遅いことは猫でもやる

まずは昔メールした内容をひっぱってきて練習...
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貰い事故

2011-01-31 18:19:16 | 雑感

無残に潰れた左後部

久方ぶりに(といっても、擦る程度のことを除いて、以前に事故を起こしたのは
いつだったろう?)事故を起こした。貰い事故である。

名四国道を名古屋に向かう途中、前のシルビアが急停車した。こちらも精一杯ブ
レーキを踏んで、なんとか寸前で止まれると思った瞬間、後ろで大きな音がして、
車が前に押し出された。はずみで前の車に衝突してしまった。

前の車のリアーに当たりトランクが少し持ち上がってしまった。
私の車は、左テールランプのあたりが削られ、無残にもグチャグチャになってい
た。前はボンネットも少し歪んでいる。

前から降りてきた人に別状はなかったようだが、すぐ私の後ろから降りてきた人
に向かって、免許証の提示や、ナンバーを控えたりして手際が良い。私が当事者
なのだがと不思議に思った。

聞いてみると東京海上日動の損保代理店をしている方だという。こういう場合は、
最後尾の人が、100%責任をもつのが通例だそうだ。追突した人も製造部の部
長さんで、すぐ保険会社に連絡し、警察にも現場検証を求る電話をいれた。

30分ほどして警察官が到着し、人身事故のおそれが少ないと見ると、物損事故扱
いで、現場写真を撮り、車検証、自賠責の確認をして、あっさり帰った。

僅か4ヶ月前に下ろした車が台無しである。幸い車が何とか動くのでディーラー
にもちこんだら修理に3週間はかかるという。気が重くなったが、こんな時、あ
んまりわがままを言うのは止そう、と自制し、代車を出してもらい、乗って家に
帰った。

事故関係者が揃って、大事は無いか、検査を受けておけ、とすすめるのと、今日
は心なしか首筋に張りがあるのと、軽い頭痛を感じるので、明日病院で検査を受けて
おくことにした。後で何かでてこないようにと祈るばかりである。

新年早々縁起が悪い。宝くじでも買おうかなあ。小当りをするかもしれない。




熱田神宮初詣

2011-01-26 17:10:57 | 雑感

集合場所は東門

私が属している朝食勉強会の恒例行事に一月の熱田さん参拝と鰻会食がある。
久しぶりに仲間と会える、と楽しんで出かけた。
本日の参加者は7名。本日のうなぎ屋さんは熱田蓬莱軒。さすがに皆さん定刻に
は集合。


ウイークデイの11時だが参拝客はいる

神宮拝殿入り口で、手と口をすすぎ、本殿へ参拝。一段落したとはいえ、さすが
熱田神宮。参拝者はひきもきらない。本年の無事と、活躍を祈願して恒例の記念
撮影。
これも恒例、通りすがりのおじさんにシャッターを押してもらい終了。還暦を迎
える、H君はお札を授かりに、受付所に立ち寄る。
11時20分過ぎに蓬莱軒南門店に到着。25分には開店だ。行列を作っていた30人ほ
どが一斉に入場。相変わらず、人気店である。
近所の経営コンサルタントKさんのお世話で我々は、個室を予約できていたので、
そこに着席。程無く、Hくんが到着。ノンアルコールビールのキリンゼロで乾杯
し、ひとしきり雑談の花が咲いたところで、恒例の「昨年の振り返りと今年の抱
負」を一人ひとりが発表。
勉強会ののメンバーだけあり、皆さんしっかりした意気込みを聞かせていただい
た。聴いている人からアドバイスあり、意見交換ありの良い雰囲気だ。
12:30 これから鳥取に出張に出かけるKさんの予定をしおに解散、楽しい
顔合わせ会となった。

蓬莱軒の肝焼とひつまぶしの薬味


雪上散歩

2011-01-25 15:31:26 | 雑感



寒い。気温は0度をわずかに上回る程度。部屋に閉じこもるのもなにか潔くない
と考え、雪の中を散歩に出かけた。

歩き始めればうっすらと汗ばむ。防寒具が効いている。空気がひんやりと気持ち
が良い。

雪の中に色々な足跡が残っている。はっきり分かっているのはウサギくらいだが、
それもどちらが前だったか定かではない。(多分左右に揃っているのが後ろだと
思うのだが)

