーと言ってもいい時間帯だったのだが、最後まで眠ることなく観てしまったことを思うと、やはりハリウッド映画のエンターテイメントとしての価値や映像は凄いと思ってしまうが、あぁいう奇想天外とでも言うべき「原作」か「脚本」を書く人の脳みそを見てみたい気がするほど展開の速さとストーリーの結末に付随した「ケープホーン」へとドライブに出発した恋する?二人と、男の両親と思われる老夫婦に届いた「ケープホーン行き航空券」に語らせた、不思議な家族愛も、ハッピーエンドと同じアメリカ映画の手法と感じさせる見事な出来栄えであった。

 ジュリア・ロバーツは、数少ない私の大好きな女優さんの一人なのだが、彼女の主演作である「食べて、祈って、恋をして」を観られていたら、たぶんイタリーで食べまくり、インドで祈って、バリ島で恋をする彼女と共に、各々の自然と文化と人々の生き様の一面を見れたのだろうかと思い、旅したことのあるイタリアを除く、インドとバリ島がどういう風景で登場するのか、やはり観てみたいなと後悔ではないが再度思ったのであった。


 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

体育の日、山上へ。

2010年10月11日 | ファミリーイベント
 秋風が心地よい季節になったので、今日は仕事をお休みしてドライブをしょうと思い立って、妻とR君と一緒に朝から大阪府と奈良県の県境に聳え立つ、我等が「生駒山」に出かけました。

 まだ三歳のR君の喜びそうなドライブということで、近鉄生駒駅からケーブルカーに乗って生駒山上遊園地に向かいました。

 いまや、貴重とも言える小さいお子さんたちも楽しめる「ファミリータイプ」の遊園地としては、関西圏では「ひらパー」でおなじみの「枚方パーク」と、ここ「生駒山遊園地」だけではないでしょうか。

 奈良では「ドリームランド」や「あやめ池遊園地」が無くなっているし、大阪では「エキスポランド」などが廃業したし、京都でも「伏見キャッスルランド」や「八瀬遊園」などもなく、兵庫でも「宝塚ファミリーランド」、「甲子園阪神パーク」、そして「ポートピア遊園地」などがあったのだが、今はなくなってしまった。

 そんなレジャーランドやテーマパークの現状の中で、大阪の「USJ」や「ディズニーランド」などの大型外国資本のテーマパークが大流行で、少年少女から中高生、大人が楽しむ施設は目白押しだが、幼い子どもたちも含めて家族ぐるみで、それも低予算で楽しめる施設が非常に少なくなっている。

 この近鉄「生駒山上遊園地」は、現代に生きながらえているファミリータイプの「遊園地」で、朝早くからやっぱり小さなお子さん連れのご家族やお爺さん、お婆さんと言ってもまだまだ若い、50代、60代の祖父母に連れられた小さな子どもさんたちが大変目立ち、秋晴れの天候に恵まれて昼前後には結構な人数が遊園地に入場して、思い思いの「乗り物」や「アトラクション」を楽しんだり、お弁当を広げたり、いろんな歓声が聞こえていた。

 先ほども記した様に、この「生駒山上遊園地」へ行くには、自動車で阪奈道路から信貴生駒スカイウェイを通って行くのもアクセスだが、子供たちが喜びそうな「ケーブルカー」が、近鉄生駒駅南側の「鳥居前」駅から出ていて、大胆な全面フォルムの犬の「ブル」と猫の「ミケ」電車が待っていて、また乗り継ぎの山上線にもケーキの「スイート号」や音楽模様の「ドレミ号」といった意匠を凝らしたデザインの車体があり、多くのファミリーが記念撮影をしていた。

 生駒山上遊園地では80年前の創設時からあるというシンボルの「飛行塔」に最初に乗って、内外の景色をゆっくりと堪能したのだが、天気が良くて大阪湾まで見渡せるなかなかの眺望であった。

