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ガリバー通信

「自然・いのち・元気」をモットーに「ガリバー」が綴る、出逢い・自然・子ども・音楽・旅・料理・野球・政治・京田辺など。

「サウンド・オブ・ミュージック」に感動。

2011年12月21日 | ファミリーイベント
 昨日の夜、我が夫婦にとっての今年のクリスマスプレゼントとして、劇団四季が演ずるミュージカル最新作『サウンド・オブ・ミュージック』を大阪駅近くのハービスENT7階にある「大阪四季劇場」に見に行きました。

 50年近く前になったと思われる、あの有名なジュリー・アンドリュースが主演した家庭教師マリアと、オーストリアの海軍大佐のお父さんと七人の子どもたちの「トラップ・ファミリー」が織り成す、悲喜こもごものテンポのあるストーリーと音楽を中心に危機を乗り越えていく物語として、本格的なミュージカル映画として日本でも公開されて以来、ペギー葉山さんが日本語訳として作詞した「ドレミの歌」をはじめとする親しみのある名曲を中心に大人気となった作品であるが、原作は向こうの作品であるにもなのにも関わらず、とっても素敵で温かな心地よい展開で、日本人によるプロミュージカル専門劇団の舞台として実現したのである。

 劇団四季によるミュージカルの舞台は、ほぼ十年前から数回鑑賞しているのだけれど、今回ほど前もって舞台のイメージを抱きながら劇場へと足を運んだことはなかったのではないかと思えるほど、インターネットのHPなどの前評判や鑑賞した人たちの感想なども事前に見ていたこともあって、期待は大という感じであったのだが、期待に違わずといった約2時間半のパフォーマンスを楽しませていただいた。

 私たちは、以前にも劇団四季によるミュージカルとして、「ライオンキング」に始まり、「美女と野獣」「オペラ座の怪人」「夢から醒めた夢」「アイーダ」「ウエストサイドストーリー」を鑑賞した覚えがあり、劇団四季の演ずるミュージカルは大好きで一定の信頼と期待をいつも持って行くのだが、事前にチケットを購入して今回も同様な気持ちと共に会場へと向かったのだが、今回は初めてチケットレスのインターネット予約で、携帯電話に返信された予約完了のメールは来ていたが、当日会場受付で果たしてうまく入場できるのかと妻は心配していたらしく、入場までは少し緊張気味であった。

 久しぶりの四季のミュージカル鑑賞だったが、前から5列目くらいの席だったこともあって、よく舞台が見えたこともあってか、たぶん7作目だと思われるこの「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台は、ストーリーの親しみやすさ、分かりやすさも手伝って、鑑賞後の感動は今までにないほど素晴らしいものであり、とても楽しく心温まる観劇となった。

 当然、あの有名なサウンドの歌の数々が舞台では次から次へと歌われたのだが、マリア先生を演じた笠松はるさん、トラップ大佐の村俊英さんを中心に、七人兄弟の長女リーズルを演じた脇野綾弓さんや修道院長を演じた秋山知子さんたちの歌は、とても心を洗われるとでも言っていいほどの透き通った歌声と声量、そして強く大きな意思を感じるほどの響きがあって、他の子どもたちのかわいくて一生懸命の歌声とは、また異なったプロの歌い手としての誇りと自信がみなぎっている様で、さすが四季の劇団員としてのたくさんの練習と鍛えられた日々を感じるほど、見事な出来栄えであった。

 この様な素晴らしい感動の舞台を制作する劇団四季の中心に、あの浅利慶太さんがいるのだが、この「サウンド・オブ・ミュージック」が大阪で日本人によるミュージカルとしてと公演されるに至るまでに、長年の準備と共に、多くのクリエイティブスタッフ、すなわちリチャード・ロジャース作曲、オスカー・ハマースタイン2世はもとより、脚本、オーケストラ、ダンス、振り付け、舞台装置や衣装、デザイン、そして演出という多くのスタッフや技術、専門家が指導し、制作がされたことを思うと、舞台の完成度が多くの観客の感動を呼ぶに至っていることは自明の理だと感心するものであった。

 最後に、カーテンコールの後に会場の観客も含めて皆で歌った「ドレミの歌」をはじめ、あのスイスやオーストリアの山々に咲く「エーデルワイス」を思わせる曲、そして、「マリア」「私のお気に入り」「「もうすぐ17歳」「さよなら またね」「すべての山へ登れ」など、数々の名曲が脳裏に走馬灯の如く蘇って来る感じで、帰宅途中の電車でも、そして翌朝を迎えた今朝の起き抜けにも、拙いけれどメロディーを今にも口ずさんでしまいたいほどの衝動を覚えるほどの感動であったことは間違いない。

 余談だが、公演終了後のカーテンコールでは、何度も舞台狭しと出演者が登場し、お礼の挨拶を繰り返していたのだが、あのかわいらしい七人兄弟の長女リーズルを除く6人の子どもたちは、最後の舞台には姿を見せなかったので、少し寂しいというか物足りなさを感じたのだが、18歳未満の子どもたちの深夜労働を禁ずる法のためなのかと納得しながら、やはり「サウンド・オブ・ミュージック」の主役は、マリア先生と7人の子どもたちであると強く感じたのであった。
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「ぼちぼちいこか」

2011年12月16日 | ファミリーイベント
 日本中で、大阪弁が面白かせられる時代となっているが、それぞれの地域、地方にはそれなりの歴史と伝統のある「お国ことば」というのがあって、私の場合、若い頃の仕事の関係で全国各地を歩くというか、四国、九州は営業仕事で回ったり、北は北海道から南はや沖縄までコンサートやプロモーション、または小冊子の取材を兼ねての旅で回ったことがあるので、この地方色豊かな旅心を感じさせてくれるものに、まずは「お国ことば」、つまり方言というのがあった。

