勝福寺 Gikoohの日替わり法話

山寺の住職、Gikoohが日々感じたことを綴っております。
(プロフィール用の落款は天野こうゆう僧正さま彫刻)

生活空間に数多く存ずる「境」についてのGikooh考

2013-12-24 22:50:44 | Weblog
真言宗では供養の基本の1つとして「六種供養」が説かれている。六種とは「茶湯」「塗香」「華鬘」「焼香」「飲食」「燈明」のことで、いずれも仏教の実践修行方法としての六波羅蜜に通じている。先日の日替わりで日常生活で生かせる茶道文化を1つ紹介させて頂きたいと書いていたが、前回と今回の文をリンクさせならが読んで頂ければ有難い。

茶湯は、正式には閼伽(あか)といって水のことだが、一般には茶湯で良いとされる。水は生命の根源で、これを供えることは六波羅蜜の第一「布施行」を積むこととなる。布施とは施しのことで、広い意味では他人や社会に尽くし、すべての生命を愛おしむことと解釈して良いだろう。

今回は塗香以降割愛するが、六種供養も六波羅蜜もネットで容易に検索出来ると思われるからそちらに譲りたい。

久代地方は本家普請の家が多くあり、床の間付で二間続きの和室で法事が営まれることが多い。祭壇は床の間に組まれ、御本尊、故人の位牌、お膳、六種の供物に加え、餅、果物、饅頭など数多く祀られる。床の間には必ず床框があり、それを境にして聖なる部分と、俗世に生きる我々とが区切られている。これが今夜のテーマ「境」だ。

聖なる部分に仏様をお祀りし、自然界が作り出す恩恵をお供えしてある光景は何とも素晴らしく、林檎一つみても出生から考えると摩訶不思議な姿だ。数々の供物を通して何かしら感化され学ばなければならないとGikoohは常々思っている。例えば六種供養の華鬘は文字通り花のことだが、花は誰かを喜ばせるために咲いていないはずで、ただただ自らに与えられた使命を精一杯生きている貴い姿だと思う。暑さ寒さにじっと耐え、出番が来たら綺麗に咲く…、花を供えて、花から学ぶことは六種供養の第三「忍辱」(にんにく)の心を養うことに通じる。余談だが、祭壇や墓地に造花を入れているのを見受けることがあるが、これは本来の意味と違ってくるから勧められない。

今日は「境」をテーマに話が展開しているが、食卓の箸置きについて先日NHKに出演されていた箸メーカーの社長さんが「箸置きの向こうは天地からの授かりもの、こちらは俗世間」という興味深い話をされていた。俗世間の我々が天地からの授かり物を頂くわけだから、心から感謝して戴かねばならないことを物語っている。

茶杓でも竹節があるが、Gikoohは床框や箸置きと同じ意味なのではと思う。日常空間の中には、何気ない境や区切りが数多く存在する。それらについて何か感じる人と感じない人とでは人生に大きな差が出てくる。

茶室の空間に坐すると、特によく感じることが出来る。千利休という人は途轍もなく分厚いお人柄ということが想像に難くない。
コメント
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