2月22日(水)曇り【貧者の一燈】
任天堂の創業者のお一人である山内溥(ひろし)氏(78)が、京都大学医学部の付属病院に私財70億円を寄付なさったという。たいしたことであると思った。それにしても隨分お金をお持ちの方がいるものであるとも感心をした。しかしお金があっても社会に寄付をしない方もいるので、やはりすごいことだと思う。
ここで仏教者なら「貧者の一燈」の話しを思い浮かべる人もいるだろう。私はそれを思い出した。『阿闍世王授決経』(大正蔵14巻777頁)の冒頭にこの話しは出てくる。(*律部にこの話の原形があると、ふくろう博士のご指摘を頂きましたので、この文の末尾に引用を掲載しておきます。)阿闍世王が仏に供養の燈明をあげることになった。常日頃から仏に供養したいと願っていた老婆はそれを耳にしたのだが、いかにしてもお金がない。「佛生難値百劫一遇。我幸逢佛世而無供養。」(「仏に値えるというのは百劫もの長い長い間にようやく一度遇えるようなものであるが、私は幸いにして仏の世に出逢えたのに供養するものが何も無い」)と嘆いた。そこで他の人から二銭をもらった。そのお金で麻油膏を二合買え、さらに麻油家の主人が特に三合サービスしてくれたので五合の膏で燈を供養することができた。そして風が吹いて全ての燈が消えてしまったというのに、老婆の一燈は消えなかった。その上老婆は三十劫ののちに須弥燈光如来になることの証明を授けられるという話である。
金額の多寡に拘わらず社会に寄付をすることは大事なことだと思う。山内氏の70億円と私の千円ぐらいが匹敵するであろうが、私も少しでも社会に貢献したいと願っている。この度日本人として生まれ、現金収入のある社会情勢のお蔭で、母と二人なんとか生かされている。生活を犠牲にするほどの寄付はしないが、微々たる金額でも寄付をするように心がけている。
災害のある度に寄付を募っているので、郵便局から送金する方法が割に簡単な方法の一つだろう。郵便局に尋ねると日本赤十字などの口座番号はすぐに分かるし、送料もかからない。また慈善団体の会員になる方法もある。私は相馬雪香女史が会長の「難民を助ける会」の微力な会員を続けている。この度のオリンピックでも、スピードスケート男子500メートルで金メダルをとったアメリカのチーク選手が、優勝金を難民救済に寄付するということをチラッと耳にした。それぞれができる範囲で社会に貢献することが大事であると思う。寄付に対して懐疑的な人もいるかもしれないが、信用できそうな団体を探して、信頼しておまかせすることであろう。この地球に生き合う人間同士として当然の助け合いだと思う。
子供たちにも百円でも二百円でも災害時に寄付をするようなことを、大人が教えてあげてはどうだろう。テレビに映る災害のシーンを、御飯を食べながら見ているだけでは、子供たちに御飯の有り難さは分からないだろう。このブログをお読みの方も私の情報など必要ないくらい、社会活動をなさっていると思うが、任天堂の内山氏の寄付の記事を目にして、貧者の一燈も臆するものではないことを書かせて頂いた。七十億円と千円のコラボレイションである。
*「難民を助ける会」電話03-5423-4511、FAX03-5423-4450
*『阿闍世王授決經』の「貧者の一燈」に関する箇所を掲載しておきました。この文の後は、華を仏に供養して覚華如来の授記を受ける男の話が続きます。阿闍世王はやっと心からの供養が大事なことを悟らされ、淨其所部如来となることの授記を受けることになります。短いお経ですので、この後も引用を掲載したほうがよければコメントして下さい。大正蔵をわざわざ引かなくてもここからコピーができるでしょう。(授決は未来に必ず成仏する証明を仏が授けること。授記に同じ。受記は受けること。)
*この文中「乞食」という言葉がありますが、人権上問題ですが、訳の上で注意を要します。
*「貧者の一燈」という語を寄付する側が使うのは問題ありませんが、寄付をあおぐ側が使用することは不適切です。