 当然、その地方で出会う人々との語らいの中で、どうしても方言をなるべく使わない様にと心がけている方もいるのだが、私の場合は出来るだけ地方色丸出しの素顔というべきか、いつもの姿、つまり方言丸出しでのコュニケーションが大好きであった。

 初めて出会う人の場合も、その土地の方言交じりの会話を通して親しくなって、ご当地の食文化とでも言うべき美味しくて珍しい料理の舌つづをうつことができれば、それはその土地に行った印でもあり、忘れられない思い出と共に、出会った人をより懐かしく思うことができる様になるので、その橋渡し役の大きなキーワードが、故郷訛りなのである。

 現代人として生きる我々は、やもすると忙しさや事多きことを良しとする様な感じが多いのだが、実際は出来ることなら、誰もがのんびりとゆったりと過ごしたいと思っているはずなのだが、師走と呼ばれるこの年の暮れになると、誰もが「大掃除」「年賀状」「年末支払い」「お歳暮」「クリスマス」「おせち」と大変忙しくなってしまっていて、なかなか「ぼちぼちいこか」という気分にはほど遠いかもしれない。

 実は、先日私の4歳になる大変お喋り好きな、ちょっとオチョケ好きな男の子の孫が、私の妻方のおかぁさんである゜おおばぁちゃん」に会いに大阪に行った折に、何気ない会話の中に「ぼちぼちいこか」という言葉が出たのかもしれないが、ほんの近くのマンションの部屋へ実家から荷物を引っ越すという機会に、自然に「ぼちぼちいこか」という言葉が大阪弁と意識するまでもなく出たらしいのであった。

 四歳の彼は、その「ぼちぼちいこか」という言葉から、私の家に30年ほど前からある絵本で、体重のあるちょっと「おっちょこちょい」のカバが、いろいろと仕事や趣味に挑戦しようと試みるのだが、なかなか自身の体が重たくて、うまく行かないことが続いてしまい、結局最後には「ま、ぼちぼち いこかーと いうことや」で締めくくられた「絵本」を思い出した様で、突然絵本のセリフを言ったというのであった。

 「ぼちぼち いこか」は「マイク=セイラーさく、ロバート=グロスマンえ」の原作を児童文学作家の今江祥智さんが、大好きな関西弁で訳したという絵本で、1980年に出版されていて、私が子どもの遊び場活動のリーダーとして仕事していた頃に、たぶん本屋さんで気に入って購入して以来、多くの子どもたちにも読み聞かせ、我が息子が小さい頃にもよく読んでいた本なので、自宅を探して見ると、ブックカバーがだいぶ破れた状態ながら、中身はそのままあったので、もいちど読んでることにした。

 「かばという動物は、顔つきから動作まで、どことなくのんびり、おっとりしていて、にくめません。そのかば君が、がぜんやる気をだして、がんばってたものの、やっぱりも少しゆっくり考えようよ、というこの絵本の発想が好きです。」そして「とにかく、せちがらく、あわただしい世に、じっくりと自分をつめ、ぼちぼちと自分について考えてることも、たいせつではないでしょうか。」と訳者である今江祥智さんは、?訳者のことばとして記しておられます。

 ぼく、しょうぼうしに、なれるやろか。・・・・・消火作業をしようと梯子に昇ったら、梯子が壊れてしまって、「なれへんかったわ」、ふなのりは、どうやろか。と舟に乗ってみたら、舟はカバ君の重さですぐに沈んでしまい、「どうも こうも あらへん。」そして、パイロットやったらー・・・乗ってた小型飛行機は、かば君の重さで真っ二つに破れてしまい、「と、おもたけどなぁ。」

 なにをやってもーNOということにあいなり、頁をおうごとに、そのNOが大きくなる原書のおかしさが好きですと訳者のことばにある様に、チャレンジしたこと全てがうまくいかず失敗に終わっているのです。

 でも、何やら悔しさや気の毒というのではなく、いろいろとチャレンジしても自分に合った挑戦でないと、そうそううまくは行かないよと、軽い警告というべきか警鐘を鳴らしつつも、カバさんのユニークかつ、楽しげな挑戦の失敗に笑ってしまう感じの絵本に仕上がっていて、何事も皆さん、「ぼちぼちいこか」ということですわと励ましてくれているのです。

 関西弁と言うべきか、大阪弁なのかは定かではありませんが、年の暮れが迫らなくても、よく商売人同士が、「どうです?」と商売繁盛か不振かを聞く様な、大阪特有の普通の挨拶があるのですが、「ぼちぼちですわ」と応えるのが一般的であり、つまり「ぼちぼちやってますわ」というのは、結構「うまく行ってますわ」という意味もあって、ボロ儲けではないが、「何とかお飯は食べられてます。」という、独特の返答でもあるのです。

 大阪人だけではないと思いますが、商売や勉強、あるいは業務がどれほどうまく行っていたとしても、特に商売人は「儲かって仕方がないくらいですわ」とは言わないもので、「いい加減」、つまり、一番上手に何とか動いている状態ですという意味で「ぼちぼちですわ」と言っているのだというのです。

 幼い頃から生まれ育った環境において、それなりの会話やコミュニケーション能力が育っていくのでしょうが、私の孫もやはり大阪の流儀、大阪の習慣的「ことば使い」をいつのまにやら覚えて、これからの人生の荒波をも「ぼちぼちいこか」というニュアンスで泳ぎきって行くのだろうと、改めて絵本「ぼちぼちいこか」を読み返しながら、楽しんでしまいました。
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秋の向日葵の花

