mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

これはヨーロッパ標準と日本標準の違いなのか

2016-05-17 11:09:39 | 日記
 
 今朝(5/17)の新聞のトップに、《復興「見通せず」5市町》と、熊本地震の関連記事が出ている。熊本どころか、フクシマだってまったく見通しは立っていないと、自分の勘違いを横に置いてイヤな気分になっている。
 
 というのも、「なぜ日本にはチェルノブイリ法が作れないのか」と題して、尾松亮氏(関西学院大学災害復興制度研究所研究員)が語っているサイトをみたからだ。詳しくは〈マル激トーク・オン・ディマンド 第788回(2016年5月14日)〉をご覧いくただきたいが、以下のようなことを語っている。
 
 チェルノブイリの事故後に、ウクライナ、ロシア、ベラルーシ3国が協調して、「チェルノブイリ法という法律が存在する。そして、各国政府はそのチェルノブイリ法に則って、事故によって健康被害を受けた可能性のある人々や、避難や移住を強いられた人々の補償にあたってきた」そうだ。そこでは、「原発事故の責任主体が国家であることを明記し、年間被曝量が1ミリシーベルトを超える地域に住むすべての人を無条件で補償や支援の対象とする」というもので、尾松亮氏は「画期的なもの」と評価している。なぜか。
 
 日本のフクシマでは、原発事故の第一義責任と賠償責任を東電に背負わせ、しかも「年間被爆量が20ミリシーベルト」を限界値に設定している。だから、年間20ミリシーベルト未満の地域は居住制限解除・帰還地域になり、以後は自己責任として移住や避難への補償も打ち切られている。健康被害については「無条件で保障や支援の対象とする」どころか、「甲状腺がんや甲状腺の悪性腫瘍の発生率が明らかに原発事故前と比べて急増しているにもかかわらず、政府は様々な理由をあげて、原発が原因だとは断定できないとの立場を取り続けている」。
 
 私自身、上記のような事実があることをほとんど気にも留めず、フクシマの「復興見通し」が長引いているくらいにしか、考えてこなかった。チェルノブイリの関係三ヶ国は、事故当時共産主義圏であった。その後の政変で体制が大きく変わったにもかかわらず、「チェルノブイリ法」の救済保障措置の標準値がヨーロッパ標準で定まっていることに、地政学的な縁の深さを感じたりする。同時に、日本はどうしてヨーロッパ=米標準を受け容れないで済んでいるのであろうかと、わが胸に手を当てて振り返ってみている。
 
 そう言えば、丸川環境大臣が「年間1ミリシーベルト」を、民主党政権が持ち出した「根拠のない数値」と決めつけて、あとで発言を取り消し、謝罪したことを思い出す。私たちもほとんど、丸川環境大臣と同じ程度の感覚しか持ち合わせていないのだね。丸川大臣の不見識を嗤ったものの、「1ミリシーベルト」と「20ミリシーベルト」の違いのもたらす「情況の違い」については、まったく考えが及ばなかった。ごく簡略に言えば、フクシマの事故は、他人事なのだ。関東圏に住まわっていて、東電の支配圏に属していながら、どうこういっても福島原発を我がこととして受け止める感覚回路をもっていない。もし持っていれば、植民地を服属させるようなことをしていながら、民主主義の社会に生きているという自尊をもって、平然と観ていられるはずがない。
 
 あるいはこうも言えようか。すっかり交換経済的なセンスに冒されてしまって、原発の危険に対して(金銭による)見返りを提供してきたのだから、心を痛める必要がどこにあろうかと思っている、と。「金で買えないものなんてないですよ」とのたまわっていた昔のホリエモンと同じセンス。これはたぶん、戦前の朝鮮や台湾を植民地として領有し、満州や中国への侵略を、欧米に対抗して欧米同様の所業をして何が悪いと正当化する気分と、同じものかもしれない。当時の「良心」と呼ばれたのは東洋経済新報社の石橋湛山であった。その「良心」でさえ、植民地経営は採算が合わない(だから、独立を認めて対等に取引するのが良い)ということを展開しただけのものだ。そういう意味では、戦後と戦前の違いは、せいぜい戦前の「良心」が戦後の常識になったというにほかならない。目糞鼻糞を嗤うような話である。
 
 尾松亮氏は、経済的困窮の度合いからすると日本と比較にならないくらい苦しいはずのチェルノブイリ関係3カ国が「法」的に高度の保障を(それが文言通りに実行されているかどうかには、若干疑問符を提示しているが)つけているのに、先進国を自認する日本がそれを実現できないのはなぜかと、疑念を抱いている。為政者の自画自尊とそれにすっかりお任せしている「主権者」の「お任せ民主主義」の呆けぶりのせいであろうと私はみている。どうしてこうなってしまったのだろうか。71年前の「敗戦」はどこへいってしまったのだろうか。衣食足りて礼節を知るというよりも、衣食満ち足りて周辺の困窮を知らずとなったのかもしれない。