mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

やっと近代的市民たちが寄り集う社会

2016-05-28 09:31:08 | 日記
 
 久々の雨、でもないか。25日にもちょっとばかり降ったようだが、私は山を歩いていたので、パラパラと落ちてきたのを気に留めた程度。このところ晴れの日がつづいている。陽ざしの下は暑いが、ほどほどの陽気。いい季節だ。
 
 昨日は午後半日、我が団地の定例総会でつぶれた。例年なら午前中半日、3時間で終わるのだが、今年は長期修繕計画の策定と修繕費や管理費の値上げもあって、5時間の長期戦になった。といっても、すでにその大半は年度の途中に設けた「説明会」で公表しているから、じつはしゃんしゃんと進めればいいものを、なぜか「議決を記録したい」と全部投票にした。参加者の全員の賛成で承認された人事議案が1本、残りの11本は、反対が3票から10票。1割にも満たない。なぜ(例年通り)「賛成多数」としなかったのかその理由を問いたいくらいだが、でも反対の数が明確になるのは悪くない。
 
 やりとりを聞いていて、こいつは執行部の回答がヘンだと思うのがあった。長期修繕計画の項目を全部実施すると3億円ほどかかる。ところが、予算は2億2000万円ほどしかない。そこで、一応全項目を実施したときの「見積もり」をとって、予算を超えたときは、後回しにする「項目」をピックアップして選び出すというのを承認してもらいたい、というのが「原案」。第一回の長期修繕計画のときには、見積もりが予算額の6割ほどであったのだが、今は2020年の五輪などもあって目下業界は「値上がり気味」。いくらになるか「わからない」のでそうしたいというわけ。見積もりを出す業者は「全体を見計らって見積もる」から、一部だけ取り出して予算に合わせるというのは「おかしい」、最初から「予算に合わせて(不要不急の項目を取り出して)」見積もり請求を出すべきだと、やり取りしている。双方ともそれなりに言い分があるとは思った。
 
 ところが、やりとりするうちに苛立った理事長の応答がヘンであった。異議を申し立てる人を名指しで、「あなたは修繕委員会にも出席していて同じことを言ってきた。平行線だよ」と難じた。おいおいそれはヘンじゃないか。反対者が「総会」の場で反対を表明することは、私のような平構成員にとっては初耳。原案を作成する段階での反対を公然と表明してもらわなければ「気付かない/わからない」ことが多いから、ありがたい。理事長の発言は、反対論を封じるような響きをもつ。そう感じた。だから、その議案の「原案」に反対ではなかったが私は、「反対」に1票を投じた。
 
 なにしろ修繕積立金の値上げが尋常ではない。我が家は44%、もっと高い棟では77%の値上げになる。もちろんこれも、長年値上げを先送りしてきた結果を、今回の理事会が全部引き受けて初めて値上げを提案するのだから、いうならば26年間の据え置き分を全部引き受けている。それでも必要資金(という専門業者の見立てによる見積もり)の7割程度。後日、緩やかに値上げをしていく見通しもたてている。その値上げが身に堪える人たちからすると、不要不急の「修繕」は後回しにしてよと思うのも、よくわかる。
 
 皆さん交代で理事を引き受けてやっているから、たいていのことは「承認」しておこうと、私は思う。ご近所づきあいと私は考えているから、出来るだけ平穏に済ませようとする。わりといい加減にコトをとらえるという私の才能は、案外こういう時に力を発揮する。まあ、いいじゃないか、そう細かいことにことにこだわらなくても、と。
 
 だが、仕事をリタイアした人たちの多いご近所には、不動産管理や電気関係とか建設関係とかその発注者側の仕事や総務・経理関係の仕事をしてきた方もいる(むろんまだ現役の若い人たちもいる)。皆さんそれらをそれぞれに背負っているのだが、「総会」という場でその経歴は(ひとまず棚上げして)やりとりが交わされる。それが、ついつい(説得力を持たせるために)余計なことを口走ってしまう。それに反応する人たちには、そうした社会的関係の仕事に対する「怨念」も籠っていたりするのかもしれない。その背景を捨象したままなされるやりとりは、深さや奥行きを読み取ることが難しい。理事長の苛立ちとか「賛否の投票」は、ひょっとすると「明確な反対」に突き当たって、それをあいまいにしないで置きたいと考えた結果かもしれない。とすると、いよいよなあなあでやって行くのは無理ということだろうか。ご近所世界が他者性を明確にして、構成員の「賛成3/4」で評決する重要事項決定の「数の争い」をするところにきていると告げているように思える。やっと近代的市民たちが寄り集う社会になってきたのだね。
 
 そう思うと、私も、敗戦後の「混沌」に身を置きながら、大きくは古い日本の共同性に身を包まれて育ってきたのだなあと、ふと71年前のおぼろな記憶をたどって深い感懐に囚われる。大きな時代の変化と社会の推移を感じる。昔が懐かしいというよりも、ヨーロッパ的市民社会に身を置くようになっていることを、寿ぎたい。向こうさんはいま、揺り戻しで理念先行的なことが嫌われ、異質者排除でまとまろうと「同質性の共同性」へ舵を切りはじめているようだけれど。