2011年09月30日 | ファミリーイベント
 九月三十日になり明日は10月になる。暦の上では九月は間違いなく秋なのだが、やはり秋分の日頃までは残暑も厳しく、なかなか秋を感じるまではいかなかったが、さすが彼岸を過ぎれば台風一過もあって秋の気配が色濃くなってきている。

 そこで、夏の間、狭い庭ながら私の住まいの居間の窓際を覆っていた「グリーンカーテン」なるプランター6個を並列に並べて、ゴーヤ、朝顔、琉球朝顔を計20株ほど植えて、夏の間の日々を少なからず涼しげに楽しませてくれた緑の植物を取り払うことにして、昼からはさみを手にグリーンカーテンのネットを切らぬよう取っ払う作業をした。

 ちょうど六月の下旬に東日本大震災の被災地にボランティアに行って帰って来てからの作業で真夏に向かっての節電や涼感を少しでも高めようとの願いで、小さなグリーンカーテンではあったが、ゴーヤは十本以上収穫し、白く大きな琉球朝顔は夏の終わりに私たちの目を楽しましてくれたが、何故か普通の朝顔は、小さな花をつけたものはあったが、ほとんど咲かずじまいであった。

 ゴーヤつまり苦瓜に関しては、そんなに大きなものは出来なかったが、やはり自分の庭で育ったという付加価値があるためもあって、何度も口にすることとなって、意外にもあまり苦さを感じることもなく食したと言ってよく、食卓を彩ってくれた。

 そもそものグリーンカーテンとしての効果の方はどうだったは、今年の夏の暑さは例年と比べて気温の上昇した日が多く、真夏日と言われる30度以上の日だけでなく35度を超す気温を記録した日も数日あったせいもあってか、あまりグリーンカーテンによる直接的な効果を感じるまでには至らなかったと思うが、やはり小さな苗から二階のベランダ付近まで伸びた十数本の弦が見事にネットと絡まって成長した風情を喜んだものである。

 毎日午前中に水やりをして日々の成長を見守りつつ、ゴーヤの実がなったのにはとても感激し、その緑の深さと共に味わった苦味をともなった味は忘れることはないと思うもので、ちょっとした狭い庭での人間の手を加えた植物の世話としても楽しめた思い出となった。

 実は私の小さな庭には、もうひとつ楽しみにしていたものがあり、東日本大震災の被災地支援先のひとつであった宮城県亘理町から持ち帰った「向日葵の種」を遅まきながら7月の中旬に、それまで弦桔梗が群生していた隅をきれいにして、小さな畝を二つ作って、その種を縦列で二十粒ほど植えていたのであった。

 「向日葵」といえば夏を象徴する花の代名詞でもなっている花だが、日々の水遣りは欠かさなく見守っていたが、やっと九月中旬になって花をつけるようになって、実は秋分の日が過ぎて黄色い大きな花をいくつも咲かせるという状態で、私たちの目を楽しましてくれているのである。

 食卓に切花として飾ってある「向日葵の花」が、東日本大震災の被災地からのボランティアへの返礼という贈り物だと思うと、その黄色い向日葵の元気な花に、被災された多くの東北各地の方々の復興の願いと共に、多くの犠牲になられた命への鎮魂の気持ちが合わさって、私たちも元気に過ごしたいと思うのである。

 「ひまわり」は、夏の暑さの中でも本当に太陽の方向をしっかりと見つめ続けている様な姿で咲き誇っている花なのだが、秋の気配を日夜感じるこの頃に、肉眼では太陽が見えなくても、きっちりと太陽の出る方向に首を振って並んで健気に咲いている向日葵の列を見ると、なんだか不思議な素直さを感じてしまうのである。

 自然界の生物のひとつとして、向日葵だけではないが、太陽の光、温かな熱を体いっぱいに受けて生物は成長したり、健康を維持しているのだが、人間はややもすれば、その自然界の普通の常識である「太陽光」の有難さや恩恵に浴しているにも関わらず、そのおかげを忘れがちではないだろうか。

 小さな秋の庭に咲いた可愛くて力強い「向日葵」たちの黄色い元気な花を通じて、日々の健康で幸せな生活を大きく支えてくれている太陽の恩恵に感謝したい気持ちを改めて教えていただいたと言っても過言ではない。

 「向日葵」の花に感謝し、約二ヶ月以上楽しませてくれたグリーンカーテンを通じての、ゴーヤや朝顔たちの苗にも、ありがとう、お疲れ様、ご苦労様と感謝したい気持ちである。

 明日から十月、本格的な秋の到来を迎える。
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「墓参り」のはしご。

2011年08月11日 | ファミリーイベント
 八月十一日、今週末から来週にかけたお盆休みに、先祖の「墓参り」には行かねばと思っていたのだが、ちょうど家内が昨晩、明日は1974年に亡くなった自分の父、私にとっては義父が建立した自分の両親、つまり妻にとっての祖父母と共に埋葬されている義父のお墓参りに行くというので、久しぶりに私も同行し「泉南メモリアルパーク」と称する「大規模お墓団地」に出かけ、その帰りに私の父を含む先祖が眠る「大阪市瓜破墓地」に出かけることとなった。

 たぶん、13日の土曜からは、大変な混雑さえ予想される「お墓参り」のピークなので、少しでも早く行けたらと思っていたのだが、実は義父の命日が17年前の今日なので、お墓参りということで妻が思い立ったのであった。

