mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

何を親世代から受け取ってきたのか(3) 戦争責任としての憲法前文

2016-05-24 08:00:18 | 日記
 
 混沌の中で育ったから、私たちの世代は道徳や規範をないがしろにしたかというと、そうではない。私の気分からいうと、逆だったように思う。親世代の伝統的規範は、身体にしっかりと刻まれていた。正直に生きよ、嘘をつくな、迷惑をかけるなという伝統的価値――正直、素直、朴訥、純朴が、いつしかそういうものだと身に染みていた。一つ覚えていることがある。小学1年生くらいの時だったと思うが、当時八百屋をやっていた店先のお釣り入れから、10銭だかをくすねて近所のお店でジュースを買って飲んだりしたことがあった。たまたまそうしていたところを母親に見つかり、父親から厳しく折檻されたことがあった。裏庭にむしろを敷いて、そこに座らされ、激しく叩かれたことを覚えている。いま思うと父親は手心を加えていたように感じられるほど、暴力を振るわれたという印象はない。むしろ父親が私に対して関心を示したという記憶の方が強く残っている。もちろん金銭に関する規範と受け止めはしたが、それだけが身体に刻まれたわけではないと感じる。
 
 当時の混沌、悲惨と貧困、窮迫する社会の様子を見ていたのに、どうして「正直、素直、朴訥、純朴」を良しとする伝統的規範が身に備わったのか。考えてみれば不思議であった。今考えると、目の当たりにしている戦争の悲惨という状況よりも、将来に対する希望が(身に)感じられたのではないか。それと同様に、ものごころついてからの「平和と人権と民主主義」という価値軸に、新しい時代の息吹を感じて好感を持ち、自ら受け容れていったと思う。ところが、進行する現実過程は、それを対象化してみることができるようになってみると、裏腹のものであった。
 
 「平和憲法」に凝縮された戦後民主主義の国際政治にかかわる理念は、もちろん「理念」であるから現実過程そのものではないが、将来的な現実過程をイメージする「理念」として働いてきた。「前文」に記された「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」ということばは、(占領軍の押し付けであったかどうかにかかわらず)社会の側に身を置く戦争を体験した庶民の切実な思いを体したものであったと言って、間違いない。もう二度と戦争はしない、と。つまり、それこそが「戦争責任」を体した言葉だと感じさせた。新憲法の前文と九条に、戦争を反省する為政者の(将来に向けての)「決意」(という「責任」)を感じとったと、いまさらながら思うのである。
 
 だが、憲法に記された戦力の不保持や戦争の放棄は、占領軍による日本の非軍事化政策によるものであった。それは、徐々に緊迫する当時の冷戦下では、米軍の軍事的保護下において意味を持つものであった。つまり、日本政府は戦争を反省して「戦力不保持と交戦権の放棄」を遵守しようとしている、しかし占領政策の(戦略)変更をしたアメリカが日本の最軍備を押し付けようとしていた。だから当時の吉田首相は、そのギャップを利用して講和を有利に運ぼうと腐心していたのだが、それをぶち壊したのは昭和天皇であったと、最近になって若い政治学者が記している。
 
 吉田外交の基本姿勢が、「昭和天皇がときに吉田やマッカーサーを飛び越してまで、米軍の日本駐留継続の「希望」を(ダレスに)訴えかけたこと」によってぶち壊しになったと、豊下楢彦の研究をもとに述べている(白井聡『永続敗戦論――戦後日本の革新』太田出版、2013年)。
 
 《豊下が外務省および宮内庁による資料公開の不十分さ、秘密主義に苦慮しながらも十分な説得力を持って推論しているのは、当時の外務省が決して無能であったわけでもなく、安保条約が極端に不平等なものにならないようにするための論理を用意していたにもかかわらず、結果として日米安保交渉における吉田外交が――通説に反して――拙劣なものとならざるを得なかった理由である。それはすなわち、ほかならぬ昭和天皇こそが、共産主義勢力の外からの侵入と内からの蜂起に対する怯えから、自ら米軍の駐留継続を切望し、具体的に行動した(ダレスとの接触など)形跡である。》
 
 こうし講和が成り、「片務条約」と謗られることになる安保条約が締結され、米軍の駐留は継続されることになった。これはひとえにアメリカの(戦略的)都合であったが、「主権」は日本国にあることを建前とする近代国民国家の政府としては、自らが選んだ道として政策提起せざるを得なかった。それが、二枚舌である。こんなに平然と嘘をつくことを「建前と本音」と受け止めることによって、ますます私たちは、政府や政治を信用しなくなった。
 
 政府は、「自衛隊であって軍隊ではない」と二枚舌を遣い続けた。それは、自分を偽ることであった。だが庶民である大人たちの受け取り方は、昔同様(お上である)政府ってそういうものよとみていた。「国民主権」とは言え、選挙の時だけの「国民」であり、社会における人民にはおよばぬ世界と思いながらも、それでも昔よりは良くなっていると前向きに感じていたように思う。それを今になって、アメリカに防衛してもらって、経済だけに力を注いだエコノミック・アニマルと呼ばわれては、「こ~んな日本に、誰がし~た~」とふてくされて見たくもなる。
 