なにか尻尾の跡がついたのもある。(狸や狐は冬眠するのではないか)これは貂
か?
凍った池畔で比較的大きな直線的な足跡に出会った。傍に肉球の跡も鮮明な足跡
が寄り添うように付いている。鹿を追った大型犬だろうか。駆けたように乱れて
はいない。

どんな動物が、どんな状況で通りすぎて往ったのか?
我々も同じように、何らかの足跡を残している。はっきりと大きな跡の人もいれ
ば、乱れた跡の人もいる。同じところをぐるぐる回っている人もいるだろう。

一体自分はどんな足跡を残してきたのだろう?
いずれにしても、一度雪が降れば消えてしまうのだが。

これは鹿の足跡だろうと思うのだが

ただいま549m

2011-01-24 15:00:25 | 行ってきました


上部は今日も工事を続けている

スカイツリーが大分伸びてきた。上京の度に成長している。東京で宿をとったホ
テルから歩いて25分くらいのところである。朝の散歩に丁度良いので、工事現
場まで行ってみた。


この通りもスカイビューストリートと名を変えた

どこからみても、よく見える。案外道路がまっすぐなので、ほとんど全景が見え
る箇所がある。近くは業平橋があり、そこには近所の案内板が設置され、インフォ
メーションセンターも開所されている。単なるテレビ塔の建設ではない。街おこ
しである。東武開発が社運をかけて取り組むデベロップメントだ。竣工は本年1
2月、ショッピングセンターなどの完工は来春の予定。



休日というのに、上部ではクレーンが動いていた。足元まで行ってみると、確か
にデカイ。太い鉄柱が無数に組み合わさって、空へ伸びる。何故か左右が非対称
に見える。現在549mまでいっているそうだ。(最終的には645m)

さすが東京、朝早くから、私と同じようにカメラを提げて、見物に来る人が何人
かいる。団体さんもいた。案内板には近所のトイレ配置図迄あり親切だ。


スカイツリーだけでなく、周りの都市開発も急ピッチで進んでいる


見上げると自分の側に倒れこんでくるような錯覚を覚える。近所の商店街も千載
一遇のチャンスと見て売り出しに懸命だ。スカイツリー工作品、お土産、メニュー、
押切と業平からだろうか、「おしなりくん」なる、ゆるキャラ迄つくっている。

街は、なんとなく活気が出ていた。

三浦一人(かずと)

2011-01-22 17:53:22 | 雑感

寒い中、綺麗な音が街角に響いた

錦糸町の駅前を歩いていたら、良い響きのサウンドが聞こえてきた。なんだろう
と音源に近づいてみるとストリートミュージシャンのライブだ。零度近い寒さの
中で、人々が立ち止まって聴いている。

キーボードの弾き語り。おそらくは作詞作曲も自分だろう。バラード調の唄。
ゆずや、コブクロに似ているが少し違うか。

網走出身だそうだ。素朴そうな青年である。今の若者に受け容れられるかどうか
は分からないけど、心に染み入るようなサウンドだ。こういう人が売れるといい
な。

但し歌っているときの、苦しげな顔はやめた方がいいと思う。

おばさんらしき人が二人、CDを買ったり、コンサートの問い合わせをしていた。


うれるといいな

憲政記念館

2011-01-20 17:52:52 | 行ってきました

国会議事堂はなかなか立派である。

憲政記念館入り口


3ヶ月ほど前、朝のワイドショーで紹介されていた、憲政記念館に行く機会があっ
た。

国会議事堂の斜め前に位置する。国会休会中にもかかわらず、周囲は警官が警備
し、警備車(金網で窓を覆ったバス)も二台ほど停まっていた。



尾崎咢堂の像に迎えられて扉を入る。こんなところに来る人はいるのか、と思っ
ていたが、どこかの後援会の面々か、殆ど70歳以上の人々の団体が入っていた。

入口の受付案内のおじさんも親切で、「今の団体とは別の人ね」「この案内パン
フをどうぞ」「一階は撮影OKだから、そこの議事堂内部のレプリカで撮影する
といいよ」と案内してくれる。


