遅いことは猫でもやる

まずは昔メールした内容をひっぱってきて練習...
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迎春準備

2018-12-31 06:51:15 | 雑感




いよいよ今年も押し迫ってきた。が、街は普段から慌ただしいせいか一向に歳末気分が盛り上がらない。それでも29日頃から帰省だろうか、家族旅行だろうか、揃っての家族連れの姿を見かけるようになった。

しかし街角には門松が立たない。やっと駅前のパルコの入り口に見かけた。あとはせいぜい松飾りと印刷された張り紙である。商店やスーパーには正月飾りが山と積まれているのだが、街角では5軒に1軒程度しか飾ってない。

我が家の玄関ドアにも、月桂樹と千両のリースを飾った。羽子板と羽のミニュチュアが可愛い。マンション風にちとアレンジしてみたがどうだろうか。歳神様は居心地良しと判断してくれるだろうか。

本年もいろいろありました。私にとっては激動の一年でしたが皆様にとってはどんな年だったのでしょうか。来年はいい年でありますように。

皆様良いお年をお迎えください。

散歩の道標

2018-12-30 16:22:58 | 雑感

壁面に案内図を掲載

公園にある説明板

圓朝住居跡の説明板

東京は他所者の集まりだ。だから説明が到るところである。街中の標識が結構丁寧なのもそのせいだろうか。散歩の途中にある企画会社の横を通ったら、建物の壁に人物と地図が書いてある。小林一茶、勝海舟、芥川龍之介、吉良邸跡などだ。

近くの縁の地の案内である。さすが江戸、東京で歴史上活躍した人や場所には事欠かない。上述の場所には残らず行ってきたので、今回は三遊亭圓朝の住居跡を訪ねた。

といっても小さな公園の片隅にアルミの説明板があるだけだったが、こういう歴史上活躍した人への配慮が嬉しい。圓朝は
江戸末期の落語家で、親子2代に亘り圓生に弟子入りした。人情話を得意とし「塩原太助一代記」などを語った。

三遊派の隆盛を記して木母寺に三遊塚を建てたという。

池波正太郎の世界

2018-12-27 06:18:56 | 雑感

二の橋の袂



五鉄跡


池波正太郎は私の好きな作家の一人であるが、鬼平犯科帳に度々出てくる「五鉄」という軍鶏鍋屋がある。鬼平の手の内の密偵が色々な相談や待ち合わせをする場所でもある。新鮮な軍鶏の内臓をささがきにした牛蒡と炊いた鍋を突付くさまは、食通の池波正太郎の面目躍如たるところである。

散歩の途中見つけた小林一茶の居宅跡の向かいが、小説の舞台だと案内板が立ててある。こうしたことも江戸ではまま目にすることである。「君の名は」で有楽町や数寄屋橋と言う地名や橋の名前を知ったのと同じで、鬼平犯科帳で二の橋を知ることになった。

今現在の橋は高速道路が上を走り風情も何もあったものではないが、木造のお菓子屋さんがわずかにその風情を伝えているかのようである。

俳人一茶も近くに住んでいた

2018-12-25 06:01:05 | 行ってきました




江戸は史跡の宝庫だ。先日は奥の細道出立の地、隅田川の畔に行ってきたが、芭蕉記念館も密度の濃い記念館であった。ぶらぶらと錦糸町界隈の橋の袂を歩いていたら、何やら標識が立っている。本所相生町5丁目(現緑1丁目)に「俳人小林一茶の居住の地」とある。

信州で生まれた一茶は(上水内郡信濃町生まれ 幼名弥太郎、長じて信之)3歳のとき母をなくし8歳でむかえた継母とは不仲であった。15歳で江戸に出て俳諧に親しみます。溝口素丸、小林竹阿に学び各地を巡歴しながら交流を深めました。