 今日(5/24)の朝日新聞に、「砂川判決の呪縛」と題する論説記事がある。日米安保条約を違憲とする一審判決を跳躍上告によって最高裁で破棄したとき、事前に最高裁長官がアメリカ大使などと面談して判決内容を漏らしていたとわかったことをめぐって、砂川裁判のやり直しを求めた原告側の訴えをどう評価するか、やりとりをしている。砂川判決の一審判決は、いわば当時の国民の「戦争責任」を表明するものであった。それを戦後民主主義の根幹指針として受け取るなら、私たちはいまでも、「戦力不保持と交戦権の放棄」を自衛隊の解体を通じて実施しなくてはならない。つまり、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」というのが、「新憲法」の基本理念から再出発する。それが庶民の感じていた「戦争責任」であった。
 
 いま、海の向こうのアメリカでは、トランプさんという大統領予備選候補が「アメリカは日本を守らない。日本は核武装でも何でもして、自分のことは自分で守れ」という趣旨のことをわめいているという。これは、現実をどう踏まえているかは別として、日本にとっては独立不羈の出発点に立てという天啓である。だがこれは、理念ではなく現実を見よという「状況論的」転換ではない。「現実」には、大東亜戦争の戦争責任を、構造的国家体制として総括すると同時に、将来を見通した「決意」を込めてみてとることが含まれる。そういう大局的視点がなかったことが、大東亜戦争へ状況に追われるようにして突入していった根っこにあるからである。ただ単に「守る」というのだけでは、大東亜戦争の戦前と何ら変わらない。戦後の出発点を想い起し、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」ことから出発しているところを見つめなければならない。その「戦争の反省」を踏まえてこそ、敗戦によって重しが取れたように感じた「独立不羈」への道が「国民国家のナショナルな決意」として、再編成できようというものである。

何を親世代から受け取ってきたのか(2) 独立不羈と反骨精神

2016-05-23 14:48:48 | 日記
 
 社会と国家が分節化したと昨日指摘した。「修身斉家治国平天下」と一つながりで感じていたものが、「修身斉家/治国平天下」と区切りが入り、前段と後段が切断された。前段は前段、自分たちの取り仕切らねばならないこと、後段は後段、偉い人たちが勝手にやっていること、と。もちろんそれまでも、偉い人たちが身勝手にワルイことをしているということも知らないわけではなかったが、国家の政治はそれとは別物、天皇を中心に私たちの社会(社稷)に思いを巡らしていると受け止めていたに違いない。同じことではないが、別物ではないという、ある種の一体感を感じていた。私の母親は、戦後もずいぶん後々まで、祝日には日の丸を玄関口に掲げることを常としていた。百姓を出自とする母親は、つねに世間との距離を見計らいながら身を立てていく規範を踏み外すことがなかった。
 
 他方父親は、戦争が終わってからは、ほとんど戦中のことを口にしなかった。当時の商業学校しか出ていなかった父親には、しかし、ちょっとした特技があった。書を得手としていた。漢詩をよみ条幅をものし、句を詠んでは色紙に書き、出征する直前、昭和17年の10月に認めた般若心経は今も我が家の床の間に飾ってある。その特技(と公務員であったこと)のおかげであろうが、軍属としてスマトラへ出征し、現地の学校で日本語を教えたりしていたと聞いたことがある。それなのに戦争が終わってみると、戦前に就いていた香川県庁の仕事を辞め、いろいろな仕事を試みて後に八百屋を家業とするようになった。何があったかは、ついに最後まで言わなかった。だが私は、戦中に体験したことによる大きな回心があったと推測している。その立ち居振る舞いから子どもたちは、権力や権威を信用していないぞという「反骨精神」を感じとっていたと、今にして思う。
 
 言葉を変えていうと、独立不羈の精神に「反骨」が加わっている。そうして私たちの子ども時代は、混沌としていた。戦争の惨禍と貧困と食糧難に満ち充ちていた。社会的に弱い立場のものに同情し、手を貸すことができるものならばそうするという傾きを身につけたと言える。5人の私の兄弟たちは皆、仕事をもつようになってからも、どうかするとそのような傾きを(イデオロギー的にではなく)もって生きてきたように見える。
 
