mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

親世代から何を受け取って来たのか

2016-05-22 10:23:52 | 日記
 
 加藤典洋『戦後入門』(ちくま新書、2015年)を読んでいて、太平洋戦争のさなかに生まれ、ものごころついたころ、敗戦後の混沌のなかにあった私たちは、いったい世の中から何を受け取ったのだろうかと考えています。加藤典洋の著書は、彼の思索の航跡を丁寧に踏まえて、そのあいまいなところや脆弱なところを補正しながら、書き下ろされています。それもあって、私の胸中に水鉛を降ろすように落ちているところです。
 
 なぜ「世の中から受け取ったこと」と考えたか。加藤は、その著書の前半で、第一次と第二次世界大戦がそれまでの戦争と違ったことに着目しています。それまでの戦争はいつでも「政治の延長」としての武力行使として、基本的に各国の国益をめぐって進行した。ところが、第一次大戦のさなかにロシア革命がおこり、革命がなるや否やレーニンが世界に向けて「戦争を終結する呼びかけ」をした。そこに記された原則は、「国益」ではなく「秘密条約の公開」や「植民地の独立」などの「理念」であった。自国の利害のみに突き動かされているヨーロッパ列強に対する痛烈な批判にもなったでしょう。なによりもそれによって、(思わぬ)長い総力戦に辟易していたヨーロッパ各国の人びとの心を撃ちました。さらにそれは対抗的に、「国益」とは少し違った要素を加味して介入することになったアメリカ大統領の「ウィルソンのヴェルサイユ条約14原則」を引き出したとみています。それは第二次大戦後にはじまるとされる東西冷戦の「理念の争いとしての世界大戦」のはじまりであった、と。太平洋戦争がはじまって後に「大東亜戦争」と呼称することによって、(日中戦争を併せて)「戦争の大義」を日本政府が掲げたのも、「理念の対立」という世界の風潮を(間に合わせ的にですが)反映したものと、加藤はみています。
 
 そう言われて振り返ってみると、太平洋戦争のさなかに生まれた私たちが、目にしたことは、まずは(たぶん)「混沌」でした。政治の世界では、軍国主義・天皇制という国家の中心的な価値が崩れて、占領軍による「民主化と軍事的無力化」が進行していました。加藤典洋的にいえば、価値観の軸の大転換です。でもそれが、いくらかでも理念的なことばとして私たちに届くのは、小学校に入ってからの「平和国家日本」でした。日常的には、混沌と混乱と秩序が再編成されていく途次にある風景であり、大人たちの大きな自信喪失と価値の混沌でした。たぶん私たちの目には、そう映ったに違いありません。でも、大人たちは自信を失いながらも生きなければなりませんでした。ということは、まずそこに、国家と社会は別物という分節化がはっきり見て取れたのではないでしょうか。
 
 国家と社会の分節化と言えば、別にこの時期に限らず、いつでもそうであったと言えなくもありません。かつて江戸の時代までもそうでしたが明治維新以降も、基本的に、民の大部分を占めた百姓は国家の為政を左右する要素としては、埒外に置かれていました。そういう意味では、明治憲法が施行されるようになってからも基本は変わりません。ようやく(私見では)国家存亡の危機に直面しつつ遂行された日露戦争の苛烈な犠牲を払うことによって、人々の胸中に「国民国家・日本」の感覚が芽生えたのではないかと考えています。つまりここのところで、国家と社会が(建前と本音というに側面の分裂を抱えつつも)一つになったと感じられていました。その「ナショナルな熱気」が、軍部を含む統治する人たちにとっては、世界の列強に肩を並べたという自尊も併せて、第一次世界大戦への参入と(欧米列強風の)植民地経営へと踏み出す「軍国主義路線」へ歩を進めるエネルギー源になったように思います。
 
