久々の雨、でもないか。25日にもちょっとばかり降ったようだが、私は山を歩いていたので、パラパラと落ちてきたのを気に留めた程度。このところ晴れの日がつづいている。陽ざしの下は暑いが、ほどほどの陽気。いい季節だ。
昨日は午後半日、我が団地の定例総会でつぶれた。例年なら午前中半日、3時間で終わるのだが、今年は長期修繕計画の策定と修繕費や管理費の値上げもあって、5時間の長期戦になった。といっても、すでにその大半は年度の途中に設けた「説明会」で公表しているから、じつはしゃんしゃんと進めればいいものを、なぜか「議決を記録したい」と全部投票にした。参加者の全員の賛成で承認された人事議案が1本、残りの11本は、反対が3票から10票。1割にも満たない。なぜ(例年通り)「賛成多数」としなかったのかその理由を問いたいくらいだが、でも反対の数が明確になるのは悪くない。
やりとりを聞いていて、こいつは執行部の回答がヘンだと思うのがあった。長期修繕計画の項目を全部実施すると3億円ほどかかる。ところが、予算は2億2000万円ほどしかない。そこで、一応全項目を実施したときの「見積もり」をとって、予算を超えたときは、後回しにする「項目」をピックアップして選び出すというのを承認してもらいたい、というのが「原案」。第一回の長期修繕計画のときには、見積もりが予算額の6割ほどであったのだが、今は2020年の五輪などもあって目下業界は「値上がり気味」。いくらになるか「わからない」のでそうしたいというわけ。見積もりを出す業者は「全体を見計らって見積もる」から、一部だけ取り出して予算に合わせるというのは「おかしい」、最初から「予算に合わせて(不要不急の項目を取り出して)」見積もり請求を出すべきだと、やり取りしている。双方ともそれなりに言い分があるとは思った。
ところが、やりとりするうちに苛立った理事長の応答がヘンであった。異議を申し立てる人を名指しで、「あなたは修繕委員会にも出席していて同じことを言ってきた。平行線だよ」と難じた。おいおいそれはヘンじゃないか。反対者が「総会」の場で反対を表明することは、私のような平構成員にとっては初耳。原案を作成する段階での反対を公然と表明してもらわなければ「気付かない/わからない」ことが多いから、ありがたい。理事長の発言は、反対論を封じるような響きをもつ。そう感じた。だから、その議案の「原案」に反対ではなかったが私は、「反対」に1票を投じた。
なにしろ修繕積立金の値上げが尋常ではない。我が家は44%、もっと高い棟では77%の値上げになる。もちろんこれも、長年値上げを先送りしてきた結果を、今回の理事会が全部引き受けて初めて値上げを提案するのだから、いうならば26年間の据え置き分を全部引き受けている。それでも必要資金(という専門業者の見立てによる見積もり)の7割程度。後日、緩やかに値上げをしていく見通しもたてている。その値上げが身に堪える人たちからすると、不要不急の「修繕」は後回しにしてよと思うのも、よくわかる。
皆さん交代で理事を引き受けてやっているから、たいていのことは「承認」しておこうと、私は思う。ご近所づきあいと私は考えているから、出来るだけ平穏に済ませようとする。わりといい加減にコトをとらえるという私の才能は、案外こういう時に力を発揮する。まあ、いいじゃないか、そう細かいことにことにこだわらなくても、と。
だが、仕事をリタイアした人たちの多いご近所には、不動産管理や電気関係とか建設関係とかその発注者側の仕事や総務・経理関係の仕事をしてきた方もいる(むろんまだ現役の若い人たちもいる)。皆さんそれらをそれぞれに背負っているのだが、「総会」という場でその経歴は(ひとまず棚上げして)やりとりが交わされる。それが、ついつい(説得力を持たせるために)余計なことを口走ってしまう。それに反応する人たちには、そうした社会的関係の仕事に対する「怨念」も籠っていたりするのかもしれない。その背景を捨象したままなされるやりとりは、深さや奥行きを読み取ることが難しい。理事長の苛立ちとか「賛否の投票」は、ひょっとすると「明確な反対」に突き当たって、それをあいまいにしないで置きたいと考えた結果かもしれない。とすると、いよいよなあなあでやって行くのは無理ということだろうか。ご近所世界が他者性を明確にして、構成員の「賛成3/4」で評決する重要事項決定の「数の争い」をするところにきていると告げているように思える。やっと近代的市民たちが寄り集う社会になってきたのだね。
そう思うと、私も、敗戦後の「混沌」に身を置きながら、大きくは古い日本の共同性に身を包まれて育ってきたのだなあと、ふと71年前のおぼろな記憶をたどって深い感懐に囚われる。大きな時代の変化と社会の推移を感じる。昔が懐かしいというよりも、ヨーロッパ的市民社会に身を置くようになっていることを、寿ぎたい。向こうさんはいま、揺り戻しで理念先行的なことが嫌われ、異質者排除でまとまろうと「同質性の共同性」へ舵を切りはじめているようだけれど。