遅いことは猫でもやる

まずは昔メールした内容をひっぱってきて練習...
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東京都江戸東京博物館

2010-06-17 13:05:10 | 行ってきました

堂々たる外観

野球賭博問題で今話題の両国国技館の横に立派な建物がある。
かねてなんだろうかと気になっていたので上京の折立ち寄ってみた。

立派なジオラマ中心の展示デ江戸時代を再現している。人力車、初期自転車、火
消し纏、肥え桶などに手を触れてみさせてはいるが、何を伝えようとしているの
か印象散漫である。


町並みの再現、小さな点は人物

三井本店:この暖簾が15分毎に上下するが何の意味があるのか

中村座

お金は随分かけているのだが、江戸時代の何を伝えようとしているのだろうか?
上水道、下水道が発達していたとの展示があった。思いがけないことであった。
徳川300年の鎖国は暗黒時代であったとの印象があるが、教育は行き届き、治安、互助精神が醸成されたなど、近年プラス評価されることが多くなってきたように思う。

現在日本の国際社会における特徴は江戸時代に基礎が形作られたといっても言い過ぎでは無いだろう
その歴史的役割の解説設備でなければ、この施設も仕分けされてしかるべきか。


日本橋の再現

江戸城:松の廊下

大名屋敷

横網公園

2010-06-15 12:27:36 | 行ってきました

東京都慰霊堂

空襲犠牲者追悼 平和記念碑

震災遭難児童弔魂像


東京へ行った折、朝の時間散歩がてら、ホテルの横の横網(両国でありながら横綱ではない)公園にいってみた。

なんとそこは、旧陸軍被服廠跡地で関東大震災、東京大空襲の犠牲者を祀る慰霊堂がありました。

大正12年9月1日午前11時58分に発生した地震は地震の大きさも大きかったのですが、発生した火災で犠牲者が拡大したとのことです。第二次大戦のとき米国はこの経験を踏まえ焼夷弾を中心とする空襲を敢行したのではないかと思われます。

震災の折には赤十字を通じ義捐金などを送ってくれた米国、フランスなどと戦争をするとは
当時は思いもしなかったのでしょう。

境内には鮮やかな花壇で彩られた東京空襲犠牲者を祈念する碑や、震災の混乱の中で惨殺された、
朝鮮人犠牲者追悼碑などもあった。


朝鮮人犠牲者追悼碑

焼け跡に残る残骸の数々:印刷機

復興記念館

一隅に復興記念館があり、災害時の地震計の記録、被災地図、焼け爛れた遺物、当時の新聞や刊行物、絵画などが掲示してあった。

素朴な展示であったが、当時の雰囲気は良く伝わってくる。関東大震災の時には日本国内全地域から、或いは海外からも救援措置が取られたことが良く判る。このような歴史を見ると、近年の海外の地震災害などには惜しみなく救援活動をすべきであろう。

入場無料であったが、入るとき入り口で「カチャッ」とカウンターで数えられた。
仕分け対象にになるのだろうか。ちなみに45分の見学中、他には一組だけであった。立派な施設であるだけに、もったいないような気がする。
このような施設が残る東京は、豊かだなあ、というのが実感でした。


振り返れば、スカイツリーが顔を覗かせていた。


人生は点線である

2010-06-10 18:26:39 | 雑感
新潮社刊 養老孟司著 「養老訓」

何年か前に買って、放り出してあった本だが、リタイアーして暇になって、目に
触れたので読んでみた。
気分が楽になる本である。そんなに固定概念にとらわれなくてもいいのでは無い
か。ありのままで、少し居直り気味でもいいのではないか。という趣旨である。

最後の「人生は点線である」という章が面白い。そこを紹介するとこの本の価値
がなくなりそうなので、興味のある方は1200円払って買ってみて下さい。(図書
館でも良いか)

目次のみ紹介します
1.不機嫌な爺さんにならない
2.感覚的に生きる
3.夫婦は向かい合わないほうが良い
4.面白がって生きる
5.一本足で立たない
6.こんな年寄りにならないように
7.年金を考えない
8.決まりごとに束縛されない
9.人生は点線である

ベストセラーになった「バカの壁」の内容も殆ど覚えていないが、この本も深く
は記憶には残らないだろうなあ。

やっぱり仕分けは必要?

2010-06-03 09:51:41 | 雑感
正面には休憩用の庵がある

隣町の大府市にある、中京女子大(現至学館大学)の横にある二つ池に立派な遊
歩道と噴水が設置されている。

木製の歩道と、アルミ製の手すりが完備している。池の中には二箇所以上の噴水
が定期的に水を吹き上げる。


遊歩道が伸び池の中には噴水がある


ここを人が歩いているのを見たことがない。
池端が整備されているのは悪くは無いのだが、誰がこれを必要としたのだろうか?
何の変哲もない池に、遊歩道を作ってなんになるのだろうか。

もしかすると、公共投資(お金を使う)のための公共投資では無いか?
作ってしまってから、あえこれいうのも無駄だけど、こういうものも計画段階で
しっかり仕分けが必要だとつくづく思う。

一度このばかばかしさを現地で味わってください。
身近なところで、仕分けの必要性を感じることができます。


菩提寺

2010-06-01 10:22:39 | 雑感
土井家の墓

母の17回忌の法事で、刈谷市の十念寺に兄弟、連れ合い、甥、姪が集まった。
ここは、刈谷藩主土井家の菩提寺でもあり、天誅組総裁松本圭堂の墓もある。

墓の掃除をしていたおじさんが「見ていくかい」と墓所の門を開けてくれた。三家老の墓の横に圭堂の墓、その奥に土井家の墓がある。

さすがに土井家との間には門が作ってあり、厳然と区別がしてある。松本圭堂の墓は質素である。

松本圭堂は藩の秀才で、幕府の学問所「昌平黌」( しょうへいこう)=今で言えば東大を首席で卒業したほどの人で、後に明治維新の5年前奈良の五条で、公家中山忠光を擁立して公然と幕府に対し武力蜂起をした。

世に「天誅組の変」というが、圭堂はそのときの三人の総裁(藤本鉄石、池内蔵太)のうちの一人であった。
この変は土佐藩士吉村寅太郎なども関与していたが、3日後に朝廷内でクーデターが起こり、
中山卿が少数派になってしまい、頓挫してしまう。

刈谷藩と言えば、家康の母於大の方の居城であり、徳川幕府の生みの親でもあるのだが、幕府を終焉させる動きを、いち早く見せたのも刈谷藩出身の武士であることに何か因縁を感じる。

三河は保守的な土地柄だといわれるが、天誅組の義挙を見ても、早い時代のトヨタの誘致をみても、この地には底流にかなり革新的な気風も流れていたのではないかと、思う。
(天誅組140年ホームページhttp://www.gojo.ne.jp/g-kanko/tenchu/index.htm 参照)