 戦前の軍国主義・天皇制国家・日本の「国体」にすっかり取り代わって、欧米流の「平和と人権と民主主義」が、私たちの暮らしの中に流し込まれた。あとで知るのだが、占領軍の強烈な検閲と情報操作は、根こそぎ日本の社会規範を変えてしまおうとするほど、苛烈であった。だが、なにより印象深く覚えているのは、小学校の給食である。私はそのとき香川県高松市の小学校の1年生か2年生であったのだが、口にしたコッペパンとマーガリンと脱脂粉乳のうまさは、ほんとうに腸に沁みるようであった。学校に占領軍の偉い人が来て朝礼台に立ったのに対して「ハロー」と声をそろえて挨拶をしたのも、鮮明に覚えている。(戦中生まれ戦後育ちの)私たちにとっては、すべてがごく自然であった。それを占領軍による「刷り込み」と呼び「洗脳」であったといったにしても、私たちにとっては、空気を吸うように、給食が腸に沁み込むように、自然に体に流れ込んできた「環境」であった。大人は自信を無くして混沌の渦中にあり、子どもたちは放置放任されていた。自由で平等の権利という「戦後民主主義」は、基本的に私たちの自己肯定を支援してくれていた。
 
 のちに「押し付け憲法」と謗る論調がなされても、そんなことは戦前「国体」を護持した支配層にとっての「屁理屈」と思われた。今でもそう思う。占領軍の圧力によって憲法草案が押し付けられたというのが「手続き」上のことだとすると、そもそも(フランス革命を基点と考えても)民衆にとって「自主憲法」というものは存在しない。「革命」によって(政権をとった権力集団によって)押し付けられた「憲法」が「民主主義」を標榜するようになっている。そのことを「押しつけ」と言わないのは、なぜか。つまり「押しつけ憲法」と呼ぶ人たちは、「中身」について触れようとはしなかった。もし「中身」のやりとりをすれば、「国体」の復活を意味することになっていたであろうし、すでに庶民は、「国体」には、国家と社会の断裂として愛想をつかしていたのである。
 
 ちなみに、なぜ太平洋戦争の終結が(すでに5月にドイツも降伏し、敗色がはっきりしていたにもかかわらず)これほどに遅れたのか調べたことがあった。当時の軍部も政府も、首脳部は(軍国主義・天皇制国家・日本の)「国体」護持を最優先にしたために、決断することができなかったと分かった。あるいは戦中の戦線と戦略をしらべたとき、ほとんど食糧も現地調達を旨として兵站に関心を払っていなかったことも判明している。つまり、戦闘に従事する人たちのことも、銃後を守る臣民のことも、戦術と動員対象として以外には、「国体」の視野に入っていなかったのである。これが「国民国家のナショナルな戦争」と言えるであろうか。そこまで踏み込んで考えるのであれば、「押しつけ憲法」とか「国体護持」を主張する人たちは、「戦争責任」をめぐる論議をくぐり抜けてきていない。東京裁判の非を主張はするが、それを受け容れたことによって日本の敗戦は確定し、占領がなされていたのだから、「敗戦」そのものを否定する言説というほかない。彼らはまぼろしの「国体」を未だに護持しつづけて、「敗戦」という現実過程を受け容れようとしていないのである。
 
 もちろん庶民は、国家と社会の断裂を受け容れる形で、戦争責任にケリをつけた(つもりでいた)。だが「民主主義国家」として再出発したのであってみれば、個人的に内心でけりをつけるだけでは終わるわけにはいかない。「戦争責任」が政治的に表現される場面に表出してくるところで、なぜ大東亜戦争に突入してしまったのかを総括しなければならない。それは、「大東亜戦争」(という呼称が跡付けであったにせよ)が含む、盧溝橋事件以降の一連の戦争がどう進展し、(敗戦したことは別として)そこに国家体制としての構造的瑕疵がどのように作用していたかを見極めなければならない。そうでなければ、(大転換した戦後体制として)「国民国家のナショナルな戦争」と向き合うことができないからである。
 
 ここまできてやっと、私たちの引き受けてきたものが、二方向に分岐する地点を迎えた。ひとつは、私たちの身体に刻まれた社会規範が戦後体制の社会・政治過程の中で、どういうかたちをとってきたかということ。もうひとつは、戦後体制として「国民国家のナショナルな戦争」とどう向き合うことをしてきたかということ、である。
 
 この二つの論議の局面の分岐は、庶民に引きつけていうと、前者においてのみ交わされてきた。だから、悲惨な戦争体験を語り継いで戦争はいやだと思い続けることと、現実政治の局面で戦争に直面してそれを回避することとをいっしょくたにして、「平和憲法」をたてまつって来たのであった。それは、戦争勢力と平和勢力とに二分して前者を排除することであり、現実政治の、戦争になるかもしれない力の凌ぎあいから目をそらすことでもあった。日米安保条約によって、アメリカに守ってもらいながら、自分たちは手を汚していないと思うことができたし、日米同盟と呼ぶようになってからも、「思いやり予算」という金を負担することで、対等に安全保障に力を尽くしていると、自らを欺瞞することに終始してきたのである。はたしてこれが、「国民国家のナショナルな戦争」に対する姿勢であったろうか。戦後民主主義が庶民に対してもたらした「独立不羈」の気分にそぐうものであったろうか。(つづく)

