(管理人より)前回に引き続いて山田征さんの文章を掲載します。これは1999年に書かれた文章ですが、今読んでも私たちの暮らしの在り方の参考になることばかりです。
もうすぐ2000年、今世紀最後の年
もう少し不便でも、もう少し貧しくシンプルでもいいのではないですか?
地上に生きるすべての者が、等しく豊かに生きられるために……。 山田 征
大昔の人々と友だちになってみませんか。電気やガスどころか、金属の道具もなく、木や土や石など自然の材を使って生きていた大昔の人々のくらしぶりをのぞいてみませんか。今の私たちの生活に比べたら、それは不便なくらしに見えるでしょう。でも、大昔の人々は、今の私たちよりもずっと豊かな自然のめぐみのなかで、平和にたくましく生きていました。日本列島は、気候や海流のおかげで、植物がとてもよく生え、森の動物や鳥たち、魚も貝も豊富です。火山列島だから、鉱物資源の種類もたくさんあります。だから、人間にとっても、自然界の食べ物や生活の材料に不足はないし、四季の変化があってくらしやすい島だったのです。大昔の人々は、今の私たちよりもはるかにそうした自然のめぐみを大切に思い、自然とともに生きる知恵を持っていました。
ところが人間は、科学技術が発達し、大きな機械を使うようになってから、自然を大規模に破壊し始めました。より便利で快適な暮らしをするために、山を崩し、森の木を切り、海を埋め立てて、動物や鳥や魚は住むところを奪われました。コンクリートに包まれた街、車の排気ガスで汚れた空気、人間の出す排水で汚れた水、木を失った山……。
そして今、人間が地球の自然のバランスをこわしすぎ、地球は危機をむかえています。森の木を切りすぎて、地球は急速に砂漠化しています。人間が電気や石油やガスをたくさん使うようになったため、地球の温暖化が進んでいます。(※)このままでは、2100年には平均気温が2度高くなるといわれています。いまから5000~6000年ほど前も、いまより気温が2度ほど高く、氷河の水がとけて海の水が増え、大阪平野も関東平野もほとんど海にしずみました。そのころの地形を復元した地図は、自然の恐ろしさを教えてくれています。
私たちは、自分たちがどれほど自然を失ったのか、気がついていないのかもしれません。大昔の人々は、自然とともに生きていました。そんな大昔の人々と友だちになってみませんか。人間が豊かな自然のなかで生き生きとくらしていた時代のことを、のぞいてみませんか。
〈佐古和枝「森と海のめぐみ」より〉
1999年という年も、あとほんの数日、ひとまたぎで終わろうとしています。なんとせわしない一年であったことか、と思いつつこれを書き始めました。過去からさまざまに語られ言われ続けてきた、恐ろしくドラマチックな予言もありましたが、何ごともなく夏がすぎ秋がすぎ、いま冬に入り年の瀬を迎えています。ところが過去のどこでも言われていなかった伏兵が、いまムクムクと頭をもたげ2000年を迎えようとしています。
新聞でもラジオでもテレビでも、最近は日本の首相、小渕総理大臣自らが、声で写真で映像でさまざまに登場しながら「今年の大晦日はいつもと少し違った準備をお願いします」とくり返し、3日分ほどの水と燃料、そして食べ物の備えをするよう呼びかけをしています。つまりこれは例のコンピューターにまつわる2000年問題への備え、のことですが……。はたしてその日、その時何が起きるやら、起きないのやら。私達は今、何と大きなギャンブルの前にいることでしょうか。大方の人の考えは、「どうぞ何ごとも起きませんように……」ということだと思いますが、ほとんどの人達はあまり状況がよくはのみこめず、何の心配もしていないのでは、と思います。この通信がみなさまのお手元に届くころには、たぶん私達はことの結末、あるいは進行過程をみていることと思います。この私自身は、あっても無くてもとても辛いものがあるな……と考えています。
初めに紹介しました文章は、今年になって知りあいました関西外語大学助教授の佐古和枝さんの書かれたものです。佐古さんは鳥取県にある名山、大山の麓で新たに発見された弥生時代の遺跡、妻木晩田遺跡をゴルフ場建設から守るために立ち上がった人です。初めは一度始めた開発事業を途中で変えることを嫌う県がなかなか同意しませんでしたが、この春やっとのことで全面保存の認可が出されました。その厳しい運動の中で作られたのが「考古学は楽しい」という全3巻のシリーズ絵本ですが、その中の一冊「森と海のめぐみ」のプロローグとして書かれたものです。子供向けに書かれたこの短い文章の中に、言いたいこと、大切なことの全てがあると思い借用致しました。
今を昔に引き戻すことは出来ませんが、私達はこの言葉をくり返しくり返し読んでみて、いまの自分やまわりの社会の在り方をよくよく考え振り返ってみなければいけないのでは、と心から思います。このままの勢いで突き進んでしまえば、私達人間の未来は決して明るくはない、ということです。
あまりにも不安材料が多すぎます。私達人間の暮らしぶりは、自然界のルール、本来在るべき姿からあまりにも大きく逸脱してしまったとは思わないでしょうか。昔昔の人達は、今から思えばとても不便で貧しく、あるいは野蛮とも思える生活の在り方の中で、充分に楽しく豊かに生きてきたのだと思います。
