mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

原石の放つ磁気と別れて

2016-05-01 09:08:14 | 日記
 
 昨日も記したが、重松清の作品に触れて、これまで何度かここで取り上げてきた。ふと思い立ってどれくらいこのブログに書いたろうかとまとめてみたら、2008年からの分で、22本。400字詰め原稿用紙にすると120枚ほどになっている。『希望ヶ丘の人びと』は二度も読んでいる。ただ、最初は読後感をTV番組の目の付け所へと移して、そちらを批判する出汁に使っているから、精確には「読後感」とは言えない。2012年のこと。それから4年経って、文庫化されたものをまた読んだわけだ。一度読んだことを忘れて読んでいる。私の頭も省資源化というか、安上がりにできている。何度でも新鮮な思いで読むことができるというわけだ。
 
 でも、22本の「感想」を並べて読み直してみると、重松ワールドが(私にとっては)終わりを迎えていると読める。彼の作品に棘というか、インパクトを感じることが少なくなり、人柄の良さが十分すぎるほどにじみ出て、触発されて身の裡を振り返ることがなくなっている。違和感がなくなっている。もちろんそれはそれで悪いことではない。(たぶん)重松がより私の老境に近づいてきたのであろう。思い返してみると、もともと重松ワールドは、私に棘をもって迫って来たことはない。違和感をもたらしていたわけではないのに、なぜ私は、かくもたくさん重松に触れてきたのであろうか。
 
 ひとつは、「出汁」にした。新聞やTVといったメディアの作風にイチャモンをつけるときに、「私がこう思う」といったところで、「だから何?」と返されるのがオチだ。それが「重松清もこう書いているが……」と書き始めると、「私の思案」が急に一般性を帯びる。レトリックというか、飾りに使って、箔付けをしているとも言える。逆に言うと、「私一個」の考えは、採るに値しないと自己規定している。つまり世の中の方々に「付き沿って」なのか「媚びて」なのかわからないが、「私の思案」を皆さん方にも考えてもらいたいという社会性をもたせるのに、重松清は好都合なのだ。
 
 でも、「家族」や「若者」や「親と子」「大人と青年」のかかわりを取り上げている作品は多いのに、どうして重松が好都合なの? と思うかもしれない。確かにその通りだ。が、じつは重松のみてとる人間や社会の機微が、私のそれとけっこうシンクロする。しかも、重松は作家である。物事を概念的につかみとることをしないで、一つひとつ場面と人物と関係を分け描いて、まさにその場において「そうだよなあ」と思わせる展開を見せてくれる。そういう意味で、多言を用して、世界を普遍的に語らないスタンスを常に保っている。それが私にピッタシなのだ。
 
 20歳以上も年が違うのに、どうしてその辺がピッタシなの? と私の内心が声をあげている。そうなのだ。同じ岡山県で育ったこともあって親近感を持っているのは確か。例えば方言が誘う共感性は、体が反応していることである。つまり人間や社会をみてとるときに、その底部にそのひと(重松と私と)の身体がいつ知らず生育中に身に備えた「アイデンティティ」の原石のようなものがあって、それの放つ磁気がビビビッと共感を誘っているのではないか、と私は昨日の「倍音が響く」で感じていたのだと、気づいた次第である。
 
 そこから離脱しなくては、ひょっとすると、一般的に現在の状況について語ることは出来ないかもしれない。とすると、ぼちぼち私も重松ワールドを卒業して、普遍性の山頂を遠くに見つめながら長い旅をつづけなければならないのかもしれない。そんなことを思っている。