ブログ「風の谷」  再エネは原発体制を補完する新利権構造

原発事故は放射能による公害。追加被曝阻止⇒放射性廃棄物は拡散してはいけない⇒再エネは放射能拡散につながる⇒検証を!

元旦に 松下竜一さんの「暗闇の思想」を読む 2014年

2014-01-01 | 日記

 

 

暗闇の思想         松下竜一

 あえて大げさにいえば、〈暗闇の思想〉ということを、この頃考え始めている。比喩ではない。文字通りの暗闇である。

 きっかけは電力である。原子力を含めて発電所の公害は、今や全国的に建設反対運動を激化させ、電源開発を立ち往生させている。

 もともと、発電所建設反対運動は公害問題に発しているのだが、しかしそのような技術論争を突き抜けて、これが現代の文化を問いつめる思想性をも帯び始めていることに、運動に深くかかわる者なら既に気づいている。

 かつて佐藤首相は国会の場で「電気の恩恵を受けながら発電所建設に反対するのはけしからぬ」と発言した。この発言を正しいとする良識派市民が実に多い。必然として、「反対運動などする家の電気を止めてしまえ」という感情論がはびこる。「よろしい、止めてもらいましょう」と、きっぱりと答えるためには、もはや確とした思想がなければ出来ぬのだ。電力文化をも拒否出来る思想が。

 今、私には深々と思い起こしてなつかしい暗闇がある。10年前に死んだ友と共有した暗闇である。友は、極貧のため電気料を滞納した果てに送電を止められていた。私は、夜ごとこの病友を訪ねて、暗闇の枕元で語り合った。電気を失って、本当の星空の美しさがわかるようになった、と友は語った。暗闇の底で、私たちの語らいはいかに虚飾なく青春の思いを深めたことか。暗闇にひそむということは、なにかしら思惟を根源的な方向へとしずめていく気がする。それは、私達が青春のさなかに居たからというだけのことではあるまい。皮肉にも、友は電気のともった親戚の離れに移されて、明るさの下で死んだ。友の死とともに、私は暗闇の思惟を遠ざかってしまったが、本当は私達の生活の中で、暗闇にひそんでの思惟が今ほど必要な時はないのではないか、とこのごろ考えはじめている。

 電力が絶対不足になるのだという。九州管内だけでも、このままいけば毎年出力50万キロワットの発電所をひとつずつ造っていかねばならぬという。だがここで、このままいけばというのは、田中内閣の列島改造政策遂行を意味している。 年10%の高度経済成長を支えるエネルギーとしてなら、貪欲な電力需要は必然不可欠であろう。

 しかも悲劇的なことに、発電所の公害は現在の技術対策と経済効率の枠内で解消し難い。そこで電力会社と良識派を称する人びとは、「だが電力は絶対必要なのだから」という大前提で、公害を免罪しようとする。国民すべての文化生活を支える電力需要であるから、一部地域住民の多少の被害は忍んでもらわねばならぬという恐るべき論理が出てくる。 

 本当ならこういわねばならぬのに――だれかの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと。

 じゃあチョンマゲ時代に帰れというのか、と反論が出る。必ず出る短絡的反論である。現代を生きる以上、私とて電力の全面否定という極論をいいはしない。今ある電力で成り立つような文化生活をこそ考えようというのである。日本列島改造などという貪欲な電力需要をやめて、しばらく鎮静の時を持とうというのである。その間に、今ある公害を始末しよう。火力発電に関して言えば、既存発電所すべてに排煙脱硫装置を設置し、その実効を見究めよう。低硫黄重油、ナフサLNGを真に確保出来るか、それを幾年かにわたって実証しよう。しかるのち、改めて衆議して、建設を検討すべきだといいたいのだ。

 たちまち反論の声があがるであろう。経済構造を一片も知らぬ無名文士のたわけた精神論として一笑に付されるであろう。だが、無知で素朴ゆえに聞きたいのだが、一体そんなに生産した物は、どうなるのだろう。タイの日本製品不買運動は、かりそめごとではあるまい。公害による人身被害、精神荒廃、国土破壊に目をつぶり、ただひたすらに物、物、物の生産に驀進して行き着く果てを、私は鋭くおびえているのだ。

 「一体、物をそげえ造っちから、どげえすんのか」という素朴な疑問は、開発を拒否する風成で、志布志で、佐賀関で漁民や住民の発する声なのだ。反開発の健康な出発点であり、そしてこれを突きつめれば〈暗闇の思想〉にも行き着くはずなのだ。

 いわば、発展とか開発とかが、明るい未来をひらく都会志向のキャッチフレーズで喧伝されるのなら、それとは逆方向の、むしろふるさとへの回帰、村の暗がりをもなつかしいとする反開発志向の奥底には、〈暗闇の思想〉があらねばなるまい。

 まず、電力がとめどなく必要なのだという現代の絶対神話から打ち破らねばならぬ。ひとつは経済成長に抑制を課すことで、ひとつは自身の文化生活なるものへの厳しい反省で、それは可能となろう。

 冗談でなくいいたいのだが、〈停電の日〉をもうけていい。勤労にもレジャーにも加熱しているわが国で、むしろそれは必要ではないか。月に一夜でも、テレビ離れした〈暗闇の思想〉に沈みこみ、今の明るさの文化が虚妄ではないかどうか、冷えびえとするまで思惟してみようではないか。

 私には、暗闇に耐える思想とは、虚飾なく厳しく、きわめて人間自立的なものでなければならぬという予感がしている。

 

 

暗闇に耐える思想 松下竜一講演録
松下竜一
花乱社

 


 (管理人より)

2014年の冒頭に松下竜一さんの「暗闇の思想」を、全文打ち込み、引用させていただきました。

私自身の「暗闇に耐える思想」とはなんだろうと考えます。

脱原発市民を自称する人たちが、ご都合で太陽光パネルを設置して、脱原発を叫ぶことの矛盾。再生可能エネルギーも、自然エネルギーも、言葉で騙された。

日本は、資源がないと刷り込まれ、他国の山を荒らして資源を奪い、工業製品を作り続け、ゴミを出し続け、燃やし続け、水も土も海も汚し続けている。

本当は日本の山や海が資源なのだと忘れてしまった。だから金と楽を追い求め、原発事故が起きた。

こんなに、電線のない日本は美しかったのです。私はこのチョンマゲ時代が好きです。少なくとも取り返しのつかない毒物を撒き散らしていなから。

 

 



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