風月庵だより

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若くして逝きし人

2006-02-13 09:24:52 | Weblog
2月11日(土)晴れ【供養記 若くして逝きし人
今日は二十歳のお嬢さんの四十九日を勤めさせていただいた。長い闘病生活のあとに亡くなられたのだという。三人娘の真ん中のお嬢さんであるが、「一番良い子でした」と言ってお父さんは泣いた。病気の子ほど不憫さが募ることもあるだろう。どの子も良い子であろうが、そういってやりたい親心だろう。

弱い体でありながら、よく二十歳まで頑張って生ききってくれたと、思いましょう、と私は慰めた。本当にそう思う。何回もの手術に耐えたそうだが、肉体的にも精神的にも大変な苦しみであったことと思う。その苦しみから解放されてよかったと、思ってあげることも供養かもしれない。

「幸福でした」とお嬢さんの写真が言っているように感じた。娘思いのお父さんとお母さんに育てられ、看病してもらい、可愛がってもらい、幸福であったと感謝の言葉を言いたいことであろう。姉妹にもまして親の涙は渇くことはないであろうが、娘さんが幸福であったことを知っておいてもらえば、涙の底に安心があるだろう。

姉さんや妹さんに、亡くなった人の分まで頑張って生きてね、と言おうとしてすぐにそのあやまちに気がついた。誰にも代わってもらえる命ではない。彼女は彼女の全分を生きたのだと。どのような亡くなりかたであれ、命の長短はどうであれ、それぞれの全分を生ききっているのだ。

二人の姉妹に私が伝えてあげられることは「自分ができない分までお父さんお母さんに孝行してね」ということではなかろうか。そう伝えたら、お父さんが「この子はそれを心配してくれていました」と言われた。きっと自分の死期を知っていた娘さんは「親孝行をしないでごめんね」と言ったことでもあったのだろうか。優しいお嬢さんであったのだろう。

「でもお嬢さんは充分に親孝行をしていってくれましたね。娘としての多くの思い出を残していってくれましたから」その分一層親の悲しみは深いだろうけれど、私はそう言って若くして逝く人を慰め、四十九日の見送りをしてあげたいのだ。
我というものは無いのであるから、死後個的な霊体のような存在はないとするのが仏教の教えである。しかし私は四十九日の間は、念のようなものが中有にあるのではないかという説をとりたい。

死後のことについては仏教にも、諸説があり、迷わされる最大の問題ではなかろうか。まことしやかに何を言っても立証されることではないのであるから。チベットの『死者の書』は読んだ人も多いだろうが、中有における死者の霊を清めて転生を助けることが説かれている。チベット仏教では輪廻転生が明白に説かれているのであるが、立証はできないことだ。『雑阿含経』には、釈尊は死後の有無については「無記」と書かれている。無記とは是とも非ともお答えにならなかったということではあるが、これをもって輪廻を否定する一つのよりどころとしている説もあるが、これも分からないことだ。解決不能なことを論じることは避けるべき事であろう。

帰りの車を運転中ふいに「おねえちゃんに悪かった」と聞こえた。どういうことだろうか。今日のご法事のお家の事情は全く知らないが、一歳違いのお姉ちゃんは、体の弱い妹の犠牲になることが多かったのではなかろうか。両親はつい病気の娘に夢中で、姉は我慢しなくてはならないことが度々あったのかもしれない。私の神経が研ぎ澄まされていたら、今日の法事の場で伝えてあげられたのに、申し訳なかったと思った。

亡き人の声が私の胸に届くような気がすることが度々にある。それは四十九日までの間だけのことであるが。しかし私は霊能者ではないので、亡くなった人の言葉ではなく、私の直感のようなものかもしれない。それでも人に害を与えることでは無かろうから、ご容赦願いたい。

若くして逝きし人
今日の命を生ききりて
きっぱりと終わりを迎え
光に抱かれて空に帰せり

心から冥福を祈りたい。