親世代から何を受け取って来たのか

2016-05-22 10:23:52 | 日記
 
 加藤典洋『戦後入門』(ちくま新書、2015年)を読んでいて、太平洋戦争のさなかに生まれ、ものごころついたころ、敗戦後の混沌のなかにあった私たちは、いったい世の中から何を受け取ったのだろうかと考えています。加藤典洋の著書は、彼の思索の航跡を丁寧に踏まえて、そのあいまいなところや脆弱なところを補正しながら、書き下ろされています。それもあって、私の胸中に水鉛を降ろすように落ちているところです。
 
 なぜ「世の中から受け取ったこと」と考えたか。加藤は、その著書の前半で、第一次と第二次世界大戦がそれまでの戦争と違ったことに着目しています。それまでの戦争はいつでも「政治の延長」としての武力行使として、基本的に各国の国益をめぐって進行した。ところが、第一次大戦のさなかにロシア革命がおこり、革命がなるや否やレーニンが世界に向けて「戦争を終結する呼びかけ」をした。そこに記された原則は、「国益」ではなく「秘密条約の公開」や「植民地の独立」などの「理念」であった。自国の利害のみに突き動かされているヨーロッパ列強に対する痛烈な批判にもなったでしょう。なによりもそれによって、(思わぬ)長い総力戦に辟易していたヨーロッパ各国の人びとの心を撃ちました。さらにそれは対抗的に、「国益」とは少し違った要素を加味して介入することになったアメリカ大統領の「ウィルソンのヴェルサイユ条約14原則」を引き出したとみています。それは第二次大戦後にはじまるとされる東西冷戦の「理念の争いとしての世界大戦」のはじまりであった、と。太平洋戦争がはじまって後に「大東亜戦争」と呼称することによって、(日中戦争を併せて)「戦争の大義」を日本政府が掲げたのも、「理念の対立」という世界の風潮を(間に合わせ的にですが)反映したものと、加藤はみています。
 
 そう言われて振り返ってみると、太平洋戦争のさなかに生まれた私たちが、目にしたことは、まずは(たぶん)「混沌」でした。政治の世界では、軍国主義・天皇制という国家の中心的な価値が崩れて、占領軍による「民主化と軍事的無力化」が進行していました。加藤典洋的にいえば、価値観の軸の大転換です。でもそれが、いくらかでも理念的なことばとして私たちに届くのは、小学校に入ってからの「平和国家日本」でした。日常的には、混沌と混乱と秩序が再編成されていく途次にある風景であり、大人たちの大きな自信喪失と価値の混沌でした。たぶん私たちの目には、そう映ったに違いありません。でも、大人たちは自信を失いながらも生きなければなりませんでした。ということは、まずそこに、国家と社会は別物という分節化がはっきり見て取れたのではないでしょうか。
 
 国家と社会の分節化と言えば、別にこの時期に限らず、いつでもそうであったと言えなくもありません。かつて江戸の時代までもそうでしたが明治維新以降も、基本的に、民の大部分を占めた百姓は国家の為政を左右する要素としては、埒外に置かれていました。そういう意味では、明治憲法が施行されるようになってからも基本は変わりません。ようやく(私見では)国家存亡の危機に直面しつつ遂行された日露戦争の苛烈な犠牲を払うことによって、人々の胸中に「国民国家・日本」の感覚が芽生えたのではないかと考えています。つまりここのところで、国家と社会が(建前と本音というに側面の分裂を抱えつつも)一つになったと感じられていました。その「ナショナルな熱気」が、軍部を含む統治する人たちにとっては、世界の列強に肩を並べたという自尊も併せて、第一次世界大戦への参入と(欧米列強風の)植民地経営へと踏み出す「軍国主義路線」へ歩を進めるエネルギー源になったように思います。
 
 私たちが受け止めた「平和国家・日本」とはどのようなものだったか、改めて述べるまでもありません。平たく言えば、平和と人権と民主主義でした。もっと開いて言うと、もう戦争はごめんだ、人は人として大事にされる、みな平等だという気分でした。これは私たちを取り巻く人々の振る舞い方が、理屈ではなく体に刻むように身につけたものですから、実際には、伝統的観念と新来の観念との混淆か、新来の観念を伝統的観念と折り合わせて勝手に納得したものであったと思いますが、いずれにせよ、「時代が変わった」という意味での、将来の地平が見えるようになった希望とともに好感をもって受け止めたのは間違いないと思います。
 
