海舟生誕の地の標識碑
由来碑
勝海舟の業績などの説明板
以前アサヒビールの本社(筋斗雲の巨大なオブジェのある隅田川沿いの建物)の脇に勝海舟の像があり、あの辺りの住人かと思っていた。両国あたりの散歩案内図に、勝海舟生誕の地の碑があるとの記述があり、駅近くの両国公園に行ってみた。
江戸の遺跡、所縁の場所などが流石に東京には多い。公園の片隅に標識とパネル説明板が掲示してある。勝海舟は幕末幕府方の役人として活躍したが、もともとは12代将軍徳川家慶の5男の遊び相手として江戸城に召されている。剣は島田虎之助の道場で習い、直心影流の免許皆伝である。兵学は窪田清音の門下生である若山勿堂から山鹿流を習得している。
嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されると、幕府老中首座阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を広く募集した。これに海舟も海防意見書を提出、意見書は阿部の目に留まることとなり、安政2年(1855年)1月18日、異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられて念願の役入りを果たし、海舟は自ら人生の運を掴むことができた。
その後長崎海軍伝習所に入門(ここでの学習成績は評価の分かれるところであるが)、新たに造られた軍艦操練所で海軍技術を教えることになる。万延元年(1860年)、幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節をアメリカへ派遣する。咸臨丸の指揮官として乗り込んだのが海舟である。
海舟は幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指すが実現せず、最後の老中板倉勝静によって最後の陸軍総裁にまで起用される。予定されていた江戸城総攻撃の3月15日の直前の13日と14日には海舟が西郷と会談、江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行う。結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救われた。世にいう江戸城無血開城である。
後世に残る彼の業績の第一はこの西郷との談判であったが、彼は維新後もしぶとく生き残り外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任、伯爵に叙された。
評価はいろいろだが、彼は日本の歴史を作った一人であることは間違いない。彼は視野の広い優秀な官僚であったと思う。