 実は、17年前の義父が亡くなった日には私は生憎、中国内蒙古自治区へ出かけていて、数日前に義父とは大阪の妻の実家で話もして入院の件は知っていたが、その数日後にまさか亡くなるとは夢にも思っていなかったので、数年前からの恒例となっていた、夏休みの「内モンゴルツアー」を企画し数人の仲間を引率する形で、大草原での遊牧民との交流とゲル生活、おまけに乗馬を楽しむ一週間を過ごしていたのであった。

 当時はまだ関西空港がなかったので、大阪伊丹空港から北京へ飛んで、翌日に夜行列車で内蒙古自治区の東南部にある中核都市赤峰に入り、それから一泊二日かかって内モンゴルの大草原に到着するという旅で、たぶん草原生活の四日目か五日目だったと思うが、私自身が落馬し腰をしたたかに打ったために翌日、翌々日に激痛が走り、なんとか北京に戻った際に日中友好病院での診察を受けたのだが、なんと「骨折している。二ヶ月入院すると共に三ヶ月はコルセットで固定せよ」との医者の診断にびっくりしたことを今でもはっきりと覚えている。

 そこで、やむを得ず国際電話で大阪の実家にいる妻に「骨折した」ことを伝えようと電話をして、はじめて義父が亡くなったことを知ったのであった。

 今から17年前の出来事だが、当時はまだ携帯電話が内モンゴル草原からは送信したりできない状態だったので、私の事故?による「骨折」を伝えるまでに3日間がかかったことになるが、当時も感じたのだが義父が亡くなった命日になった日に私は、ひょっとしたら落馬していたのかもしれないのであった。

 すぐに帰国できる状態ではなく、同行されている仲間を北京郊外の万里の長城にお連れする予定も、私の不慮の事故での骨折で止む無く、慣れ親しんでいた北京の通訳さんと私の友人の張さんに引率を委ねて、私は北京のホテルの一室で腰の痛みを我慢しつつ、衛星放送テレビで一日中、夏の高校野球の準々決勝戦の四試合を観続けていたのであった。

 骨折と診断された私の腰だったが、病院の医師に入院が出来ないので痛み止め注射と服用薬を貰い、念のためにレントゲンの写真を預かって返り、帰国してから自分自身で日本の病院に行って再度診察をしてもらって必要な処置と入院が必要ならしょうがないと思って帰国の途についた。

 当然、義父の通夜や告別式は全て終わっていて、私自身はとんでもないというべきか人生初の骨折という大変な事態の最中にあって、妻をはじめ私の家族、友人たちも巻き込んで「大変なことになった」と、帰国した大阪国際空港に妻と友人たちが車椅子まで用意してもらって待っていてくれたのであった。

 私は北京空港でだいぶ痛さがましに感じたのかストレッチャーも使わず歩いて帰国の途についていたので、帰国手続きを済ませて自らの足で歩いて妻たちの待つロビーへと帰れたのであった。

 大騒ぎとなっていたのは、「もう下半身不随の生活となる」とか「車椅子生活を余儀なくされる」とか最悪のパターンの想像が拡大していたらしく、妻や友人たちは自分の足で帰ってきた私を観て「拍子抜け」したらしいのであった。

 実は、翌日大阪のとある病院の外科の診察を受けて、中国から持ち帰ったレントゲン写真も見せたところ、日本の医者は「全く骨折はない、強打した打撲傷」だと診察してくれて、診察通りその後一週間ほどで全く痛みもなくなり、幸いにも平常生活に戻れたのであった。

 とにかく、人騒がせなこととなったのだったが、私自身の大怪我、骨折はなく良かったのだが、妻の父の死に目には会うことが出来ないばかりか、馬からの落馬で骨折という事故や診断がなかったら、電話すらしてなかったと思われるので、なにやら「ムシの知らせ」ではあるまいが、帰国の途についた折には義父が亡くなったことを知る立場であったことだけは幸いだったのかねも知れない。

 私の記憶では義父が亡くなる約10日前に妻の実家の玄関先の部屋で、亡くなった義父としばらくいろいろと話していたので、なんだかお別れの会話となったのかもしれないのだが、なんとも信じられない義父の訃報であった。

 それから17年経った今日、義父のお墓参りをし、また42年前に亡くなった私の父の墓参りも夫婦ですることが出来、ほんとうに人の一生、いのちがいつ何時どういう形で亡くなってしまうのかは予想もつかない場合が多いのだが、間違いなくそうした祖父母や父母、また親戚があってこそ、今の自分たちが生きていることなのだから、やはり当たり前のことなのだが、祖先に感謝して元気に墓参りが出来る幸せを感じた一日であった。
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ハリーポッター完結編。

2011年07月19日 | ファミリーイベント
 いよいよ待ちに待った!とまでは行かないが、7月15日に国内全国ロードショーで公開された「ハリー・ポッターと死の秘宝、パート2を観た。

 大型台風の6号が近畿地方に接近する予報で、雨が時折激しく降る「海の日」という休日の月曜日でもあったのだが、夕刻のシネマコンプレックス映画館にはたくさんのお客さんがいて、暑さを回避し家族や友人たちとお気に入りの映画を見ようと集まっている感じで、予期せぬ満員状態の上映時刻も合って、私たちも久しぶりに映画を観るために3時間余を待たされたのであった。

 昨日早朝の「なでしこジャパン」のワールドカップ優勝という出来事に、まだ興奮さめやらぬ思いと共に、少し寝不足気味の人がたくさんいたと思うのだが、子供たちも多くいて「ポケモン」シリーズの映画も上映されていたとみえ、ボケモンデザインのケースに入ったポップコーンを食べながら待っている家族もいたようである。