 ところがその(二つの価値の)混淆が、「ねじれ」たと加藤は指摘します。加藤が取り出すのは「戦死者」です。軍国主義・天皇制日本の「ために」戦死した親やその兄弟たち、あるいは銃後の暮らしの中で亡くなった人たちがあってこその現在という連続性が、否定されてしまったわけです。戦後の教育で私たちが受け入れた連合国側の価値観は、ナチズム・ファシズム・軍国主義を完全に排除すると否定し、それはいまも、日本とドイツを国連憲章で「敵国条項」としつづけているように、戦後世界の支配理念になっています。結局私たちは、ナショナルな観念を排除して、(平和や人権や民主主義を)人類史的な精華であるとして新しい価値観を受け容れるほかありませんでした。ということは、戦死した親たちの世代が現在の私たちの礎になっているという「連綿と続く(という)価値」を、順接的に位置づけられない。それを加藤は「ねじれ」と呼んでいるわけです。靖国を参拝するというのが(戦前の軍国主義と天皇制を容認することを前提にしているようで)素直に受け入れられない。父親を戦死で亡くした私の知友のHくんは靖国神社の参拝をつづけてきています。だが同じように父親をニューギニア戦線で亡くした私のカミサンは、千鳥ヶ淵の「無名戦士の墓」には墓参することがあっても、靖国神社には足を運ぼうとしません。国家と社会の切断を切り離してしか、父親の死と向き合えないというかたちで、「ねじれ」を受け止めてきているのです。
 
 面白いことに私の内部では、国家と社会を切断して考えることによって、伝統的な軛(くびき)と切れて、人類史的精華に結びつくことが容易でした。おそらく、戦中生まれの私たち世代や戦後生まれの人たちは、多くの人がこうではなかったかと思っています。アメリカの文化が受け入れられ、(ソ連のとは言わないまでも)社会主義や共産主義の理念が広まったのも、その「理念的な」精華に同調する気分があったからだと思います。戦前と戦後は違うんだという思い込み、古い世代(の観念やしきたり)を水に流して、私たちは新しく出直しているんだと「考える」ことができたのです。
 
 だが(後で気づくのですが)、身体がそのようにはできていません。私たちの身体は、戦前のままの「規範」を(親や大人たちから)しつけられ、少し大きくなってからは、その大人自体が(規範の)混沌に身を置きながら私たちをしつけて、育ってきました。振る舞いや他人との向き合い方や善し悪しの判断において、ずいぶんと「古い」センスを持ってきています。と同時に、戦後の混沌の、子どもであるがゆえの(大人からや経済的な)制約の中の自由の気分を私たちは解放的と受け止めてきました。今の若い人たちの振る舞いを見ていて、眉を吊り上げるのもそういった違いが浮き彫りになるときです。髪の毛を染めたり、鼻や唇にピアスをしたり、「援助交際」を「本人がいいと思えばいいんじゃない」と思う若い人が多数を占めたとき、私たちは「古く」なってしまっていたのです。いまは「昭和レトロ」などと懐かしがっている人もいますが、私たちにとっては、懐かしいというよりも未だにケリがついていない我が身の裡の「ねじれ」なのです。
 
 ケリをつけるには、私たちが何を親世代から受け取ってきたのかを、腑分けしてみなければなりません。そうすることによって、やっと私たちの(内心の)戦後は終わりを告げ、次への一歩を踏み出せるのだと思います。

子どもがいつか、親や大人を「赦せる」とき

2016-05-20 16:14:32 | 日記
 
 北野武『新し道徳 ――「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』(幻冬舎、2015年)を読む。「道徳」なんてものはしょせん支配者の都合によって設えられ、といって庶民は無視すると生きにくくなるという代物、結局(それぞれ)自分の思うところで判断してくぐり抜けていくしかない、そんなものじゃないかと断定的だ。つまり「北野武の道徳」とはこういうものよと、自己開示している。謹厳実直な道徳家や学校の教師からすると、なんとも身勝手な暴論と思うかもしれない。だが私は共感するところ大である。
 
 このように自在な「道徳論」が語りだせるのは、彼自身が「素人だから」と言っているところに足場を置いているから、と同時に、「芸人」という、昔、私たちが子どものころには、真っ当な職業とみなされていなかった立場に身を置いていると自認しているから、である。身勝手な生き方をして何が悪いと居直っても、どうせ芸人なんだからと世間も「たわごと」と受け取るに違いないと思っている「確信犯」だ。共感する私は、すでに仕事をリタイアして世間的には「余計な高齢者」になっている。矩を超えずという歳でもある。
 
 だがそれだけではない。「道徳」の掲げる徳目のうそくささを、大人の生きる知恵にみてとり、その二枚舌のところに頬被りしているぜと、開示して見せるから、社会と人生のぎくしゃくとしてしまう根源に目を置いているともいえる。さらに、彼の生まれ育ちの中で母親からしつけられた「規範」が、今は「なぜそうするのか」と根拠を問うから浅薄になるという、「言語―身体論」もくぐらせてある。時代の大きな変遷が視界におさまっている。そこが、また、いいのだ。
 