そして人間が良かれと思い辿ってきた歴史の中で、文明が発達し便利になり、物質的に、あるいは経済的に豊かになればなる程に、人の不幸や不平不満、不平等といった“不”のつく世界が大きく広がってしまったのだと思っています。
ここ数年、いえ二十数年来と言ったらいいでしょうか、私の家はいつも沢山の“物”が集まってくる家でした。以前は各地に在る知り合いの農家や、新しく地方に入植した農家の人達などに送る衣類や布団など、そして食器や家具等もわざわざ集めた時期がありました。それがいつのまにか回りの人達の意識の中に定着してしまい、自分のところで要らなくなった家具や電気製品その他あらゆるものが持ちこまれるようになりました。
ほとんどの場合、新しいデザインへの買い替えが多く、持ちこまれる物は全て、まだまだ使えるものばかりでした。ですから我が家は新しい物はほとんど買わず、よそで必要としなくなったものを着たり使ったりの年月を重ねてきました。ですからたまに新しい物を購入する時は大変な勇気がいりますし、気持の上では罪悪感が伴ったりしてしまいます。「いまほんとうにこういう物を買う必要があるのかどうか?」、とつくづく考えてしまうのです。
ここ数年は海外に送るための援助物資、そして今年になってからはホームレス、野宿の人達に回すためのあれこれを集めています。そして我がヤドカリハウスはみるみる援助物資、衣類の山に埋めつくされてしまいました。いまもそういう物の谷間に座りこれを書いています。ほんとは我が家に到着したもの、すぐに右から左へと手渡していけばよいと思うのですが、現実はなかなかそうはいきません。夏になる時、冬物が届き、冬に入る時、夏物が届く、なんてことがいやというほどあるからです。
季節にあった物が届けばすぐに活用出来ますが、そうでないためまた半年を寝かさなければなりません。本当に必要な物以外のいろんなものが届きます。ほんとにあらゆる物です。送って下さった方も捨てるに捨てられず、長い間押入れやタンスに大事にしまっておいたものが多いのだと思います。私に送ることによって多分ほっとされているのではないかな……と思います。
みんな心のどこかにただは捨てたくはない、ゴミにしたくはない、という思いがあるのではないでしょうか?。そして受け取った私もいま同じに思っています。ですからいま私は、物、物、物の谷間にいます。日本という国は、ほんとに物質的には豊かな国だと思います。その証しが私のまわりにあります。お送り下さった方々にはとても感謝しています。
ありがとうございました。決して悪く言ってるのではありませんので誤解なさらないで下さい。
さて、ここまで書いてちょっとばかりため息が出てしまいました。この文章を書き始めた時私は、いったい何を書きたいと思ったのかな……?と思ったわけです。こうして物だけではなく他のものの在り方も全て、このありあまる“物”のように必要以上のもの、必要以上に過剰で便利なものの中にいて、いま私達は溺れそうに、いえもうすでに溺れてしまっているのだと思います。
本当に必要な物の量、便利さの度合をとうに越えてしまい、それこそはあの東海村で起きた放射能事故のように、いつ臨界点を越えてしまってもおかしくない状況の中にいる、とは思いませんか? 私達はほんとうに大切なものをとうの昔に見失い、何か“文明とは素晴らしい”という幻覚の中で生きているのかもしれません。
あと数日で2000年1月1日、その日その時何があってもなくっても、その日を境に私達は昔を今に、少しだけたぐり寄せてみるのはどうでしょうか?デンキ製品をもうこれ以上増やさないで、出来たら減らし、体を包む衣類だってそんなにそんなに次々と買いこまないで、車もせめて20万キロ位(私のはいま15年め、23万5千キロを越えました)は乗るようにして、そして本来人の手で充分やれるはずの仕事を次々機械の手に委ねてしまわないで、出来たら人の手にとり戻し、食べ物だって季節季節の物を口にする。出来たら身土不二の譬えのように、自分の国で、自分の身近なところで出来るもの、採れるものを大切にしていく、そうすれば少しすづ少しずつ、そして気がついたら何かがとても大きく変わっていた、ということにはならないでしょうか?。
せっかくこの世に人として生まれた全ての人達が、飢えて死んだり路上で死んでしまったり、人と人とが憎みあい、殺しあい奪いあわなくてもいいように、自分の身のほどのものを持つように、あれもこれも欲しがらないで、人間以外の沢山の生きもの達をもうこれ以上犠牲にし自然のサイクルを失わないために、私達はもう少し不便でも、もう少し貧しくてもいいのではないでしょうか?。もう少しシンプルな生き方を選択するのはどうでしょうか?。この地球上にこれから先も、人間という種が安心して住み続けていくことを願うとしたら、目先の利害は少しがまんしなければ、と思うのですが……。それがいまこうして、物の谷間で私が思ってる切なる思いです。これまで何度も書いたテーマを、またこうして書いてしまいました。
洗濯には何をお使いですか?