 私たちが受け止めた「平和国家・日本」とはどのようなものだったか、改めて述べるまでもありません。平たく言えば、平和と人権と民主主義でした。もっと開いて言うと、もう戦争はごめんだ、人は人として大事にされる、みな平等だという気分でした。これは私たちを取り巻く人々の振る舞い方が、理屈ではなく体に刻むように身につけたものですから、実際には、伝統的観念と新来の観念との混淆か、新来の観念を伝統的観念と折り合わせて勝手に納得したものであったと思いますが、いずれにせよ、「時代が変わった」という意味での、将来の地平が見えるようになった希望とともに好感をもって受け止めたのは間違いないと思います。
 
 ところがその(二つの価値の)混淆が、「ねじれ」たと加藤は指摘します。加藤が取り出すのは「戦死者」です。軍国主義・天皇制日本の「ために」戦死した親やその兄弟たち、あるいは銃後の暮らしの中で亡くなった人たちがあってこその現在という連続性が、否定されてしまったわけです。戦後の教育で私たちが受け入れた連合国側の価値観は、ナチズム・ファシズム・軍国主義を完全に排除すると否定し、それはいまも、日本とドイツを国連憲章で「敵国条項」としつづけているように、戦後世界の支配理念になっています。結局私たちは、ナショナルな観念を排除して、(平和や人権や民主主義を)人類史的な精華であるとして新しい価値観を受け容れるほかありませんでした。ということは、戦死した親たちの世代が現在の私たちの礎になっているという「連綿と続く(という)価値」を、順接的に位置づけられない。それを加藤は「ねじれ」と呼んでいるわけです。靖国を参拝するというのが(戦前の軍国主義と天皇制を容認することを前提にしているようで)素直に受け入れられない。父親を戦死で亡くした私の知友のHくんは靖国神社の参拝をつづけてきています。だが同じように父親をニューギニア戦線で亡くした私のカミサンは、千鳥ヶ淵の「無名戦士の墓」には墓参することがあっても、靖国神社には足を運ぼうとしません。国家と社会の切断を切り離してしか、父親の死と向き合えないというかたちで、「ねじれ」を受け止めてきているのです。
 
 面白いことに私の内部では、国家と社会を切断して考えることによって、伝統的な軛(くびき)と切れて、人類史的精華に結びつくことが容易でした。おそらく、戦中生まれの私たち世代や戦後生まれの人たちは、多くの人がこうではなかったかと思っています。アメリカの文化が受け入れられ、(ソ連のとは言わないまでも)社会主義や共産主義の理念が広まったのも、その「理念的な」精華に同調する気分があったからだと思います。戦前と戦後は違うんだという思い込み、古い世代(の観念やしきたり)を水に流して、私たちは新しく出直しているんだと「考える」ことができたのです。
 
 だが(後で気づくのですが)、身体がそのようにはできていません。私たちの身体は、戦前のままの「規範」を(親や大人たちから)しつけられ、少し大きくなってからは、その大人自体が(規範の)混沌に身を置きながら私たちをしつけて、育ってきました。振る舞いや他人との向き合い方や善し悪しの判断において、ずいぶんと「古い」センスを持ってきています。と同時に、戦後の混沌の、子どもであるがゆえの(大人からや経済的な)制約の中の自由の気分を私たちは解放的と受け止めてきました。今の若い人たちの振る舞いを見ていて、眉を吊り上げるのもそういった違いが浮き彫りになるときです。髪の毛を染めたり、鼻や唇にピアスをしたり、「援助交際」を「本人がいいと思えばいいんじゃない」と思う若い人が多数を占めたとき、私たちは「古く」なってしまっていたのです。いまは「昭和レトロ」などと懐かしがっている人もいますが、私たちにとっては、懐かしいというよりも未だにケリがついていない我が身の裡の「ねじれ」なのです。
 
 ケリをつけるには、私たちが何を親世代から受け取ってきたのかを、腑分けしてみなければなりません。そうすることによって、やっと私たちの(内心の)戦後は終わりを告げ、次への一歩を踏み出せるのだと思います。