 先日、長年、小学校教師を務めてきた方の話を聞く機会があった。教師になりたての頃の彼は、教師の権力をふるわないことをモットーとして子どもに接したという。すると、子どもたちは時間になっても教室に入らない。「研究授業」のときに誰も教室におらずグラウンドで遊んでいて、「参観者」に呆れられたこともあったそうだ。そのうち彼は、教室の秩序をかたちづくることが必要と考えて、子どもたちの動きの形を定め、それをシステムと呼び、その中で子どもたちが自在にできるようにと仕組んだと話す。班をつくり、班競争を促した。班を編成するときには、仲のいい者同士が固まらないようにと注意して、彼らの中で「自主的に」決めていくのを、見守ったそうだ。
 
 班競争の子細はわからないが、「競争」となれば子供たちは、どんなものであれ熱中する。当然賢い子は、誰がグズで誰が敏いかを見分けるから、班員にしたくない子が出てくる。そういうときどうしたか。泣きながら愚図な子を班員にすると受け容れた(リーダー格の)子もいて、それが、次の機会に別の子(たち)が譲ることへとつながった、と。
 
 う~ん、なんだか教師の手前勝手な物語じゃないか、と思った。「そのとき(あなたがたは)、グズと敏いを差別的に見分けたんだぞと、教師は指摘したか」と尋ねた。彼は「あとで機会をみてそうした」という。たぶん子どもは、残酷にもそういう(人を差別的に扱う)ことにためらいがない。教室の、教師が立ち会った公然とした場で、教師が黙ってみているということは、規範として確立していることと感知させる。後になってそれを指摘するということは、反省的にモノゴトを考えることができるようになってからなら意味があるかもしれないが、そのときどきの瞬間を一過性で過ごしている子どもにとっては、ふ~んそうなんだ、という程度の感懐しか呼び起こさないのではないか。
 
 学校の教師というのは、仕事として子どもをしつける。近頃は、「なぜそうするのか」と問う子どももいようから、ついつい教師は、「理屈」に傾いて言葉にしてしまう。だが、ことばにすると浅薄になる。なぜ挨拶をしなくちゃいけないんですかと問われて、「お互いに気持ちいいから」とか「敵意を持っていないことを示すため」とかいいはじめると、次々と理屈が繰り出されてくるようになって、とどめがない。とどのつまり「うるさい! そうするものだからそうするのだ」と(小学生に対しては)いうほかない。もう少し年が上の中学生や高校生なら、(挨拶という形式の)歴史的な形成過程をはなしてもいいだろうし、支配の形や共同性や差別や疎外に展開しても面白いかもしれない。いわば、「いい質問だ」とほめてやって、文化人類学をやってるんだねと、けむに巻いてもいい。
 
 だが、小学生といえども、文化人類学をやって悪いわけではない。ただ、理屈で説明してやって、ふ~んとうなずいたりしたら、それは単に理屈に頷いているんであって、「わかった」わけじゃないよねと突っ込んでおいてもいい。誰もが同じ道徳に従うことが必要ってわけじゃないんだと、子どもの、いまここでのありように、突っ込みを入れておいた方が、頭のいい子どもにはいいかもしれない。でも、「斑競争をする班の編成」を、全員参加の公開でやらせて、余計者扱いした/された子たちのことを、自然状態のように放置しておくなんてことは、私にはできないと思ったね。そういうときこそ、道徳教育の本領を発揮する時じゃないか。でも理屈でいうんじゃ、子どもの身体にはつうじないだろうし、教師がどこまで、何に対して、本気で向き合っているかも伝わらない。
 
 もともと道徳なんてものは、教室の支配者である教師が、「秩序を維持する」ためにしつらえているものだ。とすると、「なぜ」なんて理屈はないとか、人によって理屈は違うだろうがとか言って、言葉にして説明できないことがあるんだと捨て置く方が、子どもは「自分の道徳」をもつようになるに違いない。だが、「道徳の時間」というのを文科省が設定したりすると、やっぱり「言葉で説明する」ことが中心になってしまう。瞬間瞬間やその場その場を、なぜかわからないが精いっぱい凌いでいる子どもたちに対して、立ち止まって考えさせるというのも、ヘンだ。支配者たる教師が、ダメなものはだめだと叱るしかない。そういうことをしながら、私ならば、忸怩たるものを感じて、子どもたちが帰ってから、つくづく教師って仕事は罪なもんだなあと自戒して、酒を飲むってところか。それが、ちょっとした贖罪のように感じられて、教師という仕事をまた(演技としてになろうが)つづけることもできる。
 
 大人の持つ二面性というのは、とどのつまり、(社会的)動物としてのヒトが背負わなければならない罪業のようなもの。子どもはいつかそれに気づく。気づいたとき、毎日うるさく支配してきた親や大人を「赦せる」ようになるのかもしれない。そんな気がする。