 ファミリーチケットなるものを購入したために、次は何に乗ろうかと思案しながらも、お昼休みを挟んで何と6種の「乗り物」に乗ったが、思い出してみると、「おもしろ自転車」、「コーヒーカップ」、「スカイダンボ」「ゴーカート」「スピンチェアー」などと別料金の「トーマス号」や「アンパンマン」などのキャラクターのついた乗り物も加えると、なんとR君は10種以上の乗り物を満喫した。

 付き合う大人も結構体を使うことになったので、「体育の日」にはふさわしい運動量になって、2時過ぎに帰る頃にはR君は車の中で眠ってしまったが、我々大人も3時過ぎの自宅で昼寝を余儀なくされたほどであった。

 風は秋の涼しさを感じる気候だったが、やっぱり日中の日差しはまだまだ夏の名残をも感じさせるほどの暑さもあり、我が妻も含めて日傘のお世話になる女性たちが多くいたが、気持ちのいい「体育の日」の休日の半日となった。

 幼い頃私も家族で行った「宝塚ファミリーランド」などを思い起こしたが、R君に帰路の車の中で「何処へ行った?」と訊ねると、「ひらパー」と答えるという感じで、子どもたちには遊園地の名前など関係なく、愉しかったようで良い一日となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

懐かしの「野球盤」!

2010年06月06日 | ファミリーイベント
 最近の子どもはJリーグやワールドカップの影響もあって、サッカーに夢中の少年たちが増えたと言われているが、どっこい「野球好き」の子供たちも相変わらずたくさんいるはずである。

 私自身も断然野球好きのファンの一人であるのだが、少年時代は草野球そのもので自分たちでチームを作って、学校から帰ったら必ず近くの公園で場所をとって、相手チームがあれば試合を申し込んで、なくても自分たちでニチームに分かれて、毎日の様に野球を楽しんでいた記憶がある。

 最近、私の孫のK君が突然の如く「野球」に目覚めたようで、小学校区の軟式少年野球チームへの入団を決めて、早速の練習や試合やらと土日は忙しく「野球漬け」の毎日をおくる様になったみたいである。

 そこで私自身も昔とった杵柄というわけではないが、孫の小学三年生と一緒に何年ぶりかの「バッティングセンター」へと足を向けて、軟式の最遅球である「80キロ」の機械から繰り出される軟球を打ったのである。

 当然、K君のバッティング練習の付き添いなのだが、彼が100球近くバッティングゲージに入ってバットを振ったのだが、私も交互に軟球を打つ機会ができ、それなりにいい当たりがあって、まんざらでもなく、まだまだ野球の虫は死んでいないことを再確認したのであった。

 ところで、家の倉庫の整理をしたら、中から我が息子にたぶんクリスマスプレゼントとして買い与えた記憶のある「野球盤」が見つかったので、孫のK君と共に一緒に遊べたらと思って、十数年ぶりに部屋に持ち込んだのである。

 エポック社のパーフェクト野球盤A型と書かれた商品なのだが、驚異の9大メカ装備、スーパースタジアムと称してあり、「快速球・速球・スローボール、3段階のスピード変化が楽しめる」野球盤だと記載されていた。

 なつかしさついでに中のゲーム盤を取り出して見ると、息子がいつ最後に使用したのかは定かではないが、チーム名の紙の札が、近鉄、南海、阪急、大洋などの今はなき懐かしの名もあって、広告紙の裏に書かれた「中日VS近鉄」のメンバー表には、中日の4番に落合現中日監督の名や昨シーズンで引退した「立浪」の名があり、近鉄には大石元監督や金村、村上など現解説者や独立リーグ監督の名などがあった。

 たぶん、昭和50年代後半から平成にかけての数年間、我が家で息子が遊んだ形跡があるのだが、今やコンピューターゲーム時代なので、こんなアナログ的「野球盤」で遊ぶ子供はいないかもしれないと思いつつ、まだ動く手動式の「投球」や「バッターボックス」でのバッティングなど、やはり懐かしくやって見たい気持ちでいっぱいになった。