衣服を着けて暮らす者にとって、洗濯は欠かすことの出来ないごく日常的な作業ですが、皆さんのお宅ではどうしていらっしゃいますか?それこそ人さまざま、お国柄、民族の違いなどでいろんな洗い方があると思います。でも今はごく普通に、日本の家庭での洗濯、と考えた時、やはりいちばん多いのが、電気洗濯機に合成洗剤、という組み合わせかと思います。
そうしますと一番多いのが、石油から何かを作る過程で副産物として出来てしまうと言われる、合成洗剤が一番多いのではないでしょうか。最近は洗剤の全く要らないと言われる強力な○○水とか、あるいはセラミックボール、炭やお塩を使った洗い方等々、いろいろなものが出てきています。それはそれでみな良いものだと思いますが、一番シンプルで強力なのは、ただの水洗い、つまり予洗という方法だと私は思っています。
特別な何かを使わなくても、よっぽどの汚れ以外はただの水洗いで7,8割から8,9割方は落ちてしまうと思います。私の場合、それで気になるものはその後、長年使ってきた大豆油(溶点がとても低いので冷たい水でも充分溶けるし、よくすすげます)で作った"サンダー"という石けんをほんのちょっと入れて洗います。
純度の高いこの石けんは、サンダー(雷)の名のように驚くほどよく落ちます。石けん使っても、ほんの少しであればすすぎも簡単です。合成洗剤を使うことは、自分自身の体にももちろんのこと、環境に対しても、他の生き物たちに対しても大変な悪影響を及ぼすことは、みなさますでによくご存知のことと思います。
知ってはいるけどやめられない、変えられないではすまない時代はもうすぐ目の前にあります。
最近は"環境ホルモン"という言葉をよくききます。ただきくだけだったら別にどうってことないわけですが、その言葉の持つ現実はとても恐ろしいものだと思います。自然界の生き物たちのオスメスがそのバランスを崩してしまった、ということでしょうか?。つまり、本来オスであるはずの個体が、その機能を果たせなくなったり、メスである個体がオス化してしまいメスの機能を果たせず、従ってその子孫を残せない。つまり絶滅路線を歩いてしまう、ということのようです。
その原因は全て、私達人間の暮らしの在り方、生きる姿勢の中にあると私は思います。私達が石油を原料としたさまざまなものを取り入れ、いわゆる"石油文明"というものの中にどっぷりつかりすぎた賜物である、というわけです。竹とか木とか草やワラ、といった自然界の素材で出来ていたさまざまなものを、ほとんど全て石油製品に置き換えてしまいました。
そして世界は、その石油をめぐる奪い合いで沢山の争いごと、戦争を繰り広げています。核の汚染というか脅威に対してはよく、その影響力の持つ半減期といったものが言われ恐れられていますが、私達の日常生活の中にあるさまざまな洗剤や農薬、食品添加物といった化学物質の持つ悪影響もまた、核の持つそれと全く同じで子々孫々にまで長期に及ぶものばかりだと思います。
つまり、自然界のさまざまな生き物たちが、その生殖機能を失い子孫を残せなくなったという現実は、いつか人間にとっても同じ結果として現れるということだと思います。
食器や衣類やトイレやお風呂、そして私達の体、髪の毛、それらが見た目で綺麗になっても、その汚水は自然の生態系をジワジワと締め付け殺し、その度合はそのうち臨界を越えてしまう、そんなことのないように、この2000年を機に生活の在り方全般をよく見直してみるのはどうでしょうか?
こんなこといろいろ話し合ってみる機会、ぜひ作っていけたらと思います。どうぞお声をかけてみて下さいませんか?
これは絶望に向かうためでなく、ぜひ希望に向かっていきたいからなのですが…。どうぞよろしくお願い致します。
(※)佐古和枝「森と海のめぐみ」からの引用部分のCO2地球温暖化に関する部分の記述は誤りです。 ⇒ 人為的CO2地球温暖化脅威仮説の虚構
なお、山田征さんはCO2地球温暖化に関しては誤りであるとおっしゃっています。