絶景の倉見山――終わり良ければ総て良し

2016-05-19 13:46:46 | 日記
 
 昨日(5/18)、降り立った駅舎を出ると、右にみえる緑の尾根の肩にクリームをたっぷり塗り付けたケーキのように頂をみせていたのが富士山。「あっ、富士山が見える! あの右側の隅」と声をあげると、「電車の中から見えていたわよ。〈なに驚いてんの〉」といわんばかりの返事が返ってきた。富士急線東桂駅。今日は倉見山に登る「日和見山歩」の5月月例会。来週には、反対側の箱根外輪山の金時山から富士山を眺める月例会もある。
 
 倉見山1256mは、富士山の東北側にある。南北に走る富士急線の線路を挟んで西側には、河口湖を右下において富士山の展望台といわれている、三つ峠(山)がある。先の電車で到着していた二人と合流して、歩き始めたのは、9時10分。標高560m。山頂までの標高差は約700m。今日のリーダーはKwmさん。歩くペースなども彼女が整える。久々に参加したMzさんと挨拶を交わしている面々もいる。国道を離れ、鹿留川に沿って林道を進む。ダンプカーが狭い道を(われわれを意識して)ゆっくりと通り過ぎる。〈危ない年寄りたち〉とみているのかもしれない。女の運転手もいる。地元の人たちが下ってくる。どこに上るのかと尋ねて「倉見山はお寺さんのところに標識があるから」と教えてくれる。たしかに、標識がなければ、ここが登山口とは、ちょっとわからない。お墓のあいだを縫って登山道に取りかかる。いきなりの急登になる。昨夜の雨もあってか、ちょっと滑りやすい。
 
 登山道はしっかり踏まれていて、迷うようなところはない。逆に(たぶん、上から下るときであろう)ショートカットして出来上がったルートがあって、上るときには、どちらにしようかと迷うようになっている。小さな社がある。もうすっかり樹林の中。広葉落葉樹を交えたスギ林だから、丁寧に手入れがなされているのであろう。その上へ行くと、背の高い広葉樹が繁茂している。セミの声が聞こえる。夏ゼミとは違うが、奥日光のエゾハルゼミとも違う。ちょっと濁って、野太い声のハルゼミだが、何という種類かはわからない。
 
 登山口から15分ほどのところで、Mzさんがストックを取り出す。だが短いそれを、もっと適当に調節することもしんどいのか、もたれるようにして息が苦しそうだ。Mrさんが気遣っている。30分ほど登ったところで、リュックを持ってあげるとOnさんが手にとって先行する。しばらく休んでいたが、「このまま帰った方がいいかしら」と言うので、リュックを置いておくように、先行するOnさんに声をかける。Onさんは「かわるがわる持つから大丈夫」と声を返す。でも「リュックだけ上っても困るから」と、声をかけた趣旨が通るように言い直す。
 
 ストックの長さを調節しなおす。リュックとのところまで行き、一息つきながら、「これで帰っちゃ、6月の湯ノ丸山の案内なんて、出来ないね」とMzさんは言う。来月の山を彼女が担当しているのだ。今日の暑さが身に堪えているのかもしれない。毎日のお孫さんのお世話に、くたびれているのかもしれない。久しぶりの山歩きに、慣れない身体が悲鳴を上げているのかもしれない。ご当人は「70を過ぎると、きびしいですね」という。その通りだが、今日の男連中は皆、73歳以上だ。70歳如きで悲鳴を上げるのは、まだ早い。
 
 もう少し上ってみるわと、頑張る。だが汗をずいぶん掻いている。当人は「OS1」のゼリー状を口にするなど、水分補給には気を遣っている。だが「冷や汗をかいている」というので、このままだと熱中症になると心配する。標高760m、駅から約1時間歩いたところで、引き返すと決断。山頂までのほぼ1/3の行程のところで、下山することにした。「このまま降れますから」というので、駅に着いたらメールをくださいとおねがいして、別れた。
 
 844mのポイントで、待ってくれていたほかの方々に合流。それほど離れてはいなかったと思うが、あとから追いかけて追いつくのはずいぶんと骨が折れる。昨日、私の方の別の集まりがあって、一杯やったのが祟ったのかもしれないが、そのあと上るのに、ひときわ力を使ったような気がする。こういうことも、歳のせいにしてはいけないかもしれないが、心しなければ歩行力が保持できないことにつながると思えた。歩きながらKhさんが、75歳の運転免許更新の検査を受けたと話してくれたことが、印象深い。同年齢の人たちと一緒に実地運転などもしたが、皆さんが驚くほど「年取っていると感じた。あなたなんか、見ているだけでイライラしてくると思うよ」と。そうなのだ。こうして山を歩けるだけでも、ほんとうにラッキーな身体条件をもらっているのだ。いまここにある「幸運」をどこまで保持して齢を重ねるか、そういうことが問われているんだねと、言葉を交わした。
 
