mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

何を親世代から受け取ってきたのか(2) 独立不羈と反骨精神

2016-05-23 14:48:48 | 日記
 
 社会と国家が分節化したと昨日指摘した。「修身斉家治国平天下」と一つながりで感じていたものが、「修身斉家/治国平天下」と区切りが入り、前段と後段が切断された。前段は前段、自分たちの取り仕切らねばならないこと、後段は後段、偉い人たちが勝手にやっていること、と。もちろんそれまでも、偉い人たちが身勝手にワルイことをしているということも知らないわけではなかったが、国家の政治はそれとは別物、天皇を中心に私たちの社会(社稷)に思いを巡らしていると受け止めていたに違いない。同じことではないが、別物ではないという、ある種の一体感を感じていた。私の母親は、戦後もずいぶん後々まで、祝日には日の丸を玄関口に掲げることを常としていた。百姓を出自とする母親は、つねに世間との距離を見計らいながら身を立てていく規範を踏み外すことがなかった。
 
 他方父親は、戦争が終わってからは、ほとんど戦中のことを口にしなかった。当時の商業学校しか出ていなかった父親には、しかし、ちょっとした特技があった。書を得手としていた。漢詩をよみ条幅をものし、句を詠んでは色紙に書き、出征する直前、昭和17年の10月に認めた般若心経は今も我が家の床の間に飾ってある。その特技(と公務員であったこと)のおかげであろうが、軍属としてスマトラへ出征し、現地の学校で日本語を教えたりしていたと聞いたことがある。それなのに戦争が終わってみると、戦前に就いていた香川県庁の仕事を辞め、いろいろな仕事を試みて後に八百屋を家業とするようになった。何があったかは、ついに最後まで言わなかった。だが私は、戦中に体験したことによる大きな回心があったと推測している。その立ち居振る舞いから子どもたちは、権力や権威を信用していないぞという「反骨精神」を感じとっていたと、今にして思う。
 
 言葉を変えていうと、独立不羈の精神に「反骨」が加わっている。そうして私たちの子ども時代は、混沌としていた。戦争の惨禍と貧困と食糧難に満ち充ちていた。社会的に弱い立場のものに同情し、手を貸すことができるものならばそうするという傾きを身につけたと言える。5人の私の兄弟たちは皆、仕事をもつようになってからも、どうかするとそのような傾きを(イデオロギー的にではなく)もって生きてきたように見える。
 
 戦前の軍国主義・天皇制国家・日本の「国体」にすっかり取り代わって、欧米流の「平和と人権と民主主義」が、私たちの暮らしの中に流し込まれた。あとで知るのだが、占領軍の強烈な検閲と情報操作は、根こそぎ日本の社会規範を変えてしまおうとするほど、苛烈であった。だが、なにより印象深く覚えているのは、小学校の給食である。私はそのとき香川県高松市の小学校の1年生か2年生であったのだが、口にしたコッペパンとマーガリンと脱脂粉乳のうまさは、ほんとうに腸に沁みるようであった。学校に占領軍の偉い人が来て朝礼台に立ったのに対して「ハロー」と声をそろえて挨拶をしたのも、鮮明に覚えている。(戦中生まれ戦後育ちの)私たちにとっては、すべてがごく自然であった。それを占領軍による「刷り込み」と呼び「洗脳」であったといったにしても、私たちにとっては、空気を吸うように、給食が腸に沁み込むように、自然に体に流れ込んできた「環境」であった。大人は自信を無くして混沌の渦中にあり、子どもたちは放置放任されていた。自由で平等の権利という「戦後民主主義」は、基本的に私たちの自己肯定を支援してくれていた。
 
