法要の席
今日は実兄が亡くなって3回忌だ。大勢の親族が集まる。菩提寺の先代はしょうもない説法をされていたのだが、当代はまだましである。「親には感謝、子に慈愛、妻宝極楽、一家繁栄」という話をされた。最近孫ができたそうでつくづく奥様の力を認識したということらしいが、皆様同等そんなことは先刻承知である。しかし実感したと言われるのが納得の源である。
先日、広妙寺の尼さんが「やっとこの頃遺影の前で話ができるようになった」としみじみ言われたのを思い出す。
その席で配られた追悼集への寄稿文を紹介して私の思いとします。
悼む
早いものでもう三回忌を迎える。つい先月まで元気だったように感じるが、時の流れは冷厳である。
この3年で兄弟・姉妹が3人亡くなり、あっという間に6人が3人に半減してしまった。
兄とは男二人きりで年齢も離れていたので、子供の頃は余り兄、弟を意識しないで育ったような気もする。ただ兄には何か陽だまりのような暖かさを感じていた。
伊勢湾台風で浸水被害があった時、父も兄も3日ほど名古屋から帰って来られなかった。
その折、泥水の家には高校生の私が一人男で残っていて、「しっかりせねば」という思いと、
父や兄の存在を強く感じた記憶がある。
兄は技術系の大学進学を希望していたのだが、会社の後継者として心ならずも断念せざる
を得なかった。そのことは後年に至るまで心残りであったらしい。人柄も相まって頼まれる
公職や役職はほとんどを喜んで引き受けていたような気がする。また父親譲りの外面の良さは
自他公認のところであった。そのしわ寄せは家族ともども甘んじて受けてきた。
父から受け継いだ「家業」を「企業」に脱皮させようと言うのが、私がこの会社に入った頃の兄との共通目標であった。そのために奮闘努力し、公では言えぬようなことを度々一緒にくぐり抜けてきた。
このあたりのことは語りだせばきりがない。
そんな体験を共にしたからか、二人の時は大いに論争したが、最後にはたいていは任せてくれる度量の大きさも感じた。後年,ぽつんと「なれるなら、医者か教師か絵かきにでもなりたかったな」と聞いたことを覚えている。
十分ではないが、現役の頃は私自身力一杯働くことができ、概ね兄が自分の描いたような人生を送る支えができたのではないか、という自負を持つのはおこがましいだろうか。
一方「従者にとって勇者なし」とつくづく思うこの頃でもある。