 カーブ、シュートとストレートと共に、「消える魔球」の装置があって、とても楽しく投手と打者の駆け引きもできる「優れもの」だと感じていたので、ぜひ孫のK君と一戦交えたいと、今から心をワクワクさせているが、野球の練習で忙しくなった彼が果たしていつ私の相手をしてくれる時間があるかが、一番心配だと言わざるをえない。

 おーい、k君。懐かしの「野球盤」で、ぜひ試合をしようぜ!!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先祖の神事で大垣へ。

2010年05月16日 | ファミリーイベント
 今日は、いつもより早く起きて、我が愛用の軽自動車で妻とふたりで、妻の実家のご先祖様の墓地での追悼の儀式に参列するため、早朝より車を走らせて、岐阜県大垣市まで約280キロを往復した。

 お昼からの神事だったのだが、京滋バイパス、名神高速道路の混み具合が検討がつかなかったので、相当早く自宅を出たために約2時間ほどで目的地のある大垣インターまで走ってしまった。

 あまり早かったので、大垣インターの手前の養老サービスエリアで約20分はトイレ休憩とコーヒータイムをとって、漸く大垣市に入ったのは、まだ10時前であった。

 妻の母親が大阪で92歳で健在なのだが、やはり老齢なため今回は参加をしなかったので、せめてもと母の写真をと思ったが、いつもの写真帳を妻が持って来なかったので、どこかでデジカメのプリントをと探そうと、まずは大垣駅周辺へと車を走らせた。

 JR大垣駅周辺で、今回の会場である長松町という場所を交番で尋ねた後、駅ビルに入ってカメラ屋さんかデジカメプリントの出来る店を探したがないとのことで、改めて車を南下させて国道へと向かったところで漸く10時になってカメラ店を見つけて焼き増しプリントのデータを確認する機械に向かった。

 所謂神事とは言え、一般的には「法事」に当たる集いで、東京近郊からと大阪、京都からおじいさん、おばあさんの故人の世代からすると子供、孫、ひ孫の世代に至るまでの何と30人が集うというので、ご年配の方には見ずらかろうと、せめてはがき大にとプリントしたスナップ写真を5枚、それぞれビニールシートに入れて見易い状態に仕上げて持参することとした。

 第一世代と称する我が妻のいとこ頭が音頭を取って、今回の約20年ぶりの集まりになったのだが、最高齢が83歳の従兄弟頭のお嫁さんで、第二世代、第三世代が集って、一番若いのが中学一年生の女の子という30人の集団となった。

 集合場所の地元の町内会の公民館をお借りして、12時過ぎに全員が集まったところで、従兄弟頭から挨拶があって、近くのご先祖様の由緒ある昔の住まいや場所を見学した後、先祖の墓所に向かって、神主さんの祝詞と共に全員が神棚に神事の葉を奉納し、儀式が行われた。

 その後迎えのバスに便乗した親戚、従兄弟全員が市内のホテルの宴会場での会食となり、初めてお目にかかる人も多かったが、各々がマイクを持って自己紹介と共に挨拶をして、親睦を深めて、明治時代からの古きご先祖様や、妻の親父さんたちのセピア色の写真などを見ながら歓談の時が過ぎた。

 私の実家の母も93歳の高齢だが、幸い健やかに元気で健在なので、私たち兄弟も従兄弟たちや親戚を呼んで、こうした集いが出来ればとイメージしてはみたが、なかなか全ての親戚や従兄弟たちの連絡先すらままならないことに気づいて、もっと母が出歩ける時代に、呼びかけて集えたら良かったのにと、少し後悔の念が残る感じで、大垣を後に急いで京都へと車を走らせて帰ったのであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「おとうと」