『阿闍世王授決經』 西晉沙門釋法炬譯 聞如是。一時佛在羅閲祇國耆闍崛山中。時阿闍世王請佛。飯食已訖佛還祇洹。王與祇婆議曰。今日請佛。佛飯已竟更復所宜。祇婆言。惟多然燈也。於是王乃敕具百斛麻油膏。從宮門至祇洹精舍。時有貧窮老母。常有至心欲供養佛而無資財。見王作此功徳乃更感激。行乞得兩錢。以至麻油家買膏。膏主曰。母人大貧窮。乞得兩錢何不買食。以自連繼用此膏爲。母曰。我聞佛生難値百劫一遇。我幸逢佛世而無供養。今日見王作大功徳。巍巍無量激起我意。雖實貧窮故欲然一燈爲後世根本者也。於是膏主知其至意。與兩錢膏應得二合。特益三合凡得五合。母則往當佛前然之。心計此膏不足半夕。乃自誓言。若我後世得道如佛。膏當通夕光明不消。作禮而去。王所然燈或滅或盡。雖有人侍恒不周匝。老母所然一燈光明特朗。殊勝諸燈通夕不滅。膏又不盡至明朝旦。母復來前頭面作禮叉手卻住佛告目連。天今已曉可滅諸燈。目連承教以次滅諸燈。燈皆已滅。惟此母一燈三滅不滅。便舉袈裟以扇之燈光益明。乃以威神引隨藍風以次吹燈。老母燈更盛猛。
乃上照梵天。傍照三千世界悉見其光。佛告目連。止止。此當來佛之光明功徳。非汝威神所毀滅。此母宿命供養百八十億佛已。從前佛受決。務以經法教授開化人民。未暇修檀。故今貧窮無有財寳。卻後三十劫。功徳成滿當得作佛。號曰須彌燈光如來至眞。世界無有日月。人民身中皆有大光。宮室衆寳光明相照如忉利天上。老母聞決歡喜。即時輕舉身昇虚空。去地百八十丈。來下頭面作禮而去。王聞之。問祇婆曰。我作功徳巍巍如此。而佛不與我決。此母然一燈便受決何以爾也。祇婆曰。王所作雖多心不專一。不如此母注心於佛也。
(T14-777b29)
『根本説一切有部毘奈耶薬事』巻12(全文を掲載できませんので、一部分のみ)
僃苾時有一女。貧苦憔悴。以乞濟活。聞此喧聲。問諸人曰。何故喧聲。報貧女曰。勝光大王。於三月日。佛爲上首。與**芻僧伽。供養衣食湯藥臥具。施一一苾芻。價直百千衣服。於今夜中。爲然燈會。表心珍重。所以有此喧聲。時彼乞女聞斯事已。作如是念。此勝光王。修福無厭。我何能爲。宜可隨處。求乞一燈。供養世尊。(T24ー55c14)
任天堂の創業者のお一人である山内溥(ひろし)氏(78)が、京都大学医学部の付属病院に私財70億円を寄付なさったという。たいしたことであると思った。それにしても隨分お金をお持ちの方がいるものであるとも感心をした。しかしお金があっても社会に寄付をしない方もいるので、やはりすごいことだと思う。
ここで仏教者なら「貧者の一燈」の話しを思い浮かべる人もいるだろう。私はそれを思い出した。『阿闍世王授決経』(大正蔵14巻777頁)の冒頭にこの話しは出てくる。(*律部にこの話の原形があると、ふくろう博士のご指摘を頂きましたので、この文の末尾に引用を掲載しておきます。)阿闍世王が仏に供養の燈明をあげることになった。常日頃から仏に供養したいと願っていた老婆はそれを耳にしたのだが、いかにしてもお金がない。「佛生難値百劫一遇。我幸逢佛世而無供養。」(「仏に値えるというのは百劫もの長い長い間にようやく一度遇えるようなものであるが、私は幸いにして仏の世に出逢えたのに供養するものが何も無い」)と嘆いた。そこで他の人から二銭をもらった。そのお金で麻油膏を二合買え、さらに麻油家の主人が特に三合サービスしてくれたので五合の膏で燈を供養することができた。そして風が吹いて全ての燈が消えてしまったというのに、老婆の一燈は消えなかった。その上老婆は三十劫ののちに須弥燈光如来になることの証明を授けられるという話である。
金額の多寡に拘わらず社会に寄付をすることは大事なことだと思う。山内氏の70億円と私の千円ぐらいが匹敵するであろうが、私も少しでも社会に貢献したいと願っている。この度日本人として生まれ、現金収入のある社会情勢のお蔭で、母と二人なんとか生かされている。生活を犠牲にするほどの寄付はしないが、微々たる金額でも寄付をするように心がけている。