 今までの「ハリー・ポッター」シリーズは、全て観ているのだが、どうも観ている時には理解できていると思っているストーリーであっても、時が過ぎればさほど覚えてはいなくて、このファンタジー物語の原作そのものを読んではいないので、さほどストーリーそのものには関心がなく、その都度の娯楽映画としての完成度と特殊メイクやCGを駆使した「映画作品」としての出来栄えを楽しんでいると言っても過言ではない感じの鑑賞が続いていた。

 今回は、2001年に公開された「ハリー・ポッターと賢者の石」以来の通算7作目であり、当初からの魔法学校の同級生であり仲のいい仲間でもある「ハリー・ポッター」自身を演ずるラニエル・ラドクリフと親友ロンを演ずるルバート・グリント、盟友ハーマイオニーを演ずるエマ・ワトソンの成長ぶりを中心にお馴染みのセブルス・スネイプとヴォルデモート卿らとの戦いが主題となっていたのだが、映画でなくても小説、脚本の常だと思われる「主人公の最後」がどうなるかに注目していたのであつた。

 案の定とでも言うべきか、最終的にはハリー・ポッターの宿敵とも言うべき「ヴォルデモード卿」との戦いに一時は「ハリーが死んだ」という感じで敗者となったような時間帯があったのだが、そこはやはりドラマであって、いつのまにか「ハリー・ポッター」は健在であって、彼自身はロンの妹と恋仲になっていて、観客の期待のひとつでもあった美しき盟友「ハーマイオニー」は、何故か親友である「ロン」の恋人となっていて、少しだけ原作は知らないが脚本としては美男、美女のカップルの誕生とはならなかった部分が腑に落ちない気分であった。

 それにしても、特殊メイクやCGを駆使しての大スペクタクル・ロマンとしての大迫力のスクリーンいっぱいの映画映像手法による作品は、巨額の制作費用をかけての大作であることは間違いなく、日本では7月15日公開のたった3日間で全国で17億円超の興業収入を記録し、本年度公開作品では最高のスタートとなったとのことだが、北米での3日間の興業収入はなんと推計約133億円に達する過去最高額を記録したとのことで、巨額の制作費もペイすること間違いなしの大ヒット作品として完結する模様である。

 余談ではあるが、2001年の第1作の「ハリーメポッターと賢者の石」以来、2002年「・・・秘密の部屋」、2004年「・・・アズガバンの囚人」、2005年「・・・炎のゴブレット」、2007年「・・・不死鳥の騎士団」、2009年「・・・謎のプリンス」、そして昨年の「・・・死の秘宝PART1」と全ての作品を観たわけだが、主人公のハリーとロン、ハーマイオニーの3人のかわいい少年、少女時代からの10余年間の成長振り、特に少女から娘に成長した美しい女優、エマ・ワトソンと共に、おっさんになってしまったロンとハリーを演ずる二人の俳優の姿が印象的であるのは当然だが、ストーリーや他の役どころは、マジックファンタジーロマンとアクションという主題の中で、おどろおどろしい場面も多くて、ほとんど記憶には薄くて、まるで「夢を観ていた様」でしかなかった。

 最後に、このシリーズのエンディングが、各々世帯を持ったハリーとロンの妹の子供とロンとハーマイオニーが結婚して誕生した子供たちが、新たにボグワーツ魔法学校に入学するために、彼らの父や母たちが出かけた様に、列車のプラットフォーム9・1/2から出発するのを見送るという映像で、今回のハリー・ポッター作品の完結編がエンディングを迎えたことが、なんとも「ありふれたホームドラマ」の様で、陳腐に感じられたのは私だけだったろうか。

 せめて、魔法学校を舞台とした「ハリー・ポッター」シリーズの完結編のエンディングなのだから、映像表現としては何でも出来る昨今の映画技術やCGや特殊効果を駆使した「3人の魔法術の成長の成果」を魅せてくれる様な趣向があっても良かったのではと一人少し不満に感じつつ帰宅の途についたのであった。
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真夏の植木剪定

2011年07月13日 | ファミリーイベント
 今日は、大阪の実家の道路サイドの植木が伸び放題になっていて、生活道路とはいえ前の道路の半分近くにオリーブの大木などがしゃしゃり出ていたので、ご迷惑をかけていたらと思い思い切って伐採するつもりで、自家用の軽のワンボックスに高枝切り挟み、脚立、のこぎり、剪定挟みなどと共に軍手とゴミ袋を用意して朝から出かけた。

 午前中にはだいだいの剪定が済むだろうとの予測をはるかに上回って、昼ごはんの休憩をはさんだとはいえ、なんと思いもかけずの5時過ぎまでの「植木屋さん」の如き仕事となった。

 日中はさすがに暑さを感じて、自宅から持参した麦茶のペットボトルはすぐに空になったので、自動販売機でスポーツドリンクを買って、水分補給をしながらではあったが、どんどんと汗をかくので「熱中症」にだけは注意しながら、高枝バサミと剪定ばさみ、のこぎりを駆使しながら、伸び放題の植木との格闘を行ったのである。

 幸いか不幸か知らないが、向かいのマンションの駐車場や周辺の植木の剪定に、プロの植木屋さんが来ていて、若いお兄さん二人と年配の仕事人が二人、計四人もの仕事人が仕事をしていたので、こっちも負けないくらい一人でがんばった。