部屋が狭いせいだろう。なんの感慨も沸かなかった。

正面を進むと、議場の一部が再現されており、菅直人首相の所信方針演説が流れ
ている。議場の中央部3/4の一部レプリカだ。

2階は明治維新以来の議会制民主主義の歩みを辿っている。維新前の船中八策、
明治憲法原文、普通選挙運動、大政翼賛会の結成など、近代史、現代史に出てく
る数々の史実が展示されている。壁に展示してある、議員在職25年記念の肖像
画は余分のような気がする。

尾崎咢堂は別室に展示がしてあった。東京市長を務め、世界一周をし、ポトマック河畔の桜を寄贈し、憲政に60年寄与した人である。我が祖先もそうであったが、この時代の人は、自ら積極的に広く世界に視野を広げたような気がする。

総じて、明治以来の政治家は、発言に命をかけ、言論を戦わることで、一国の運
命を担う気概には溢れていたと思う。鳩山前首相のような軽さは微塵も感じさせ
ない印象である。中国や、北朝鮮のごとく、演説はプロパガンダとしている国に
は、まだ民主主義は遠いと思う。

ちょっとがっかりしたのは、浅沼委員長刺殺の時の背広、ナイフが展示してあるとTVで
報道されていたが、残念ながらなかった。当日の演説原稿が残っていたが、近
視の浅沼委員長らしく5cm角の大きな文字で書いてあった。


じじバカ

2011-01-19 17:28:30 | 家族



4人目の孫が先月生まれた。下の息子からである。4人目にして初めての男の子。
男女を問わず、孫は可愛いものだが、家内は直系男児の誕生だ、となにか格式張
る。男も女もそれぞれに良さがあるので、どちらもいいのだが、偏るのはどうか
と思うので、幾分ほっとした気分もある。

お宮参りに同道してくれとのことで、先週東京へ向かった。
久しぶりに見る間近の富士山は雲をたなびかせ、堂々としていた。

あんな風な男に育ってくれればと願う。



宮参りは亀戸天神だ。梅がチラホラ咲き、参拝の人々で賑わう。
拝殿にあがり、ご祈祷をしてもらう。中学、高校進学、の若者が多い。
中には厄年の祈祷の老年男性もいた。センター試験と重なったので大学受験生は
いなかった。



菅原道真公ゆかりの地とあって、さすがに学問の願い事が主である。
しばらくぶりに対面した孫は、相変わらず口をへの字に曲げ、こちらの気持ちな
ど忖度なく、ご祈祷中もスヤスヤと眠っていた。やっぱり可愛いものだ。


すごい雪

2011-01-17 11:32:47 | 雑感


週末東京に行ってきたのだが、帰りの雪には驚いた。

まず東京発のひかりが遅れた。余裕を持って発ったつもりが、20分ほど遅れて出発。
豊橋までに何とか時間は取り戻したが、そこからが行けない。

文字通り寒風吹きすさぶホームで30分近く立ち往生。寒い、風が冷たい。車高から出るときのポイントに不具合があったらしい。やっと出発するも、各駅停車の徐行運転。無理もない。積雪がある中の運転だ。気温が低いので雪が溶ける気配はない。窓の外は一面の雪景色だ。車も殆ど走っていない。一時間くらいかかってやっと刈谷に着いた。

結局普段の倍位の時間をかけて家ににたどり着いたことになる。

深夜の街は一面の雪景色。いつもと別世界に見える。積雪で足元もおぼつかない。我々はたまさかのことだが、毎日こんな状態で暮らす雪国の人の苦労が偲ばれる。


ルーツに触れる 「謄写版と岡本家」展

2011-01-13 10:08:44 | 家族



先日、本家筋に当たるいとこから案内が来た。今度碧南市で「謄写版と岡本家」
という、展示会をやるので、それを契機に「いとこ会」を開催するというもの。

家を建て替えるに当たり、取り壊す蔵の中を整理し、所蔵品625点余りを碧南市
に寄贈したのがきっかけである。市の文化財課の人が、歴史的な考証をしたもの
であるので、信頼できる。口伝えに聞いていたことなどが少し修正された。