「寝始まるその夜を竹の時雨哉」 は引っ越しの日に詠んだ句である。ここには竹が群生していたらしい。彼は5年ほどこの地に居留したが、文化5年(1809)12月に旅から帰ると留守中に借家が他人に貸し出されていました。「行く年を元の家なしと成りにけり」 当時の大家さんはひどく横暴だったらしい。それとも、一茶が断りもなしに家を留守にしたのかもしれない。 

波乱万丈の生涯を送った一茶であるが、どこそこユーモアを感じさせる作風が、いかにも人間らしくて私は好きである。

すみだ少年少女合唱団

2018-12-24 04:02:24 | 雑感



歳末の一日、孫達が属しているすみだ少年少女合唱団の演奏会が近くであるとのことで、聞きに行ってきた。正式には「クリスマス・レバント・ラウンジコンサート(東武ホテルレバント東京)」というので、ホテルのラウンジでのコンサートである。

お茶を飲んでいるお客の目の前に整列し、指揮者に従って合唱を始める。小学生から高校生まで各パートに分かれて歌が始まる。学芸会の延長かと思ったが、どうしてどうして、練習をしっかり積み重ねていて、カチッとした合唱になっていた。子供の澄んだ声は大人のソプラノとは別に胸に響くものがある。

童謡、クリスマス曲など、全10曲を退屈することなく聞かせた。なかなかのレベルである。先日のN響の歌声といい今回といい、合唱もなかなかいいものだと認識を新たにした。

懐かしのチンドン屋

2018-12-23 03:33:34 | 雑感


師走の街を歩いていたら、ちんちんどんどんと昔懐かしい鉦・太鼓の音がする。信号待ちの交差点で、手拍子・足拍子でちょんまげ姿、島田姿の男女3人組が踊っている。はるか昔小学生の頃にわずかに記憶が残っているチンドン屋がいるではないか。

東京都は不思議な街だ。ガラスとコンクリート、スマホの街にもかかわらず、一方ではこうした古い物が残っている。商店でも文具屋さん、足袋やさん、草履屋さん、あられやさんなどが店を出している。京都でも会ったような気がするが、あちらは古都である。近代化の先頭をゆく東京で、前時代的なチンドン屋という対比が妙におかしい。

奥の細道出発の地

2018-12-22 02:50:10 | 行ってきました

芭蕉庵史跡展望庭園

芭蕉坐像

園内の句碑

芭蕉記念館から200mくらいの隅田川沿いの丘の上にある展望庭園。句碑と案内板があり、石段を登ると芭蕉の坐像がある。イメージよりは大きい像で、ぐるっと回転をするそうだ。芭蕉は複雑な表情で川を見つめ、短い髭も生やしている。旅立ちには門人の多くが見送りに来ていたのだろうか。200年近く前ここから東北行脚の旅にでかけた。

マスメディアのない江戸時代、俳句で身を立ててゆくのは相当な苦労があったと思われる。ましてや俳句そのものが短歌から独立して間もない時代で、腹の足し、出世の道具、金儲けなどにつながらない趣味がどうしてこの世に普及したか興味のあるところである。

階段の途中に投句箱が設けられていた。この地を訪れる人はやはり俳句を嗜む人が多いのだろう。この階段の下から芭蕉は旅立ったのだろうか、同じ地に足を下ろす感慨にちょっとしびれた。


芭蕉記念館

2018-12-21 03:31:10 | 行ってきました

芭蕉記念館正面入口

芭蕉堂

邸内の細い階段

本館庭園

両国から程ないところに芭蕉にちなむ記念館があると、地元のT君から聞いて、これは行かずばなるまいと、散歩がてらでかけた。吉良邸跡の史跡から隅田川沿いに出て5,6分歩いたところである。小さな潜戸で門横には展望庭園の案内があり、まずはそちらへ行ってから、記念館に入った。