 どうしても午前中だけでは時間が足らず、一時過ぎにやっと昼食休憩をとったが、午後からの時間の経つのがあっと言う間と言うべき感じで、二回ほど水分補給のためにペットボトルの水とコーラを自動販売機で買った以外は、一生懸命に刈り取った枝や草を出来るだけ短くカットして、はじめはゴミ袋に詰めようとしたのだが、小さな小枝やバラの棘などでビニール袋が破れてしまうこともあって、小さくカットした枝や葉っぱを直接ワンボックス車の後ろのスペースに詰め込んだ。

 汗をかきかき奮闘している私に、近所の奥さんだろうと思われる女性が声をかけてきた。自分ちにどんぐりのなる木があるのだが、大きくなり過ぎたので剪定というのか切ってほしいとのことで、「おいくらくらいかかりますか?」と尋ねてこられたのである。

 いやはや、私如きが自分の実家と言っても、現在は誰も住んでいない状態の家の玄関先から道に面している庭木が、あまりにも伸び放題なので切っていただけなのに、なんと植木屋さんと間違われた様子であり、実はプロの植木屋ではなく、この家の者で自分でやっているのですと説明した。

 しばらくすると向かいのマンションの仕事をしていた植木屋さんたちが仕事を終えて片づけをしてトラックに切った植木やゴミを積み込んで帰って行かれたのは気づいていたが、時間はあまり気にせずに植木と格闘していたので、向かいの管理人さんが今度は声をかけてこられて、「そちらは蔭がないから大変でしょう、水でも浴びますか?」と親切にも「熱中症」になってはいけないと気遣って下さったみたいだった。

 大丈夫ですとご親切を断って、もうひとがんばりして何とか車いっぱいに剪定した枝や葉っぱを積み込んで終了した時刻は、既に時計の針は午後5時を回っていて、びっくりして玄関先を掃除して車に乗り込んで京都の自宅へ帰途につき、行きしは第二京阪道の側道を走って行ったので、帰りは早くと思って阪神高速を走って帰った。

 とても気持ちのいい疲れと汗した体のままで、一仕事した満足感を感じながら阪神高速を走り抜けて枚方バイパスから、いつもの大阪からの帰路に使う、第二京阪道路の側道に入ってしばらく走ったところで、何か異変を感じた時は既に遅かった。

 後ろから何処から出てきたのかわからぬままに、白バイのおまわりさんが停止を指示していたのであった。

 高速道路の側道とはいえ新しい走りやすい道なので、ついついスピードが出てしまっていたらしく、「スピード違反」の反則金を払わねばならない違反切符を切られてしまった。

 なんとも皮肉なことに、一日汗してひと仕事をを終えて後はシャワーを浴びて、伝統の一戦で昨夜も勝った阪神タイガースの甲子園球場での巨人戦のテレビ中継を見るのを楽しみに急いでしまったために、とんでもなく後味の悪い結果となってしまった。

 なんとおまわりさんに「違反切符」を切られている時に、妻から携帯電話に「阪神は新井、金本の連続二塁打で先制した」とのメールが届き、スピード違反のお咎めさえなければ、とっても気持ちのいい阪神タイガースの快勝で借金を2とした晴れ晴れしかった夜になったのになぁと溜息交じりの日となってしまった。お疲れさんでした。
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理想は三世代同居。

2011年06月05日 | ファミリーイベント
 明治、大正、昭和、平成と日本の社会の変動に伴って、特に戦後経済の高度成長期を境にして、日本社会の家族構造が大きく変化しだして、いまや三世代同居という形で生活している人たちが極端に減っているのが現状であると言える。

 確かに高度成長の実態というのは、農業や漁業、林業といった第一次産業と言われる「仕事」から、都会を中心とした第二次産業、第三次産業と言われる工場や会社での雇用が増大し、田舎から都会や別な地方へと若い世代が移り住むことによって、だんだんと崩壊してきたと言えるのが「三世代」以上の同居といった日本的大家族だといえる。

 昭和30年代半ば、つまり東京オリンピックが開催された1964年ごろから、新幹線や高速道路網の整備や、戦後の日本経済の底力を見せ始めた産業構造の大幅な発展は、大量生産、大量消費の「豊かさ」をうたい、公共事業を中心とした「まちづくり」「インフラ整備」などの建築、土木業も右肩上がりの成長を続けてくる中で、見失ってきたのが「三世代同居」を典型とする日本の家族の姿であったと思われる。

 何故に、この「三世代家族」を取り上げたのかと言うと、昭和から平成の世、すなわち20世紀の後半から21世紀に突入して11年が経った、ニッポン社会が誰もが「何かが狂って来ている」と感じ出している「元凶」とは何だろうかということなのである。

 つまり、「虐待」「DV」「ストーカー」「詐欺」「家族殺人」「窃盗、強盗」と言った各種多様な犯罪が、あまりにも多くなっている現代になってしまった一因が、ここにあるのではないかという推論が成り立つのではないかと思うのである。

 ただ「昔は良かった」と言っているのではなく、世の中の規範、人間的モラル、社会的常識などと称される「価値観」が、世代を超えて「三世代家族」や「大家族」の中にあっては、知らず知らずに見聞きしたり、叱られたり教えられたりと、反面教師と言われる逆の示唆も含めて、日常的生活の中で学ぶことが出来ていたのではないだろうか。

 子供たちが幼稚園、保育所に始まる集団的社会生活で、初めて体験したり学んだりすることもあると思うが、たいていの「物事の善悪」や「普通の対応の仕方」などは、就学前も含めて「家庭の躾」や「父母、祖父母」などからの「教え」で身についている人が大半だったような気がするのである。

