遅いことは猫でもやる

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老後の自衛に子と契約

2005-12-22 02:21:08 | 雑感
師走になり、毎日が年の瀬だと言う実感をひしひしと感じます。寒さ厳しき折充分御自愛ください。

今回は江戸時代のお話です。

江戸時代は、我々が想像している以上に、契約の時代でした。儒教の影響で忠義、孝行など、道徳が行き届き、倫理的にもきちんとしていたと思われがちですが、実態はどうも違うようです。

三行半は必ず確かに受け取ったという請け書がいりますし、嫁に行くときには「こうゆう理由があったら実家に戻っても良い」という、契約書を交わした例もたくさんあります。ついでながら、駆込み寺への離婚調停では、殆ど女性のほうが手切れ金を支払っています。

当時の倣いでは、どちらか原因を作ったほうが慰謝料を払うのではなく、「別れたいほうが払う」ということになっていたようです。

この時代の契約書を研究しておられる、専修大学高木教授の調査によると、家督を譲るときには、「親に対してこうすべし」、と書面で明文化してあったそうです。一日或いは年間に米を何俵、薪何束納めること、隠居所はどこそこへ作れ、などと書状に詳しく記録されてあるそうです。
儒教の教えが今より浸透していたのに、これらのことは本当に必要あったのかとも思われますが、親孝行を奉行所が表彰しているところをみると、案外実際には行なわれていないのでなかったか、と推測できるのです。
江戸時代の裁判は事実関係よりも、こうした書状や、契約を第一の裁定基準としていたので、記録としてこういうものが沢山残っているとのことです。

皆様方には縁遠いお話しですが、引退してからごたごたするより、水臭いといわれても、家督相続の始めに親子で契約をして置いたらどうかという、高木教授のお薦めでした。

身近な偉人

2005-12-12 16:35:00 | 雑感
先日の知人のお父様のお通夜の席でのお話は、しみじみと故人を振り返る、とても感動するご挨拶でした。
その方は豊田自動織機の自動車部(トヨタ自動車の前身)でトヨタ車のエンジンの製作に携わった方で、豊田喜一郎伝にも名前が出てくるかたです。その頃に作られた車と記念撮影された写真が入り口に飾られておりました。

私達の身の回りには、こうしたすばらしい方々がまだまだ沢山おられると思います。一つ二つ私の周りのことをお話し、こんなことなら、自分にもあるぞ、と言うことで情報交換をしていただければ、一層自分の街に愛着が湧くのではないでしょうか。

私の住んでいる街、刈谷の出身で、明治維新の5年前、幕府に公然と反旗を翻した「天誅組の変」に拘った人がいます。松本、藤本、宍戸の三名です。その天誅組総裁松本圭堂の歌碑が城跡の亀城公園にあります。

詩は「君が為命死にきと世の人に語りつぎてよ峯の松風」と言う辞世の句です。

これを揮毫したのは川田順という歌人(今の天皇に歌の指導をされた人)ですが、この人は家内の親戚だそうで、家内は「順叔父さん」と呼んでいたそうです。この人は、住友に勤め、歌人としても有名で、晩年世紀の恋をしたことでも有名です。何か天誅組が身近に感じられます。

また、私の父方の実家のことが、郷土史研究家の村瀬正章先生の著書「伊勢湾海運・流通史の研究」(法政大学出版会刊)に記載されています。それによりますと、曽祖父岡本利助は明治21年碧海郡新川町鶴が崎字那智に衣浦造船を設立、西洋型帆船の建造を始める。(従業員90人といわれる)後に養子の祖父与一郎も経営に参画したが、利助の死後、時代は既に帆船から蒸気船に変わり、明治37年には廃業した。とあります。
この事業は成功裏に終わりはしなかったにせよ、明治の20年にいち早く和船から西洋式の帆船つくりに乗り出した、曽祖父の先進性に誇りを覚える者であります。

三河は保守的な土地柄とよく言われますが、天誅組やトヨタ系各社のモノつくりなどを見ていると、決してそうではなく、時代を先駆ける動きをしていることがわかります。

私達の血の中にその先進性が流れていることを意識したいと思います。