すべてを「いただいています」と感謝したくなる

2016-05-28 09:31:08 | 日記
 
 ダニエル・チャモヴィッツ『植物はそこまで知っている』(矢野真千子訳、河出書房新社、2013年)を読む。副題は「感覚に満ちた世界に生きる植物たち」。原題は「WHAT A PLANT KNOW ――A FIELD GUID TO THE SENSES」。
 
 動物と植物の遺伝子にそう大きな違いはないのではないかと考えた著者が、私たちの感受する「感覚世界」を植物はどう感受しているかいないかをまとめて、述べている。面白かった。言われてみればなるほどと思うのだが、植物がそのように世界を受け止め、(世界と)交信しているとは思いもしなかったからだ。つまり、読んで、私の世界を見る視覚が変わったと感じた。
 
 見る、匂いを嗅ぐ、接触を感じる、聞く、位置を感じている、憶えているという六つの「感覚」を、どう植物は処理しているかいないか。古くは17世紀から2011年までの研究を集約して、記述する。私など、山を歩きながら触れる樹木や山野草ていど。おおっ、珍しいとか、やあ、きれいだなあとか、樹木や草花の置かれた環境と気象条件から感じるたたずまいを愛でるばかり。それが、こんなにも植物は「感じている」のだと思うと、ひときわ愛おしくなる。愛おしくなるという言葉の響きが私という人間の優越性を前提にしていると思うので、すぐにそんなことはありませんよと、訂正を入れたくなるが、植物はすごいなあという感嘆とともに、我が祖先に触れているような尊崇の念を感じている。
 
 思えば、生命の誕生の旅をたどり返してみると、植物と動物が遺伝子においてかなり共通部分をもっていて何の不思議もない。なにしろ生命は35億年の来歴をもつのに対して、現生人類、ホモ・サピエンスは10万年ほどしか経っていない。DNAが「10万年/35億年」ほどしか違わなくても、さもあらんとうなずくばかりである。でも、どうして植物が「感じている」と思わなかったのであろうか。
 
 いや、苗を育てるのにベートーベンを聴かせているとか、モーツアルトの方が生育がいいとか聞いたことはある。だが、育苗家の趣味の話しぐらいに受け止めていた。その私の判断は、じつは、あまり間違いではなかったが、音を聞いているのではなく、空気の振動をそれとして受け止めているのを「感覚している」と思うと、一挙に世界が違って見える。人間だって、空気の震えを「音」として脳内で処理しているに過ぎないのだ。ただ脳をもたない植物が「音を聞く」感覚をもつはずがないと、決めてかかっていたからであろう。だが考えてみると、「音」としてでなくても「振動」として受け止めて、何かが近づいてきている、触っている、葉を食べている、幹に穴をあけて潜り込んでると受け止めたり、それが害をなすものと理解して、防御的になにがしかのガス(気体)を発生させていたり、他の樹木が発揮するガス(気体)を感知して、未だ害を受けていない樹木が防御の態勢をとるとなると、これは明らかに「交信」し世界を共有して共存しているといえる。動かないだけ、他の動植物を捕食するのではなく(食虫植物は例外とするが)、炭酸同化作用によって栄養源を摂取しているという違いがあるだけ。なんと素晴らしい佇まいではないか。あるいは子孫を残すために色を付けて媒介者の虫類を呼び寄せる業なども、なにがしかのかたちで「色」を識別している、その結果、うまく色を発揮したものが生き残るというように、色気づいて来たともいえる。それら、これまでも私たちが植物の系統発生の特性と見ていたものを、「濃淡を見分ける」ばかりでなく何色かの「色の識別」をしているとみてとると、はて、どのようにしてそれをなしているのか、どうそれを「認知・認識」しているのかと疑問が次々と広がる。植物学って、面白そう。
 
 驚いたのは、「感覚」のひとつに「位置を感じている」という項目を入れたこと。要するに植物が、下に根を張り、上に芽を出す上下の位置関係を、何によって関知して、そうしているかという疑問を解き明かす。しかも著者はそれを「第六感」と呼ぶ。ほほう、「第六感」って、そういうことだったのかと、つい惹きこまれる。重力の関知を私たちはどうやっているのだろう。三半規管という平衡をつかさどる検知器があるとは知っていたが、これを「感覚」と思ったことはない。だが言われてみれば、これもたしかに「感覚器官」である。どうして私は、これを「感覚」と受け取っていなかったのであろうか。
 
 そればかりかもっと驚いたのは、植物が「憶えている」こと。葉が裂けたり枝が折れたり、環境条件が変わったときに過去の経験を思い出して生長のしかたを変えるという。こうした長期の記憶やトラウマを「記憶」し、次の世代にDNAを変えるのではなく(エピジェネティクスというらしいが)伝えることをしているというのだ。これも、私たちの現在持っている「感覚」が、35億年にわたって連綿と受け継がれてきた系統発生の末にあるという、不可思議なつながりを思い出させる。いやはや、優位な立場に立つというよりも、あなた方植物様のおかげで今の私があるのは間違いないと感じさせる。食べるときばかりでなく、すべてを「いただいています」と感謝したくなる。