 しかし、現代社会にあっては、多くの子供たちが共働きや忙しい父、母の居てもいない時間や状態が多い中で育ち、「預けられたり」「一人でいたり」する時間が多く、たいていは「テレビ」や「ゲーム」や「漫画」の世界で時間をつぶし、中には食事もコンビ二や買い食い、または孤食と言われる「一人」で済ますと言った状態も増えている様である。

 そういった現状が増せば増すほど、「自分勝手」な気持ちが優先し、「他人を思いやったり」、「相手の気持ち」を考えて行動したり言葉をお選んで配慮するなどと言った「感性」を失い、「だって嫌なものはイヤ」とか、「自分の好きな様にしたい」と言った行動や言動を許してしまい、結局「ワガママ」や「すぐキレル」人間を生み出しているのではないだろうか。

 最近、ご年配の方々と話していると、この様な話が多く聞かれるようになっていて、私も戦後の団塊の世代として、「三世代同居」はしていないが、近くに娘夫婦と孫が二人居て、少なくとも一週間に二度や三度は会っているためもあって、同居に近い心境ではあるのだが、親子や祖父母との距離感を大切にした「労わり」や「手助け」が必要だと実感しているのである。

 私の老母は94歳で大阪で健在なのだが、自分が21歳の時に実父は他界している関係で、最近は私の住む京田辺市内で「三人の母と二人の父」と感じている知人たちと交流する機会が増えて、いずれも「私を息子」の様に思っていただいているので、とっても嬉しく感じつつ、出来るだけの「お手伝い」や「話し相手」になって、お役に立てればと思っているのである。
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天橋立股のぞき。

2011年05月04日 | ファミリーイベント
 毎年のゴールデンウイークとはちょっと違った感じの連休を迎えてしまった私だったが、一日くらい連休らしくドライブにでも出かけたいと思って、早朝より京都府とは言え最北端に近い宮津市の日本の三大景勝地のひとつである「天橋立」へと車を走らせた。

 早朝五時前に自宅を愛用のワンボックスカーを運転して一路、京都縦貫道へと急いで、現在高速道路ではあるが、「無料実験中」という何ともお徳菅のる形での数十キロを走り抜けて、京都府の中間的地点とも言える綾部と福知山の近くまで行って、思いがけない寒さに耐え切れず、近くのマクドに入ってホットコーヒーを飲んでから、再び車を北へと走らせた。

 今日は天気予報では相当温かくなると言っていたのに、今朝はなんと5度という気温で冷えていて、しばらくは車内も寒さを感じるドライブとなったのだが、ようやく天橋立に到着した頃には、やっと7度か8度くらいになっていたが、風が強くて松林の中を歩いていても寒く感じる午前中であった。

 十時前には、天橋立の宮津側に戻ってもう一度お茶してから、反対側の笠松公園を目指して車を走らせたのであった。

 「天橋立」という日本三大景勝地のひとつは、京都府民としても嬉しい観光地なのだが、いたるところが観光商売目当てで、駐車料金をはじめ食事やお土産販売も高くて、気軽に散策するといった人々にとっては、いまやちょっと敬遠しがちな場所になりつつあるかも知れないと感じた。

 何年前だったか、記憶に残る「笠松公園」での「天橋立の股のぞき」とは異なった感じを受けたのだが、やはりゴールデンウイークの観光客の多さが原因なのかもしれないが、少しガッカリした。

 そんな中、何年ぶりかで天橋立の「股のぞき」を試みたのだが、天候が晴れのわりには「黄砂の影響」もあってか「天橋立」がくっきりと股間に見えるというよりもぼやけた感じに思えたのは私だけなのだろうか。

 ご当地グルメなどのブームが全国的に人気なのだが、この天橋立の「股のぞき」の笠松公園では特製「ドラえもんの股のぞき」が販売されていて、店の人の弁では「許可を得るのに2年かかった」そうだが、かわいいストラップになっていたため結構売れていたようで、我が妻も孫の土産にと二つ購入したほどであった。

 この景勝地「天橋立」は、与謝野晶子、蕪村夫婦の和歌でも詠まれていたが、多くの著名人がこの地を訪れては、いろんな感想を寄せているようだが、砂浜を歩いても意外にもあまり「塩の香り」がしない日本海に突き出た宮津湾の自然が作った面白い地形となっているのだが、三陸海岸の大津波のことを思うと、ここは津波のない穏やかな海といった印象であった。

 天橋立の付け根の部分に近いところに元伊勢の神社があり、その近くから笠松公園へのケーブルカーとリフトが出ていて、天橋立を「股のぞき」するスポットに到着したのだが、多くの老若男女が「股のぞき」を体験していて、とても賑わっていた。
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{鍋の季節」ですよ。

2010年12月15日 | ファミリーイベント
 冬至まであと一週間となり、本格的な冬の到来を感じさせる寒さが日本列島を包みだしています。

 京都の今日は、今年一番の冷え込みで、朝方はマイナス三度になるそうですし、今日の日中も最高気温が十度を下回るという、この冬一番の寒さとなりました。

 日本人の冬は、やっぱり「鍋」に限りますよ。

 鍋といえば、最近は寄せ鍋やちゃんこ鍋、すき鍋に加えて、キムチ鍋や豆乳鍋も人気のようですが、今晩の私たちは「鮭バター鍋」という、一風変わった鍋に舌鼓を打ちました。

 近くのご年配のご夫婦さんが、ご親戚からいただかれたらしい「鮭の切り身と頭」をちょっとしたお礼にと下さったので、家内が見つけてきた「鮭バター鍋」のベースとなるスープを基調に、鮭はもちろんですが、鶏肉のつくね、ちくわ、白菜、水菜、焼き豆腐、ニンジンなどを入れて「鮭バター鍋」を作って、初めていただきました。