 のちに「押し付け憲法」と謗る論調がなされても、そんなことは戦前「国体」を護持した支配層にとっての「屁理屈」と思われた。今でもそう思う。占領軍の圧力によって憲法草案が押し付けられたというのが「手続き」上のことだとすると、そもそも(フランス革命を基点と考えても)民衆にとって「自主憲法」というものは存在しない。「革命」によって(政権をとった権力集団によって)押し付けられた「憲法」が「民主主義」を標榜するようになっている。そのことを「押しつけ」と言わないのは、なぜか。つまり「押しつけ憲法」と呼ぶ人たちは、「中身」について触れようとはしなかった。もし「中身」のやりとりをすれば、「国体」の復活を意味することになっていたであろうし、すでに庶民は、「国体」には、国家と社会の断裂として愛想をつかしていたのである。
 
 ちなみに、なぜ太平洋戦争の終結が(すでに5月にドイツも降伏し、敗色がはっきりしていたにもかかわらず)これほどに遅れたのか調べたことがあった。当時の軍部も政府も、首脳部は(軍国主義・天皇制国家・日本の)「国体」護持を最優先にしたために、決断することができなかったと分かった。あるいは戦中の戦線と戦略をしらべたとき、ほとんど食糧も現地調達を旨として兵站に関心を払っていなかったことも判明している。つまり、戦闘に従事する人たちのことも、銃後を守る臣民のことも、戦術と動員対象として以外には、「国体」の視野に入っていなかったのである。これが「国民国家のナショナルな戦争」と言えるであろうか。そこまで踏み込んで考えるのであれば、「押しつけ憲法」とか「国体護持」を主張する人たちは、「戦争責任」をめぐる論議をくぐり抜けてきていない。東京裁判の非を主張はするが、それを受け容れたことによって日本の敗戦は確定し、占領がなされていたのだから、「敗戦」そのものを否定する言説というほかない。彼らはまぼろしの「国体」を未だに護持しつづけて、「敗戦」という現実過程を受け容れようとしていないのである。
 
 もちろん庶民は、国家と社会の断裂を受け容れる形で、戦争責任にケリをつけた(つもりでいた)。だが「民主主義国家」として再出発したのであってみれば、個人的に内心でけりをつけるだけでは終わるわけにはいかない。「戦争責任」が政治的に表現される場面に表出してくるところで、なぜ大東亜戦争に突入してしまったのかを総括しなければならない。それは、「大東亜戦争」(という呼称が跡付けであったにせよ)が含む、盧溝橋事件以降の一連の戦争がどう進展し、(敗戦したことは別として)そこに国家体制としての構造的瑕疵がどのように作用していたかを見極めなければならない。そうでなければ、(大転換した戦後体制として)「国民国家のナショナルな戦争」と向き合うことができないからである。
 
 ここまできてやっと、私たちの引き受けてきたものが、二方向に分岐する地点を迎えた。ひとつは、私たちの身体に刻まれた社会規範が戦後体制の社会・政治過程の中で、どういうかたちをとってきたかということ。もうひとつは、戦後体制として「国民国家のナショナルな戦争」とどう向き合うことをしてきたかということ、である。
 
 この二つの論議の局面の分岐は、庶民に引きつけていうと、前者においてのみ交わされてきた。だから、悲惨な戦争体験を語り継いで戦争はいやだと思い続けることと、現実政治の局面で戦争に直面してそれを回避することとをいっしょくたにして、「平和憲法」をたてまつって来たのであった。それは、戦争勢力と平和勢力とに二分して前者を排除することであり、現実政治の、戦争になるかもしれない力の凌ぎあいから目をそらすことでもあった。日米安保条約によって、アメリカに守ってもらいながら、自分たちは手を汚していないと思うことができたし、日米同盟と呼ぶようになってからも、「思いやり予算」という金を負担することで、対等に安全保障に力を尽くしていると、自らを欺瞞することに終始してきたのである。はたしてこれが、「国民国家のナショナルな戦争」に対する姿勢であったろうか。戦後民主主義が庶民に対してもたらした「独立不羈」の気分にそぐうものであったろうか。(つづく)