2010年02月25日 | ファミリーイベント
 吉永小百合主演、山田洋次監督の映画「おとうと」を観た。

 正月明けから宣伝していたので、いつか時間が出来たら観に行こうと思っていたが、どうも吉永小百合主演に文句は全くないのだが、「鶴瓶」が吉永小百合の弟役というのが引っかかって、どうもすっきりしない気持ちだった。

 決して「サユリスト」まではいかないが、吉永小百合出演映画は大抵観ていて、楽しんで観れるのだが、今回の映画だけは観終わって、「笑福亭鶴瓶」の配役が不満であった。

 日本映画界では、今回の「おとうと」の「鶴瓶」の演技も評価されて、各映画賞の助演男優賞にもノミネートされるということだが、私にはさっぱり彼の演技というより、彼のキャラがしっくりとは来ないのである。

 今回の吉永小百合演ずる未亡人の姉の実弟としての「役柄」が、いろいろと問題を起こす、出来の悪い弟という設定なのだから、しょうがないのかもしれないが、蒼井優演ずる吉永の一人娘に「小春」という名をつけた「名付け親」としての鶴瓶演ずる弟の結婚式披露宴での泥酔ぶち壊し事件のシーンなどは、何とも見てはいられないほど、「いい加減にしろや!」という気にさえなってしまった。

 ということは、「名演技」なのかもしれないが、どうも「素人役者」が演じているという感じが抜けきらない雰囲気が残っていて、何とも割り切れない、すっきりしない感じなのであった。

 後半の大阪で路上で倒れて世話になっている「みどりの家」と呼ばれる民間の終末医療と生活の場を提供している施設でのシーンでも、どうもすっきりとしない気持ちで観続けている自分に気づいた。

 大阪西成、通天閣の見える「みどりの家」という設定のシーンは、映画の終わりのエンドロールで、協力「希望の家」と出ていたので、私も学生時代に行ったことのある施設だったので、余計に親切かついい人たちに囲まれて、最期を迎えた「おとうと」の臨終シーンなどが、映画とは言え、合点がいかない部分もあり、鶴瓶のいくら痩せたとはいえ、太った体と共にミスキャストだという感が強かった。

 やっぱり何と言っても、結局「吉永小百合」という美人女優を姉として、あんな「鶴瓶」みたいな「おとうと」がいるはずがないとのミスマッチが根底にあるための、違和感がどうも離れなかったからだと思った。

 しかし、吉永小百合の娘役のかわいい蒼井優自身との再婚相手、長田工務店の青年、加瀬亮の若いカップルのお似合いさがあって、何とかこの映画のリアリティが最低限保たれたと言っても過言ではない印象であった。

 ついでに言えば、稔持さんの演技もバタくさくていただけなかったと思うのであった。

 暗い「おとうと」の臨終シーンのあと、認知症となった吉永の亡くなった夫の老母を演じた「加藤治子」の蒼井優の再婚の身内の結婚式に「あの人は来ないの?」と語って、母と娘が「呼ぼう!」と返答したラストシーンだけは、上出来だったと評価しよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「沖縄」から帰って。

2010年02月03日 | ファミリーイベント
 1月31日から三泊四日の予定で、久しぶりの沖縄の旅をして、夕刻に帰宅した。

 その間、携帯でブログの「ガリバー通信」をメールと同様に送付することも出来たが、今回はお休みにして、「沖縄」を味わって帰って来た。

 今回の沖縄ツアーの目的は、我が息子夫婦が沖縄に住んでいるので、久しぶりに訪ねようと思ったのと、前々回のブログ「球春近づく」にも記した「宜野座の阪神キャンプ」を見に行ったのであった。

 沖縄地方は小雨模様が続いていて、「沖縄」にしては寒い摂氏20度を下回る気温になり、現地の人たちは「寒い」を連発していたが、北部では「琉球桜」が咲き始めていて、いたるところで「桜祭り」や「花まつり」が開催されていた。