 とっても温かくて、鮭はもちろん美味しかったですし、スープがいろんな野菜やお肉と共に、いい出汁になっていてなかなかの美味となりました。

 最近の鍋にまつわるニュースと言えば、なんとコンビ二で売っている「一人鍋」用セットなどという、ちょっと寂しいものですが、やはり家族が揃った団欒の真ん中に、暖かい鍋があるのが一番ですよね。

 ところで、この鍋の起源なのですが、幕末までは日本人は仏教思想の影響もあって、牛や馬の獣肉忌避時代であったらしく、鯨肉をも「勇魚」(いさな)と称して魚の扱いとしていたそうで、お肉を入れた「鍋」などする人は少なかったらしいのです。

 江戸時代には、鹿の肉を「紅葉鍋」、猪の肉は「牡丹鍋」と言って、薬食として滋養に良いとされて好まれていたらしいのですが、猪肉を「ボタン」と呼んだのに対して、馬肉を「さくら」と称するなどして、植物のように扱っていたようです。

 明治になり、文明開化と共に牛肉が登場して、「御養生牛肉」の看板と共に「すき焼き」が普及したそうなのですが、「すき焼き」の語源はご存知の様に、耕作用の「鋤(すき)」を使って屋外や納屋で食したことからとされています。

 今では、牛や豚をはじめとして鶏肉や魚、魚介類などを中心にたくさんの冬野菜を盛り込んで、しらたきや豆腐なども入れて、中には餅うどんなども入れたり、最後にはおじやや雑炊までする「鍋文化」が発達していると言えます。

 「桜鍋」、「もみじ鍋」「牡丹鍋」「鯨鍋」などの獣肉鍋と、「河豚鍋」「石狩鍋」「鮟鱇鍋」などの各種魚鍋と共に、日本を代表する鍋物として、日本の食文化の冬の定番となっていますが、どうぞいろんな具素材の美味しさを、いっしょくたんにいただく、この「鍋文化」の美味しさを堪能しつつ、また新たな「創作鍋」に挑戦してては如何でしょうか。

 夜半になって益々冷えてきましたから、ぜひ二三日中に、また「鍋を囲んで」親しい者たちで楽しく過ごしたいものですね。
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ハリー・ポッターを観る。

2010年11月25日 | ファミリーイベント
 イギリスの作家、J・K・ローリングによるファンタジー小説で、世界的ベストセラーとなっている「ハリー・ポッター」シリーズの映画が、いよいよ第7弾目となる「ハリー・ポッターと死の秘宝」の原著の発売から3年余経って、先日日本での公開がなされ、いつものように妻と時間が合う頃を見計らって劇場での鑑賞に及んだ。

 「ハリー・ポッター」の原著を私自身は読んだわけではなく、魔法使いの少年の話としてのフィクション、つまりファンタジー小説の世界を如何に映像化して楽しませてくれるのかに期待して、いままでの六作も全部観ているのだが、作品のストーリーなどはほとんど忘れていて、主演しているハリー・ポッター役のダニエル・ラドクリフをはじめとする俳優たちが成長する過程と共に映画が製作されているために、仲のいい三人である、ロン・ウイーズリー役のルパート・グリントとハーマイオニー・グレンジャー役のエマ・ワトソンの成長と変化に驚きつつ、楽しんだのであった。

 特に写真にあるように、女優として成長したエマ・ワトソンは少女からうら若き女性と成長し、二人のまだ子供ぽさを残したハリーとロン役のふたりとは違った妖艶さまで兼ね備えた女優に成長していると思える感じで、映画の中でもロンとの関係とハリーとの三角関係のような表現もされていて、微妙に描かれている。

 いずれにせよ、第1巻「ハリー・ポッターと賢者の石」が映画化されて公開されたのが、2001年であるからおよそ十年に及ぶ製作過程があるので、すべてのキャストの人たちが十歳は年取っていることになるので、特に少年、少女として登場した彼ら三人とボグワーツ魔法学校の生徒たちの成長振り、変身ぶりは目を見張るものがあるのである。

 そもそも20世紀末のイギリスを舞台に、魔法使いの少年ハリー・ポッターの学校生活やハリーの父母を殺害した当人でもある世界支配を企てる強大な悪の闇の魔法使いであるヴォルデモートとハリーとの戦いを描いた物語なので、前編が暗くて危うくものものしい背景や、いつ何処から妖怪や敵が現れるかがわからないストーリーが続くのである。

 七作すべて、「ハリー・ポッターと○○」と称するタイトルでシリーズの著作も映画も紹介されているのだが、第二巻「秘密の部屋」、第三巻「アズカバンの囚人」、第四巻「炎のゴブレット」、第五巻「不死鳥の騎士団」、第六巻「謎のプリンス」と続いて、今回の第七巻は「死の秘宝」だそうで、第七巻だけ映画ではパート1とパート2に分かれているのである。

 今回のハリー・ポッターと死の秘宝も、観客を飽きささずファンタジーの世界に集中させる迫力があり、私なんかは映像と音響もあって、四度も全身に鳥肌が立つほどの衝撃ともいえる「驚き」、つまりビックリを経験したくらいで、怖いというべきか恐ろしい瞬間もあり、ハラハラどきどきで心臓にも刺激となったようである。

 ヴォルデモート卿を信奉する死喰い人のひとりであるベラトリックスというスキンヘッドで鼻のつぶれたような敵が不気味で怖い存在なのだが、ハリーたちの脱出劇や三人の友情と戦いには勢い力が入って、観終わった後に夢に出てこないか心配になったほどであった。゜
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