風月庵だより

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供養記 葬式無用そして白洲次郎

2006-02-21 20:17:08 | Weblog
2月19日(日)晴れ【供養記  葬式無用そして白洲次郎

今日は、ある家のご長男の一周忌であった。長男の家族が法事をしないというので、両親が施主となっての法事である。長男の奥さんや娘たちとは没交渉になってしまったのだという。どの家にもそれぞれ家族の事情があるので、何とも言えないことだが、没交渉ということは残念なことである。奥さんはともかく、娘さんはお孫さんにあたる。この初孫をおそらく生まれたときから、おじいちゃん、おばあちゃんは可愛がったことであろう。

長男の家族は無宗教なのだという。しかし年をとった両親にとっては、戒名もつけない、法事もしないということは、いかにしても受け入れがたいことなのだ。お仏壇には、両親が作ったという戒名のついた長男のお位牌がまつられていた。

ご両親の気持ちが少しでも落ち着いてくれたら有り難いと願い、ご法事をつとめた。私も母より先に逝った兄のことを思うと、他人事ではないので、この家のご両親の気持ちが痛いほどに察せられる。法事が終わって失礼するときに、お母さんが「お蔭さまで気持ちが落ち着きました」と言ってくれた。勿論私でなくとも、僧侶の誦経と法話には癒されるものがあるだろう。誦経には癒しの波動があると思う。

無宗教で葬儀をしなかったり、法事をしないというのも、確かに一つの選択肢である。死んでいく本人や家族の気がすむのであれば、それはそれとして否定されるものでもなかろう。亡くなった人に充分な供養となることが、宗教者が導師を勤めるご葬儀の他にあるのなら、という条件付きで、私はよいと思う。決して宗教的なことだけが、死者を送るに相応しい方法とは限らないだろう。

しかし、この家の場合、両親の気持ちは、先祖からの仏教的な法事や祀り方をしないことに、少しも安らぎがなかったのであるから、長男家族がとった無宗教、法事無用という方法はよいとは決して言えない。親の気持ちが一番尊重されるべきであろう。

さて、その夜、机に積んである本の中から、たまたま『白洲次郎 占領を背負った男』(北康利著)を手にとった。白洲次郎氏は私の好きな随筆家白洲正子氏の夫である。吉田茂首相の信頼を受け、終戦連絡事務局次長、貿易庁長官などを歴任し、占領下の日本を背負った男の一人である。占領軍相手に少しも怯むことなく堂々と、日本のために張り合ってくれた人である。また東北電力の代表取締役や軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長などをつとめ、おおいに信念を持った活躍を果たした人である。

その人の遺言は「葬式無用、戒名不用」である。丁度今夜読んだ頁にこのことが書かれていたので、面白い符合だと思った。「葬式無用、戒名不用」は本人の意志であり、遺言書も残されている。「知りもしないやつらがお義理で来るのなんか真っ平だ」とも言われたという。家族もこの意志を受け入れて、その人に相応しい見送り方がなされた。棺を囲んで古い友人たちが集まり、一晩中お酒を飲んで、故人を偲んだという。故人の思い出話に泣いたり、笑ったりしながら、名残りの見送りをしたのである。

こんな洒落た見送りができるには、故人もその家族もその友人たちも、それぞれ役者が揃わないとできないことである。人生を燃焼し尽くした人にしてできる選択の一つであろうと私は思う。

昨年、葬式無用と遺言を残した人のご葬儀を頼まれた経験がある。なるべく故人の遺志をいかした式にして貰いたいと注文を受けて、その方法に頭を痛めたが、見送りの基本は変わらないので、誠を尽くしてお見送りをした。白洲氏の言葉どおり「プリンシプルを持って生きていれば、人生に迷うことは無い。」と同じことである。


それぞれ自分の望むように人生の幕引きを演出するのもまた楽しからずや