mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

何を親世代から受け取ってきたのか(4) 顔を洗って出直せ

2016-05-27 14:54:20 | 日記
 
  「国際政治における軍事力行使の免責」――これが、1951年9月に結ばれ翌年4月に発行したサンフランシスコ講和条約における日本の現実的立場であった。軍事的には米軍に追随する道である。以後現在まで、その立場は変わらない。変わったのは私たちのうけとりかたであった。「戦争責任」としての「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」具体的かたちである「非軍事化」方針が、いつのまにか経済的な力の伸長によって「安保タダ乗り論」にすり替わって来た。その転換点になったのが「60年安保」であった。
 
 砂川判決のことに触れたついでに、60年安保のことにも触れておこう。私たちは戦中に生まれ、敗戦の混沌の中に育ったといった。この「混沌」は(世界の見方として)何を私たちの身体に刻んだか。(占領軍という)栄光と(日本という)悲惨、強いものと弱いもの、小ずるく賢いものと正直で馬鹿なもの、運よく(無事に)生きのびたものと不運にも親を失い体の一部を傷つけたもの、清潔で健康でありたいが黴菌や病気に取り囲まれた暮らし、よく起こる停電。そうして、先述した裏と表、建前と本音、ウソとホント、二枚舌の存在であった。
 
 つまり、「戦争責任」の表明であった憲法前文=「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」を、果たしてどこまで誠実に希求したであろうか。私たち庶民はそう願ったかもしれないが、それを「民主主義」を通じて主権者としてどう具現しようとしてきたか。それが問われていた。政府は二枚舌を用いて誤魔化している。「お上」は相変わらずそういうものだと考えてきた。そこにくさびを打ち込むことが出来たろうか。
 
 今思い返すと、占領下の帝銀事件や松川事件など占領軍がかかわったとされる出来事の「裏」が読み解かれ、松本清張の『日本の黒い霧』が「文藝春秋」で連載され評判となったのは、言うならば「敗戦後の混沌」から学び取った庶民の鬱屈をあらわしたものであった。だから、片務条約と謗られた安保条約を少しでも相互性を体した条約に改正しようとする岸内閣の「60年安保改定」のときも、ほとんど改定される条文に目をやることなく、ふたたび(今度は米軍に組み込まれて)戦争への道を歩んでいると、受け止めたのであった。それが、あの「60年安保」と呼ばれる騒ぎになったと言える。
 
 当時私は、岡山の片田舎の高校3年生。高校でも放課後に「討論会」がもたれ、教師も交えて「安保に賛成か反対か」とやり取りをしていた。いまの、18歳選挙権が付与される事態を迎えても、まだ学校のなかでの政治活動は許されないとするのが大勢であるのに、当時の高校は、(たぶん生徒会の主導であったろうか)教師も参加して、校内討論会をもつほど「民主的」であった。私は「憲法の平和主義を順守すべし」と主張したのに対して、社会科の教師が「理想論でなく現実をみよ。石油が運べなくなったら、日本経済は壊滅する」と「戸締まり論」を主張して、それを論破できなかったことを覚えている。なぜ覚えているかって? それがひとつの引き金になって(理系のクラスに身を置いていたのに)私は経済学を勉強する道に進むことを決めたのだから。
 
 その前年から私は、東京の大学に在籍していた長兄や次兄が、帰省して話したり、彼らの同級生と家に集まって「ラジ関」の録音テープを聴いたりしていた傍にいて、耳学問をしていた。そのなかに「宇野経済学」という先進の経済学があることも含まれていた。長兄が全学連反主流派の強い大学自治会、次兄が主流派の大学自治会にいることも小耳にはさんでいたが、その違いなどについては何も知らなかったし、兄たちの間でその主張が対立しているとも思えなかった。いま思うと、「反安保」は「戦争責任としての憲法の平和主義を守れ」という動きであった。私などはほんとうに純朴にも、裏表のない日本の政治を望むというほど、ナイーブな心もちであったと、気恥ずかしく想い起す。
 
 「敗戦後の混沌」に憲法がもたらした「平和・人権・民主主義」という「希望」に、庶民は(対外的にも)、戦争責任を踏まえていると感じとっていた。それが二枚舌で壊されていくのではないかというのが、「反安保闘争」であった。安保条約の改定は、いくらかでも条約の「相互性」を付け加えはしたが、岸内閣を倒したことで鬱屈は晴らされ、次の池田内閣が「所得倍増計画」を謳ったことに心惹かれて、高度経済成長に邁進した。エコノミック・アニマルと揶揄されはしたが、80年代にアメリカを追い越したことによって「果たしてどちらが敗戦国だったのか」と評されるようになり、敗戦国として軍事に追随していることを忘れて、「日米同盟」などと錯覚した用語法で、二重に自己欺瞞の轍を踏んでしまった。
 
 戦後生まれの政治家たちは日本がG7二隻を連ねていることに気をよくしてすっかり忘れているかもしれないが、国際政治的はいまだに、大戦時の連合国体制が国際連合と呼ばれるかたちで、日本とドイツを「敵国」とする条項を堅持しながら、つづいている。つまり、日本は永続的に敗戦国として国際社会に位置して、「戦争責任」を問われ続けているわけである。もし「ふつうの国」になろうというのなら、「敵国条項」を削除した国際機関に迎え入れられるように、「平和憲法」に代わる「戦争責任」を総括して再出発するのか、そこを明確にしなければならない。
 
 それには、大東亜戦争をなぜ開戦したのか。直前のシミュレーションで到底勝てないと結論を得ながらなぜ、太平洋戦争に突入してしまったのか。その後になぜ手ひどい敗北を蒙り臣民の犠牲が拡大していることを座視しながら、戦争終結を長引かせてしまったのか。それらについて、国家の決定過程や統治構造、支配体制、その暴走をチェックする方法をしっかりと提示する必要がある。なによりも法的に国民を動員するのではなく、国民国家のナショナリティが形成されていくような「知的・道徳的主導性」を社会に根付かせていかなければなるまい。
 
 そのためにはまず、二枚舌をあらためなければならない。今の安倍政権のように自尊意識ばかりが強くてイヤなものに目を止めず排除してしまうのでは、たとえ一枚舌でも困ったものだと思う。他者を組み込んだ、多様性を包み込むことのできる「知的・道徳的主導性」をこれから70年ほどかけて作らなければならないのじゃないか。
 
 顔を洗って出直せと、現下の国家権力の暴走ぶりを見ていると言いたくなる。(つづく)

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