 いくつか麓へ下る「分岐」を見ながら、稜線上を倉見山の山頂へと歩を進める。「←登山道」と標識があり、その下に「2016.4 宮下自治会」とあった。一月前につけた標識のようだ。地元の方々が大切にしている山だと思われる。落葉広葉樹の繁る稜線上は、まだ色の浅い緑の葉をつけ、ところどころにタマツツジのようなオレンジ色が華やぐ。陽ざしが差し込んで明るく、しかし適度に吹き抜ける風が涼しく感じられて、恵まれた季節の山を感じさせてくれる。小さく分かれた穂先のような白い花をつけた木がぽつんぽつんと緑の彩の中に美しい。Khがチドリの木だという。そう言われて葉をよく見ると、対生になっている。カエデの仲間だ。
 
  メールが入っているのに気づいた。11時過ぎにMzさんは東桂駅に着いたらしい。「駅員の方の話によると、クマガイソウを見るのは今日までとのこと。それをみて帰ります」とあった。元気なようで、皆さんに報告。「そういえば駅にクマガイソウの案内ポスターがあった」と誰かが言う。三つ峠駅から行くようだ、とも。帰りによって行こうかしらと話しを交わしている。
 
 山頂に近いはずだが樹林に囲まれ見晴は利かない。と、ひょいと山頂に出た。私の高度計は、20mも標高標示が低くなっている。上りはじめた時よりもさらに気圧が上がっている。山頂では3人の人たちがお昼をとっている。その先端の松の木の隙間から、堂々とした富士山が姿を見せている。いや、ご褒美だねと思う。11時27分。歩き始めて2時間17分。コースタイムより23分速いが、いいペースだ。後ろを気遣いながらリードしたKwmさんは、ときどき立ち止まって花に目を留める。山頂付近にはリンドウがさいていた。エイザンスミレを見つけた。「あっ、フタリシズカだ」とどなたかが声を出して立ち止まる。覗き込むが、花は一輪しかない。後にまた見つけてみると、今度は2輪咲いている。名もわからない青い花を「山野草アオ」とMrさんが根付ける。山野草アオはその後、何カ所も花をつけてルートを彩っていた。平地にはアカシアの花が満開。地元の人たちが愛でて大切にするだけの山姿を保っていると見えた。
 
 お昼をとりながら40分ほど山頂にいた。松の木ごしの富士山をながめながら、降りるのがもったいないほどに思えた。12時10分、下山開始。すぐ先に、また、富士山の展望台があり、その後何度か、そのつど立ち止まってカメラにおさめ、幸運を言祝ぎながら、降っていった。それほどいかないうちに、「分岐」の標識があり、その脇に、「←向原 寿駅」と記した小さな表示が置いてあって、そちらへ道をとる。これがどうも、あとで考えると、向原峠の分岐ではなく、その一つ手前の分岐ではなかったかと思う。というのも、国土地理院の地図では、一つ手前のルートは、途中で途絶えているために、向原からのルートしかないと思ったのだが、「分岐」の標識のひとつに、「堂尾山公園経由クマガイソウ群生地 三つ峠駅」とした表示があったからだ。向原峠からの下山路には、三つ峠駅への分岐はない。だが、一つ手前のルートには、三つ峠駅へ向かう(が、途中で消えている)道がある。
 
 そう思いながら下っていると、標高850m地点で四つ辻があり、そこの標識には、「←寿駅」「←向原」「←堂尾山公園を経てクマガイソウ群生地 三つ峠駅」「倉見山→」とあった。地理院地図で林道に出逢うような箇所があり、ごちゃごちゃと入り組んで(消えて)いる。そこではなかったか。皆さんはクマガイソウを見てゆくかどうかを思案していたようだが、Khさんがスマホを見ながら、三つ峠駅までは4.7㎞、寿駅まではその半分ほど、と距離を告げ、結局今日のリーダーのKwmさんに判断を任せて、寿駅への道をたどった。当初予定のルートと違ったために、予想よりも早く平地について自動車道路を歩くようになり、その距離もずいぶんと短かった。シティズンの工場が何カ所にも分かれて設けられていて、富士吉田市の主要な企業になっていると思われた。
 
 富士見中学校がある。そのグラウンドからは、富士山の全身がしっかりとみてとれる。「いいなあ、こんなところにある中学校なんて」と誰かがつぶやく。富士山に見守られているように感じたのであろう。
 
 寿駅は、ほんの飾りのような結界の枠組みがあるだけ。後景に三つ峠山に連なる山体が控えて、いかにも田舎の駅舎という風情であった。14時2分。電車はその5分後に到着して、すぐに出発。ラッキーであった。ところが次の三つ峠駅について乗客が乗り込んでくる。なんと、Mzさんではないか。彼女も驚いた。クマガイソウを見に三つ峠駅に降りると、地元の方が案内しようと彼女を連れて自宅へ行き、もち山で育てているエビネランなどをみせ、お茶をごちそうして過ごして、今帰ろうとしたところという。神様の引き合わせ、終わり良ければ総て良しだと思った。