勝福寺 Gikoohの日替わり法話

山寺の住職、Gikoohが日々感じたことを綴っております。
(プロフィール用の落款は天野こうゆう僧正さま彫刻)

湖東焼の水滴

2013-12-11 22:43:56 | Weblog
午前中は掃除や雑務をし、午後から倉敷市立美術館で開催中(2013/12/3-2014/1/26)の「コレクション展」~新収蔵作品を中心に~を観覧してきた。先日招待券を頂いていたことと、Gikoohの心の師、林鶴山さんと親交の深かった偏刀彫の名手で故・平賀石泉氏の作品が多数展示されていたので、自身の見識も養っておきたかった。

平賀石泉氏の作品は勝福寺にも何点か収蔵しているので、作風を知って頂く為にも次回紹介したい。同展では「懐石盆」や「茶合」「巾筒」など平賀石泉氏の作品が10点、諏訪五老氏の作品が2点、神崎軒水氏の作品が6点、林鶴山氏の作品が5点など、合計34点の秀逸作品が展示され、十分に見応えがあった。

そしてもう1つ、Gikoohの眼を杭付にさせたのが、同時開催の中村昭夫氏の「水島のおいたち」という写真35点だ。昭和29年~42年にかけて目まぐるしく変わり行く水島の風景が見られるのだが、その中に昭和34年11月に撮影された写真の前で衝撃を受け、しばらく動けなくなった。それはGikoohの郷、倉敷市「呼松」のさびれてゆく呼松漁港の船着場という1枚だった。港の多数の漁船、漁夫達。そこまでは良かった。ところが海を見ると油がたくさん浮き、海面が汚染されているのが生々しく伝わった。

この年代は水島コンビナートが着工され、産業の発展途上にあった。昔の呼松は、松の峰が連なり、眼前には瀬戸内海の広がる絶景だったと聞いている。Gikoohが生まれた昭和48年頃の呼松周辺は環境破壊が進み、既に現在のコンビナート地帯と化していたので今の景色しか知らないが、この度の写真展は大自然の絶景が膨大な土砂で埋め立てられて破壊されていく様子が生々しく記録されているので、初めて見る過去の現実に複雑な感情が湧いた。

今、利便を極めた生活を送ることが出来るのは、こうしたことが土台にあることは分かっているし、感謝もする。けれども、素晴らしい自然の数々を破壊してまでの文明発展はいかがなものか。文明が異常に発達した一方で精神文化は音を立てて崩れ、社会は難しい問題を多数抱えるようになった。昨日も書いた「一時の誉れ」は、目先の欲望、これらは後になって困ることが多い。

勿論、写真展は自然破壊と産業発展の様子だけではなく、懐かしい水島の風景も記録されている。人間は行き着くところまで行かないと、気づかないのかも知れない。

今夜は長くなったが、この写真は湖東焼の水滴。墨を磨る時に、硯に水を入れる容器だ。湖東焼は江戸時代中期の彦根藩で生産が開始された。藩主は幕府の大老を務めた井伊直弼。しかし、安政7年(1860)に桜田門外の変で大老が暗殺された後、急激に衰微し明治中期に途絶した。昭和61年に復興され現在に至る。

井伊直弼が指揮をとっただけに、湖東焼は上品な道具が多い。この水滴は恐らく明治に入って作られたものだと思うけれど、とても良い雰囲気だ。
コメント
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