2月19日(日)晴れ【偏見の壁 】
金曜日に悲しい事件が起きてしまった。幼稚園に通う佐野迅ちゃんと武友若奈ちゃんが同じ幼稚園児のお母さんに殺されてしまった。なんと言ってよいか分からない気持ちである。こんなことをしてしまった犯人は中国の人だという。
このような事件によって中国の人たちに対して偏見を持たれることが恐い。広島の事件はペルーの人であったが、やはりこのようなことで日本に来て頑張っている他のペルーの人たちに対して偏見を持たれることが恐い。
現在日本には多くの外国籍の住民(ニューカマ-)が住んでいる。2004年12月現在で2万8000人いるそうである。そのうち中国の人は2828人であるという。約一割が中国の人たちである。私の良き友人にも中国籍の人が数人いる。
言葉の壁、宗教の違いによる壁、文化の違いによる壁、この狭い地球の中で多くの壁はあるが、それを乗り越えてよりよい共存の形を社会全体で考えていかなくてはならない。そしてこの度のような事件に対して、国籍の違いにその原因をもとめすぎることは危険な考えであろうと思う。それぞれ個人の起こした事件であり、中国人だからでもペルー人だからでもないことを認識しなくてはならない。
今ヨーロッパではムハンマドの風刺画で一騒動が起きている。昨日もリビアでイタリア大使館に対しての暴動が起きて、死傷者が出たほどであるという。イスラム教に対しての偏見は人間として恥ずべき事だと思う。かくいう私もかつては偏見を持っていた。イスラム教に対する漠然とした恐れである。それがある経験を通して氷解した。
それは用事があって香港に向かう飛行機の中での出来事であった。その頃私は直感力が割に強い時であった。1月7日に【ロドス島とmediumそして人類の滅亡】について書いたが、人類の滅亡についてのメッセージを受けていた頃のことだったかと思う。「今、Aさんはヨーロッパから帰って来たから、電話をするように」と心に信号が届いたので、すぐに香港に電話を入れたらたら「今帰ってきたばかり、玄関に入ったばかりなのにどうして分かったの」と驚かれたのであるが、そんな状態の時であったと思っていただきたい。
私の隣の座席に坐ったのは、中近東系の男性であった。宗教の話になって、彼の宗教はイスラム教であると言った。その時「キリスト教は天の愛、仏教は天の慈悲、イスラム教は天の力」という声が私の心に聞こえた。その声によって私のイスラム教に対する偏見が一気に取りはらわれたと言ってもよい。過酷な気候条件の風土に住む人々には、人々が一つに団結する強い結束が必要であろう。そうでなくては人々が生きていけないことが多いに違いない。だから天は力を教えたのだ。私はそう解釈した。
「キリスト教は天の愛、仏教は天の慈悲、イスラム教は天の力」はたしてこのような表現が適切かどうかは、何とも言えないが、私にとっては受け入れられる表現であった。単純な私の直感であるので。どのような宗教でも縁のある宗教に導かれて、この人生を送ればよいだろう。そしてお互いを尊重しあって、地球人として平和に生きたい、と願う。
私は時々自分の海外の経験をこのブログに恐縮ながら書くのであるが、私は二十歳頃までは、国粋主義に近いほどの狭い考えの人間であった。日本に来るのだから外国人でも日本語を話さなくてはならない、とまで思っていたのである。そのような狭量な考えであったので、かえって多くの海外の友人たちと交流しなくてはならないような天の配剤に遇ってしまったのだろう。時々に海外での経験なども書かせていただくが、ご寛容にお読みいただきたい。
いろいろな人種、いろいろな言語、いろいろな文化、すべてこの地球の彩りであろう。だからそれぞれの文化、それぞれの言語も大事に守りながら、融合して生きていくことがこの地球を楽しくすることだろう。そのなかでもスポーツは一つの共通な表現手段である。オリンピックは参加することに意義がある。あまりメダルにはこだわるまい。イタリアでのオリンピック、平和にこの祭典が終わりますように。
世界の平和のためにも、失礼極まりないムハンマドの風刺画など決して描かないで頂きたい。イエスの風刺画をキリスト教圏内の人が描くのとは次元が違うことの認識を持たなくてはならない。
偏見の壁を打ち破り、お互いを尊重しあえば、穏やかな平和がおとずれるだろう。壁はそれぞれの心のなかにある。
