mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

大地をうろつきまわる醜い獣

2016-05-07 10:02:19 | 日記
 
 エルマンノ・オルミ監督の映画『緑はよみがえる』(イタリア、2014年)をみる。4/19と4/23のこの欄で、同じ監督の作品『木靴の樹』に触れた。そもそも1978年の『木靴の樹』が上映されることになったのも、この『緑はよみがえる』の前座をつとめさせる主宰者側のねらいがあった。
 
 驚いたのは、坦々と寒村の日常を描きとりながら、生きることの哀切さを浮き彫りにするという手法と同じように、イタリアとオーストリアの第一次大戦の一場面を切りとって、これまた淡々と「前線の日常」を描いている。たぶん観た人は、なんだこれはと思うに違いない。確かに戦争を描いている。だが、激しい肉弾戦が交わされているわけではない。真冬の国境高山帯における膠着状態の雪の中、ほとんどが夜の場面。画面はしたがってモノクロームの世界のように濃淡だけで表現されている。
 
 砲弾の落ちる音が遠くに響く、ときどき上がる照明弾のあかりが針葉樹の森のシルエットを際立たせて消えていく。寒い塹壕の中。熱を出して震える同僚、その熱を下げるために雪をとりに出る兵士の鼻先を、ウサギがひょいひょいと月明かりに跳ねていく様にみとれて、一息ついている。葉の落ちた大木がやはり月明かりに照らされて輝くように見える。キツネがそのあたりを徘徊する。かと思うと、一人の兵士が謳うカンツォーネが夜の雪の闇に朗々と響く。「いいぞ、イタリア人!」とオーストリア側から感嘆の声が上がる。「もう、一曲!」と声がかかる。それほどに近く対峙して、肉声が聞こえている間は、「穏やか」である。兵士たちは、故郷からの郵便を愉しみにして、塹壕の中で日々を送る。
 
 通信が敵に傍受されていることがわかり、あらたな前進基地を確保せよと作戦本部から指令が来る。だがそこへの到達は敵の狙撃によって阻まれる。上官は、指令に逆らって自ら地位の降格を宣言する。代わった指令代理から命令を受けた兵士は、銃で自裁する。
 
 遠くに聞こえていた砲撃が、急に身近に響くようになり、ついには、塹壕を直撃する。混乱の中を逃げ惑う。何人もの兵士が死ぬ。やがて緑がよみがえるときまでここで眠れと、彼らを雪中に埋葬する。本部から、先頭の前線が変わった知らせが届き、併せて「撤退せよ」と指令が来る。撤退が始まる。
 
 映像はそこまでである。『木靴の樹』が3時間もの超大作であったのに比べれば、わずか73分、半分にも満たない。だが十分だ。「前線の日常」はそんなものだ。そのことによって、(たぶん)第一次大戦の戦闘が、人の顔が見えなくなった機械戦であり、人と人が対峙するという感覚は失われ、「前線の日常」はすっかり後景に退いてしまったと、描き出したかったのではないか。ここではナショナリズム自体が、すっかり剥がれ落ちてしまっている。「戦争」を実存の根柢にまで掘り下げて描くというのは、こういうことだとエルマンノ・オルミ監督は「主張している」ように思う。じつは緑は、映像としては一度もよみがえらない。
 
 「やむことなく大地をうろつきまわる醜い獣」と戦争を表現する(監督の父親のことばの)テロップが、映画の最後の部分で流れる。人間の実存の底に足をつけてみれば、自衛であろうとなかろうと、戦争に正義はないというところから、私たちは「考え」を出発させなければならないのではないか。
 
 たとえ滅ぶとも、と付け加えたいと私は思った。