立派な建物である。侘び寂びを連想する俳句の世界にしては近代的な建物で、中では5,6人のグループが何やら会議中であった。庭に回ると流石に手入れが行き届いており、こじんまりした庭に多種類の植物が植えてある。樹樹の名前はもちろんのこと、ちなんだ芭蕉の句が添えられ、さすがだと思わせる。小さく盛り上がった築山の上には茅葺きのお堂が置かれ、小さな像が安置されている。

俳句と同じで、小さくても濃密な存在感を醸し出している。大げさでなく好感が持てる佇まいだ。下へ降りて入館しようとして、今後の企画展を見たら「歳時記と季語に見る俳句」とあったので、一度じっくりと出直してこようと、帰途についた。


隅田川沿いの入り口

芭蕉庵史跡展望庭園への案内掲示


討ち入り史跡

2018-12-20 01:34:32 | 行ってきました

吉良邸跡史跡全景

跡地表示の石碑

史跡公園内全景

公園内松坂稲荷

12月14日は忠臣蔵赤穂浪士47名が討ち入りした日である。両国駅あたりを散歩していたら、「吉良邸跡」のモノクロの幟がはためいていた。たどってゆくと都指定旧跡吉良邸跡(本所松坂公園)と碑が刻まれている小さな公園に出た。

公園と言ってもなまこ壁がめぐらされ、門がある屋敷跡みたいな空き地である。門をくぐると吉良様の坐像が目に入る。ここが忠臣蔵で名高い吉良邸跡の一部だそうだ。みしるし洗い井戸が片隅にあり、討たれた家臣20名の碑、上野介追慕碑、稲荷神社などが並ぶが、広さはせいぜい100㎡のこじんまりしたところである。

備え付けのパンフレットによれば、吉良家上屋敷は東西73間南北34間2550坪の広大なものだったという。この公園は昭和9年地元両国3丁目有志がが発起人となって、ここの土地を購入し東京市に寄付をしたものだそうだ。当時の1/86の規模だが、おかげで吉良公御首洗いの井戸も保存され、貴重な旧跡が維持された。

三河の吉良では新田の開拓や塩業の発展に尽くした名君として親しまれ、華蔵寺では赤馬祭も催されている。それを実感しているだけに少し反発したくなる忠臣蔵の語り口である。勧善懲悪、忠君奉公という国家主義の思想につながるストーリーである。

冷静に考えれば、国会の中で拳銃をぶっ放した暴漢が、死刑に処せられ更に恨みつらみを募らせ、後年、組の仲間と仇討ちをするという、徹底したルール違反を賛美する物語である。聞けば義央は賓客を応対することにかけては天才的才覚を発揮していたようで、かなりのインテリだったらしい。討ち入りの際吉良の家臣は20名殉職をしており、多勢に無勢の中、かなり抵抗したと思われる。赤穂義士の方は死亡者ゼロだったのだろうか。

江戸・東京には到るところにこういった史跡があるのが退屈しない所以である。


吉良上野介義央像

吉良家家臣二十士碑

天才文豪の文学碑

2018-12-19 05:06:14 | 行ってきました


小学校の片隅にある文学碑

勝海舟生誕の地に隣接して両国小学校がある。その校舎の南西の角に文豪芥川龍之介の文学碑が立っている。作品はもちろんのこと、風貌からしても、生き方からも天才というにふさわしい生涯を歩んだ文学者が幼/小/中と学んだのがこの両国であった。

代表作の一つ「杜子春」の一節が刻まれている。35歳でこの世を去った天才は数々の名作を残した。もちろんくらぶべくもないが、我が身のぐうたら生きている毎日を思うと忸怩たるものがある。

府立第三中学校(現在の両国高校)から成績優秀により無試験で第一高等学校第一部乙類に入学、その後東京帝大英文科に入学・卒業した。母親が早くになくなったため、母の兄芥川道章に引き取られ13歳の時養子縁組をしたという。

この碑は両国小学校115周年記念事業として建てられたものだそうだ。