金曜日に悲しい事件が起きてしまった。幼稚園に通う佐野迅ちゃんと武友若奈ちゃんが同じ幼稚園児のお母さんに殺されてしまった。なんと言ってよいか分からない気持ちである。こんなことをしてしまった犯人は中国の人だという。
このような事件によって中国の人たちに対して偏見を持たれることが恐い。広島の事件はペルーの人であったが、やはりこのようなことで日本に来て頑張っている他のペルーの人たちに対して偏見を持たれることが恐い。
現在日本には多くの外国籍の住民(ニューカマ-)が住んでいる。2004年12月現在で2万8000人いるそうである。そのうち中国の人は2828人であるという。約一割が中国の人たちである。私の良き友人にも中国籍の人が数人いる。
言葉の壁、宗教の違いによる壁、文化の違いによる壁、この狭い地球の中で多くの壁はあるが、それを乗り越えてよりよい共存の形を社会全体で考えていかなくてはならない。そしてこの度のような事件に対して、国籍の違いにその原因をもとめすぎることは危険な考えであろうと思う。それぞれ個人の起こした事件であり、中国人だからでもペルー人だからでもないことを認識しなくてはならない。
今ヨーロッパではムハンマドの風刺画で一騒動が起きている。昨日もリビアでイタリア大使館に対しての暴動が起きて、死傷者が出たほどであるという。イスラム教に対しての偏見は人間として恥ずべき事だと思う。かくいう私もかつては偏見を持っていた。イスラム教に対する漠然とした恐れである。それがある経験を通して氷解した。
それは用事があって香港に向かう飛行機の中での出来事であった。その頃私は直感力が割に強い時であった。1月7日に【ロドス島とmediumそして人類の滅亡】について書いたが、人類の滅亡についてのメッセージを受けていた頃のことだったかと思う。「今、Aさんはヨーロッパから帰って来たから、電話をするように」と心に信号が届いたので、すぐに香港に電話を入れたらたら「今帰ってきたばかり、玄関に入ったばかりなのにどうして分かったの」と驚かれたのであるが、そんな状態の時であったと思っていただきたい。
私の隣の座席に坐ったのは、中近東系の男性であった。宗教の話になって、彼の宗教はイスラム教であると言った。その時「キリスト教は天の愛、仏教は天の慈悲、イスラム教は天の力」という声が私の心に聞こえた。その声によって私のイスラム教に対する偏見が一気に取りはらわれたと言ってもよい。過酷な気候条件の風土に住む人々には、人々が一つに団結する強い結束が必要であろう。そうでなくては人々が生きていけないことが多いに違いない。だから天は力を教えたのだ。私はそう解釈した。
「キリスト教は天の愛、仏教は天の慈悲、イスラム教は天の力」はたしてこのような表現が適切かどうかは、何とも言えないが、私にとっては受け入れられる表現であった。単純な私の直感であるので。どのような宗教でも縁のある宗教に導かれて、この人生を送ればよいだろう。そしてお互いを尊重しあって、地球人として平和に生きたい、と願う。
私は時々自分の海外の経験をこのブログに恐縮ながら書くのであるが、私は二十歳頃までは、国粋主義に近いほどの狭い考えの人間であった。日本に来るのだから外国人でも日本語を話さなくてはならない、とまで思っていたのである。そのような狭量な考えであったので、かえって多くの海外の友人たちと交流しなくてはならないような天の配剤に遇ってしまったのだろう。時々に海外での経験なども書かせていただくが、ご寛容にお読みいただきたい。
いろいろな人種、いろいろな言語、いろいろな文化、すべてこの地球の彩りであろう。だからそれぞれの文化、それぞれの言語も大事に守りながら、融合して生きていくことがこの地球を楽しくすることだろう。そのなかでもスポーツは一つの共通な表現手段である。オリンピックは参加することに意義がある。あまりメダルにはこだわるまい。イタリアでのオリンピック、平和にこの祭典が終わりますように。
世界の平和のためにも、失礼極まりないムハンマドの風刺画など決して描かないで頂きたい。イエスの風刺画をキリスト教圏内の人が描くのとは次元が違うことの認識を持たなくてはならない。
偏見の壁を打ち破り、お互いを尊重しあえば、穏やかな平和がおとずれるだろう。壁はそれぞれの心のなかにある。