 初日の日曜日の夜は、空港まで迎えに来てくれた息子夫婦にお嫁さんのお母さんを囲んで我々夫婦と五人で、ゆっくりと夕食の宴を囲むことが出来た。

 二日目は、1975年の「沖縄海洋博」跡地に造られた「沖縄美ら海水族館」に二度目の見学に立ち寄った。

 まずは「沖ちゃんショー」が開催されていた屋外の「イルカプール」でかわいいイルカたちの演技を見学し、海亀、マナティなどの生態や多くの海洋生物たちの生態を見学したのだが、やはり圧巻は「大水槽」のジンベイザメたちの生態を見学する場所であった。

 時間が許せば、いくら見ていても飽きないくらい、この世界一とも言われる幅60センチ以上あるアクリル板で囲まれた「大水槽」の迫力と共に、三頭のジンベイザメと多種多様な「エイ」の仲間たち、カツオ、マグロなどの大きな魚たちと小さな魚たちの群れ、大きなジンベイのお腹に寄り添うように泳ぐ、コバンザメたち。

 三日目に待望の「阪神タイガース」の宜野座キャンプを午後視察したのだが、新加入の城島捕手と大黒柱の金本兄貴を見ることは出来なかった。

 しかし、桧山、藤川、福原、久保田、ブラゼル、マートン、鳥谷、関本、平野、矢野、狩野、桜井、林らの主力選手と、真弓監督、片岡、久保、久慈コーチたちをまじかに見れて、大いに満足であった。

 その後、夕刻の宜野湾市に向かい、今何かと話題の「普天間基地」に突き出す形で1992年に出来た「佐喜眞美術館」を三度目だが訪ねた。

 普天間基地を全望できるこの美術館は、「沖縄戦の図」をメインに丸木位里・俊夫妻の大作を中心に「平和」をテーマにした私立美術館なのだが、この日は火曜の休館日だったが、修学旅行生のために臨時開館されていたらしく、幸運にも京都から来たと告げて入館させていただいた。

 作品を見学後、屋上に登って西日が落ちるのを見ながら、普天間飛行場の全景を見渡す場所の横に、フェンスがあり、その基地側に大きな沖縄特有の「亀甲墓」があるのが、何とも現実を物語っていて、思いは複雑に巡った。

 帰路のバスの中で、年配のバスガイドの女性が、嘉手納基地をはじめとする沖縄の米軍基地の現状と、平和への県民の願いを遠慮がちに訴えておられたのが一番印象的であった。

 観光地として年間600万人もの人が訪れる「沖縄」だが、米軍基地をはじめとする「招かざる客」に「思いやり予算」、そして軍用機の轟音と危険と治安の不安など、経済を除けば「いらない!」と思う現実が、そこには歴然とある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一休寺で除夜の鐘。

2009年12月31日 | ファミリーイベント
 大晦日といえば、大掃除、お節料理作り、年越し蕎麦、紅白歌合戦に除夜の鐘が恒例なのだが、今年は近くにある酬恩庵・一休寺の「除夜の鐘」をつきに行けるだろうか。

 大晦日の最後の恒例伝統行事である「除夜の鐘」は、私の幼い頃は直接聞こえて来ることもあったが、大抵はNHKの紅白歌合戦終了後、すぐに始まる「行く年・来る年」という番組から聞こえて来る、全国各地の有名な寺や由緒ある寺の鐘楼からの音が定番であった。

 縁あって、この地京都府京田辺市(旧綴喜郡田辺町)に移住して以来は、あの有名な一休禅師が晩年を過ごして亡くなったといわれる、通称一休寺、正式名称は酬恩庵というお寺の鐘楼の除夜の鐘を一般市民にも撞かせてくれると聞いて、約25年前から都合がつけば撞きに出かけているのである。