碧南市の藤井達吉現代美術館の地下展示室で開催されている(入場無料 1/30まで)この展示会は予想より、随分きちんとしており、学術的にも意味がありそうである。


昔懐かしいガリ版器材

3代目利助が、95人の職工などとともに、当時としては先進的だった西洋型帆船
の建造をおこなったのだが、経営不振のため亀崎の株主が手を引いたので、養子
の与一郎(岡崎、平岩家出。私から言うと祖父)とともに経営にあたった。

色々な不運も重なり、明治37,8年頃廃業のやむなきに至った。(そういえば、子供
の頃、家の横がドック跡となっており、そこでで親父と泳いだ記憶がある。)
このあたりのことは、郷土史家 村瀬正章「伊勢湾海運の歴史」法政大学出版会刊でも触れられている。

与一郎は明治39年渡米し、造船業の視察をし、造船業の復興を図ったが、岡崎の実兄の勧めもあり断念。渡米で身につけた英語を活かして、通訳や、梅村学園の英語教
師をして生計を立てた。

そののち、謄写版業に身を置くことになる。教員生活の中で、テキスト制作などに関与することが多かったせいだろうか。与一郎は研究熱心で、謄写版原紙に最適な和紙(雁皮紙)を求めて全国を捜し歩いたり、原紙作成のゴムローラーで
は柔軟性に欠けるとして、ゼラチンローラーを開発したりした。そういえば事務
所の片隅で、郎の匂いを立てながら原紙製造をしていた光景を思い出す。

あとを継いだ功氏は、会社を印刷部、営業部、研究部の三部に分け、運営した。
三男だった私の親父も、営業の手伝いや、技術の普及活動をする研究部で、一心舎式謄写法を世間に伝授していた。

若い頃、親父に自分のところの技術を教えたら、商売仇を増やすのではないかと
聞いたことがある。「そんなケツの穴の小さいことを言っててはダメ。素人と玄
人とは技術の違いがあるし、尊敬され商売せねばいけない。またみんなが習えば、
材料は売れるぞ」と研究会の仕事には自信を持っていた。現に親父が亡くなって
から、県庁のお役人に、「貴方のお父さんからガリ版の切り方を教えていただい
たのが役に立った」とお礼を言われたことがある。後年苦労して取得したオフセット
技術を業界の方に普及したのもこの流れがあったからだろう。

この展示会で、岡本家のルーツには当時のベンチャー精神があったこと、また、
藤井達吉翁(a.wikipedia.org/wiki/藤井達吉 )と遠縁であったこと、などを知ることができた。こうした血が自分の中にも流れていると思うと、なぜか力強く嬉しい。

父親が満州へ行って一旗あげようとしたのもこういう背景があったのか、と、妙
に懐かしいような、或いは勇気が沸いてくるような感情になった、楽しい「いとこ会」であった。
もし時間のある方がおられたら足を運んでみてください。
明治時代こんな片田舎にも、時代を切り開こうとした試みがあったということが確認できます。


物故された親類縁者の法要も行った。


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誕生日

2011-01-12 10:20:51 | 雑感


1/6は68回目の誕生日であった。

朝、家内に「おめでとう」と、自身は不調の体をおしてお祝いを言われた。
それだけでいい。39年間家内には、何かとお世話をかけている。
どうしてこんなに私の面倒をみてくれるのだろう?ありがたいなあ、としみじみ思う。

この世に出し、育ててくれた両親も今はない。両親から貰った物質的な財産は殆
ど無かったが、それに勝る精神的な教えや気質を伝え、残してくれた。
今日私があるのは、紛れもなく親のおかげである。
誕生日は両親を筆頭に、今日の自分をあらしめてくれた方々への感謝を確認する日だ。

ただ確か父親が亡くなったのは68歳だったような気がする。
同じ歳まで来たかと思うと感慨ひとしおである。
比べると私は随分子供ぽい。

まだなにかやり残りているような気もする。

後日、家内から「鼻毛切り」をプレゼントされた。面白い。
鼻毛を伸ばす年代でもあるまいに。