災害のある度に寄付を募っているので、郵便局から送金する方法が割に簡単な方法の一つだろう。郵便局に尋ねると日本赤十字などの口座番号はすぐに分かるし、送料もかからない。また慈善団体の会員になる方法もある。私は相馬雪香女史が会長の「難民を助ける会」の微力な会員を続けている。この度のオリンピックでも、スピードスケート男子500メートルで金メダルをとったアメリカのチーク選手が、優勝金を難民救済に寄付するということをチラッと耳にした。それぞれができる範囲で社会に貢献することが大事であると思う。寄付に対して懐疑的な人もいるかもしれないが、信用できそうな団体を探して、信頼しておまかせすることであろう。この地球に生き合う人間同士として当然の助け合いだと思う。
子供たちにも百円でも二百円でも災害時に寄付をするようなことを、大人が教えてあげてはどうだろう。テレビに映る災害のシーンを、御飯を食べながら見ているだけでは、子供たちに御飯の有り難さは分からないだろう。このブログをお読みの方も私の情報など必要ないくらい、社会活動をなさっていると思うが、任天堂の内山氏の寄付の記事を目にして、貧者の一燈も臆するものではないことを書かせて頂いた。七十億円と千円のコラボレイションである。
*「難民を助ける会」電話03-5423-4511、FAX03-5423-4450
*『阿闍世王授決經』の「貧者の一燈」に関する箇所を掲載しておきました。この文の後は、華を仏に供養して覚華如来の授記を受ける男の話が続きます。阿闍世王はやっと心からの供養が大事なことを悟らされ、淨其所部如来となることの授記を受けることになります。短いお経ですので、この後も引用を掲載したほうがよければコメントして下さい。大正蔵をわざわざ引かなくてもここからコピーができるでしょう。(授決は未来に必ず成仏する証明を仏が授けること。授記に同じ。受記は受けること。)
*この文中「乞食」という言葉がありますが、人権上問題ですが、訳の上で注意を要します。
*「貧者の一燈」という語を寄付する側が使うのは問題ありませんが、寄付をあおぐ側が使用することは不適切です。
『阿闍世王授決經』 西晉沙門釋法炬譯 聞如是。一時佛在羅閲祇國耆闍崛山中。時阿闍世王請佛。飯食已訖佛還祇洹。王與祇婆議曰。今日請佛。佛飯已竟更復所宜。祇婆言。惟多然燈也。於是王乃敕具百斛麻油膏。從宮門至祇洹精舍。時有貧窮老母。常有至心欲供養佛而無資財。見王作此功徳乃更感激。行乞得兩錢。以至麻油家買膏。膏主曰。母人大貧窮。乞得兩錢何不買食。以自連繼用此膏爲。母曰。我聞佛生難値百劫一遇。我幸逢佛世而無供養。今日見王作大功徳。巍巍無量激起我意。雖實貧窮故欲然一燈爲後世根本者也。於是膏主知其至意。與兩錢膏應得二合。特益三合凡得五合。母則往當佛前然之。心計此膏不足半夕。乃自誓言。若我後世得道如佛。膏當通夕光明不消。作禮而去。王所然燈或滅或盡。雖有人侍恒不周匝。老母所然一燈光明特朗。殊勝諸燈通夕不滅。膏又不盡至明朝旦。母復來前頭面作禮叉手卻住佛告目連。天今已曉可滅諸燈。目連承教以次滅諸燈。燈皆已滅。惟此母一燈三滅不滅。便舉袈裟以扇之燈光益明。乃以威神引隨藍風以次吹燈。老母燈更盛猛。
乃上照梵天。傍照三千世界悉見其光。佛告目連。止止。此當來佛之光明功徳。非汝威神所毀滅。此母宿命供養百八十億佛已。從前佛受決。務以經法教授開化人民。未暇修檀。故今貧窮無有財寳。卻後三十劫。功徳成滿當得作佛。號曰須彌燈光如來至眞。世界無有日月。人民身中皆有大光。宮室衆寳光明相照如忉利天上。老母聞決歡喜。即時輕舉身昇虚空。去地百八十丈。來下頭面作禮而去。王聞之。問祇婆曰。我作功徳巍巍如此。而佛不與我決。此母然一燈便受決何以爾也。祇婆曰。王所作雖多心不專一。不如此母注心於佛也。
(T14-777b29)
『根本説一切有部毘奈耶薬事』巻12(全文を掲載できませんので、一部分のみ)
僃苾時有一女。貧苦憔悴。以乞濟活。聞此喧聲。問諸人曰。何故喧聲。報貧女曰。勝光大王。於三月日。佛爲上首。與**芻僧伽。供養衣食湯藥臥具。施一一苾芻。價直百千衣服。於今夜中。爲然燈會。表心珍重。所以有此喧聲。時彼乞女聞斯事已。作如是念。此勝光王。修福無厭。我何能爲。宜可隨處。求乞一燈。供養世尊。(T24ー55c14)