 酬恩庵・一休寺は、鎌倉時代に臨済宗の高僧であった大應国師(南浦紹明・なんぼじょうみょう)が、中国の虚堂(きどう)和尚に禅を学び、帰朝後に禅の道場をこの地に建てたのが始まりだそうである。

 その後、元弘の戦火にかかり復興もならずままだったのを、六代の法孫に当たる一休禅師が康正年中(1455~6年)に、宗祖の遺風を慕って堂宇を再興し、師恩にむくいる意味で「酬恩庵」と命名したのだそうである。

 一休禅師は、ここで人生の後半の生涯を送り、81歳で大徳寺住職となった時も、この寺から通われたらしく、今もその当時の小さな輿が残っている。

 禅師は文明13年(1481年)11月21日に、88歳の高齢で当寺において亡くなられ、その遺骨は現在も当所に葬られているので、一休禅師の名を今も親しみを込めて「一休寺」と称して呼んでいるのである。

 この寺の魅力はいろいろあるが、本堂や方丈など多くの重要文化財に指定されていて、方丈庭園は名勝指定を受けていて、松花堂昭乗らの作と言われる、禅寺としての枯山水を要したもので一見に値するものである。

 私は除夜の鐘を撞いた後も、いつもこの方丈の庭を眺めながら、一年の思いを浮かべたり、新年への祈祷を捧げる感じてある。

 ご存知の方も多いと思われるが、一休禅師は後小松天皇の皇子であるので、ご自身が82歳の時に建立された墓所は、御廟所として宮内庁の管理が現在も続いている。

 一休寺は、一休寺納豆と呼ばれる独特の真っ黒い納豆でも有名であり、毎年初冬に住職自らが大量の大豆を塩で漬ける光景がニュースで伝えられるほどの風物詩となっているが、お味は塩辛く昔の保存食そのものであり、雅趣ある風味は万人に好かれるものかどうかは疑問である。

 京田辺は、一休さんの住んだ町として至るところに「一休さん」の銅像が設置されているが、実際の一休さんに近い「一休禅師像」は、本寺にあり、漫画の一休さんや駅前などに設置されている「一休さん」とはほど遠いお姿である。

 さて、今夜紅白のトリを唄う「ドリカム」の歌声を聴いてから、一休寺の除夜の鐘撞きに家族で行きたいと思っている。

 

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「年賀状」製作に没頭。

2009年12月28日 | ファミリーイベント
 毎年の年の瀬の大仕事である年賀状作りと宛名書き、そして一筆添えての投函と、いつもの手順は決まってはいるものの、なかなか集中してデザインを決めて印刷して、手書き作業と行くまでが時間がかかるのである。

 今年の年賀状は、来年が寅年ということもあって「トラ」をデザインに入れようと思って探すのだが、「これで決まり!」という絵柄やデザインの決定打がなく、いろいろとレイアウトしたり、絵柄を変えたりしている内に何と6種類もの年賀状が刷り上った。

 結構面白いもので、この6種のデザインの賀状を選びながら、宛名書きをするのだから大変なのだが、相手の住所、お名前を手書きしながら、顔を浮かべて様子を想像したり名簿を順に見ながら、喪中で賀状を失礼するという喪中葉書が来た人には賀状を出せないので、チェックしながら相当な時間を要するが、結構楽しいものなのだ。

 毎年思うことなのだが、数百枚の年賀状を書くのは一仕事なのだが、元旦の朝から三が日にかけて、自分や家族宛に来る賀状を受け取り一枚、一枚見るのは、正月の楽しみである。

 しかし、先日ご年配の方々との会食の折に、年の瀬の賀状書きはもうやめたと言う高齢者もおられ、自分も年賀状書きがしんどくなったらやめる潮時が来るのだろうと将来のいつのことかは定かではないが、寂しい年齢になることを想像しつつ、今はまだ元気に年賀状を作って書ける幸いに感謝である。 

 それにしても、来年は「寅年」だからと言ってデザインは「トラ」にトラわれることはないはずだが、阪神タイガースファンの1人としても、やはり「トラ」が何処かにいる年賀状のデザインを選択して、楽しみつつ書き綴っているのである。

 賀状の印刷はパソコンでプリントするので、相当省力化され楽になったが、少しは手作り感と自分の字で相手を思いながら宛名と一筆を添える賀状をと心がけているので、指先と手首が疲れることは間違いない。

 でも戴く年賀状の中で、全てがパソコンや印刷屋の活字だけで記された賀状は、失礼ながら相手の健康状態だけでなく、気持ちや感情を読み取ることが不可能なので、ちっとも嬉しく思えないのである。

 だから、自分は何とか下手な字であっても、自分らしさを感じていただける字で宛名を書いて、瞬間的な思いや文章を少しでも相手に届けようと一筆書くようにしているのである。

 今朝は十時頃から作業に取り掛かったが、全部の裏面の印刷は終了し、ボツボツと宛名書きを「あ」の行から初めて、やっと「ウ」の宛名に移ったばかりだが、少し休憩の意味もあって、この「ガリバー通信」のブログを書いているのである。

 6種類の自前の年賀状のデザインの内、やっぱり今年から来年にかけても「不況や不景気風が吹く」だろうが、「パッと明るく」という思いを込めてのトラの後ろ姿とオレンジ色の大きな丸に「白で染め抜いた言葉」が目立つ賀状が一番気に入っている。

 さて、皆さんのところに届く賀状はどんなのかな? 
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇宙食アイス。

2009年12月16日 | ファミリーイベント
 先日の母の誕生日に兄弟姉妹がお祝い会に集まった際に、二番目の姉の夫であるW義兄が先日アメリカに出張した際のお土産として「NASAの宇宙食」を持ってきて、皆に試食として食べさせてくれた。

 「宇宙食」というイメージは、何かチューブ入りの味気ない栄養剤の様なものだと思っていたが、最近の「宇宙食」の進歩と言うか、多様なメニューの開発は驚くばかりのものがあるという。

 その中のひとつである、「アイスクリーム」がテーブルの上に無造作にほりだされたのだが、白とピンクの「ストロベリー味のアイスクリーム」だというのであった。

 小さな四角いかけら状の物体は軽くて、お干菓子の様であったが、口に含んでカジッテ見れば、なるほどこれが宇宙アイスかとなんとなく納得のいく甘くてとろけて行くような様子で、結構面白く食することができた。

 義兄はワシントンにあるアメリカ国立航空宇宙博物館、The National Air and Space Museumを見学したお土産に買ってきたらしいのだが、日本でも東京都江東区にある「日本科学未来館」でも宇宙食の体験やお土産品として売っているらしいものだった。

 私自身は、かつての「宇宙食」のイメージしかなかったのだが、そういえば最近宇宙ステーションに長期滞在した、日本の宇宙飛行士の若田さんやその前にディスカバリーで宇宙飛行をした野口さんたちは、とっても多くの日本製宇宙食も持ち込んで食していたという。

 1961年に人類初の宇宙旅行をした当時のソビエト連邦、現在のロシアのガガーリンさんは、あの有名な言葉「地球は青かった」という名文句を残した軍人でしたが、歯磨きチューブに似た容器にストローのようなパイプをつけて食べるクリーム状やゼリー状の味気ない食品が定番だったようです。

 これらの「宇宙食」は、赤ちゃんが最初に食する固形物としての「離乳食」のようなもので、宇宙飛行士たちにとっては、とっても評判が悪いものだったようです。

 しかし、1969年のアメリカのアポロ11号が月へ初めて着陸に成功した頃からの宇宙食は、お湯が使えるようになったために、乾燥させた食品を水で戻してスプーンで食べられるようになっていたそうです。

 1981年のアメリカのスペースシャトルの成功以降、どんどんと宇宙食は改良と研究開発が進み、1998年からの国際宇宙ステーションの建設が始まって、宇宙飛行士の宇宙での滞在期間が飛躍的に延びたこともあって、現在では地上の食事に近い状態で、300種類以上の宇宙食が食べられるようになっているそうです。

 レトルトから、水を加えて戻すフリーズドライ、半分乾燥させたフルーツや肉、そして新鮮な野菜、チョコレートやクッキーなどの菓子類、珈琲、ジュースもあるそうです。

 調味料の塩やコショウも飛び散らない様に液体となっているらしく、日本で開発された食品としてはラーメンやカレーも食されているようです。

 いずれにせよ、食品メーカーとの共同開発で、今後も多様な食品が「宇宙食」として食され、私たちにも食する機会ができるのは楽しく面白い体験だと感動しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シュトーレンで誕生祝い。

2009年12月13日 | ファミリーイベント
 師走も半ばとなったが、今年の冬は暖冬なのか寒さ厳しい冬なのか、よくわからないままクリスマスまであと10日余りとなった。

 私たちの母の93歳のお誕生日を前に、母の誕生日祝いの昼食会をしようと、今日の昼下がりに大阪天王寺の和風レストランに兄弟姉妹と母の8人が集まった。

 母は12月18日が本当の誕生日なのだが、大正5年の年の暮れだったために、父親が女の子は数え年で年を取るのでと、翌年の一月一日、元旦に出生届けを出されたらしく、戸籍上では大正6年1月1日生まれとなっている。

 母は私たちが幼い頃から、よっぽどそのことが気になっていたらしく、私の実際の誕生日は12月18日だと、機会あるごとに言っていたのが印象的である。

 今日は三週間ほど前に「母の誕生日昼食会」のお知らせを姉妹たちにしていたので、幸いにも各々の夫たちも参加して下さり、母を囲んで8名の祝会となった。

 私が母を迎えに行く途中で購入した「誕生日祝いの花束」を車の後部座席に母が見つけて、「今から墓参りに行くの?」と数回私に尋ねる度に、「いやお母さんの誕生日だよ」と言うのだが、「私幾つになったの?」、とまるで他人事の様に何度も尋ねたりして、可愛いおばあさんであった。

 実は、私の父、母にとっては夫であった父が亡くなったのが、ほぼ40年前の1969年で、父が61歳の時であったので、母には父の分も含めて長生きしてほしいと皆んなが願っている。

 幸い、母はここ数年認知症の傾向はあるものの、心健やかで体もなんとか健康に恵まれて日々を過ごしているので、私たちにとってはとっても嬉しい限りのお誕生日である。

 そこで、和食のフルコースを美味しく食し、皆で二時間余お話したりと時を過ごした後、一旦レストランを出て、向かい側の喫茶コーナーに移って、各々が珈琲かカフェオレを頼んで、私が持参した「シュトーレン」にナイフを入れて、母のお誕生日ケーキ代わりとクリスマス前の雰囲気を楽しむこととなった。

 「シュトーレン」は、最近は日本でも多くの人が知るドイツの伝統的なお菓子の一つとなっているが、そもそもクリスマスを前にした待降節、すなわちアドベントに少しつづ切って食べる、独特の甘みと風味のあるパンケーキなのである。

 たくさんのドライフルーツとナッツ類にリキュールやバターがふんだんに使われている、もともとは家庭的なドイツから生まれたクリスマスシーズンの菓子で、最近では日本でも家庭で焼かれる方が増えているらしい。

 とてもフルーティーで、甘さも抑えた「シュトーレン」は、旦那たちにも好評で、大きなシュトーレンをかなり分厚く8等分したのだが、美味しく全て見事に完食となった。

 ちなみに、私が持参したシュトーレンは、知る人ぞ知る京都美山の「ベッカライ・ヨナタン」製で、八百屋のお客様にも大絶賛の絶品であった。

 おかぁさん、お誕生日おめでとう。ぜひ長生きして下さい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする