mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

子どもがいつか、親や大人を「赦せる」とき

2016-05-20 16:14:32 | 日記
 
 北野武『新し道徳 ――「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』(幻冬舎、2015年)を読む。「道徳」なんてものはしょせん支配者の都合によって設えられ、といって庶民は無視すると生きにくくなるという代物、結局(それぞれ)自分の思うところで判断してくぐり抜けていくしかない、そんなものじゃないかと断定的だ。つまり「北野武の道徳」とはこういうものよと、自己開示している。謹厳実直な道徳家や学校の教師からすると、なんとも身勝手な暴論と思うかもしれない。だが私は共感するところ大である。
 
 このように自在な「道徳論」が語りだせるのは、彼自身が「素人だから」と言っているところに足場を置いているから、と同時に、「芸人」という、昔、私たちが子どものころには、真っ当な職業とみなされていなかった立場に身を置いていると自認しているから、である。身勝手な生き方をして何が悪いと居直っても、どうせ芸人なんだからと世間も「たわごと」と受け取るに違いないと思っている「確信犯」だ。共感する私は、すでに仕事をリタイアして世間的には「余計な高齢者」になっている。矩を超えずという歳でもある。
 
 だがそれだけではない。「道徳」の掲げる徳目のうそくささを、大人の生きる知恵にみてとり、その二枚舌のところに頬被りしているぜと、開示して見せるから、社会と人生のぎくしゃくとしてしまう根源に目を置いているともいえる。さらに、彼の生まれ育ちの中で母親からしつけられた「規範」が、今は「なぜそうするのか」と根拠を問うから浅薄になるという、「言語―身体論」もくぐらせてある。時代の大きな変遷が視界におさまっている。そこが、また、いいのだ。
 
 先日、長年、小学校教師を務めてきた方の話を聞く機会があった。教師になりたての頃の彼は、教師の権力をふるわないことをモットーとして子どもに接したという。すると、子どもたちは時間になっても教室に入らない。「研究授業」のときに誰も教室におらずグラウンドで遊んでいて、「参観者」に呆れられたこともあったそうだ。そのうち彼は、教室の秩序をかたちづくることが必要と考えて、子どもたちの動きの形を定め、それをシステムと呼び、その中で子どもたちが自在にできるようにと仕組んだと話す。班をつくり、班競争を促した。班を編成するときには、仲のいい者同士が固まらないようにと注意して、彼らの中で「自主的に」決めていくのを、見守ったそうだ。
 
 班競争の子細はわからないが、「競争」となれば子供たちは、どんなものであれ熱中する。当然賢い子は、誰がグズで誰が敏いかを見分けるから、班員にしたくない子が出てくる。そういうときどうしたか。泣きながら愚図な子を班員にすると受け容れた(リーダー格の)子もいて、それが、次の機会に別の子(たち)が譲ることへとつながった、と。
 
 う~ん、なんだか教師の手前勝手な物語じゃないか、と思った。「そのとき(あなたがたは)、グズと敏いを差別的に見分けたんだぞと、教師は指摘したか」と尋ねた。彼は「あとで機会をみてそうした」という。たぶん子どもは、残酷にもそういう(人を差別的に扱う)ことにためらいがない。教室の、教師が立ち会った公然とした場で、教師が黙ってみているということは、規範として確立していることと感知させる。後になってそれを指摘するということは、反省的にモノゴトを考えることができるようになってからなら意味があるかもしれないが、そのときどきの瞬間を一過性で過ごしている子どもにとっては、ふ~んそうなんだ、という程度の感懐しか呼び起こさないのではないか。
 
 学校の教師というのは、仕事として子どもをしつける。近頃は、「なぜそうするのか」と問う子どももいようから、ついつい教師は、「理屈」に傾いて言葉にしてしまう。だが、ことばにすると浅薄になる。なぜ挨拶をしなくちゃいけないんですかと問われて、「お互いに気持ちいいから」とか「敵意を持っていないことを示すため」とかいいはじめると、次々と理屈が繰り出されてくるようになって、とどめがない。とどのつまり「うるさい! そうするものだからそうするのだ」と(小学生に対しては)いうほかない。もう少し年が上の中学生や高校生なら、(挨拶という形式の)歴史的な形成過程をはなしてもいいだろうし、支配の形や共同性や差別や疎外に展開しても面白いかもしれない。いわば、「いい質問だ」とほめてやって、文化人類学をやってるんだねと、けむに巻いてもいい。
 
 だが、小学生といえども、文化人類学をやって悪いわけではない。ただ、理屈で説明してやって、ふ~んとうなずいたりしたら、それは単に理屈に頷いているんであって、「わかった」わけじゃないよねと突っ込んでおいてもいい。誰もが同じ道徳に従うことが必要ってわけじゃないんだと、子どもの、いまここでのありように、突っ込みを入れておいた方が、頭のいい子どもにはいいかもしれない。でも、「斑競争をする班の編成」を、全員参加の公開でやらせて、余計者扱いした/された子たちのことを、自然状態のように放置しておくなんてことは、私にはできないと思ったね。そういうときこそ、道徳教育の本領を発揮する時じゃないか。でも理屈でいうんじゃ、子どもの身体にはつうじないだろうし、教師がどこまで、何に対して、本気で向き合っているかも伝わらない。
 
 もともと道徳なんてものは、教室の支配者である教師が、「秩序を維持する」ためにしつらえているものだ。とすると、「なぜ」なんて理屈はないとか、人によって理屈は違うだろうがとか言って、言葉にして説明できないことがあるんだと捨て置く方が、子どもは「自分の道徳」をもつようになるに違いない。だが、「道徳の時間」というのを文科省が設定したりすると、やっぱり「言葉で説明する」ことが中心になってしまう。瞬間瞬間やその場その場を、なぜかわからないが精いっぱい凌いでいる子どもたちに対して、立ち止まって考えさせるというのも、ヘンだ。支配者たる教師が、ダメなものはだめだと叱るしかない。そういうことをしながら、私ならば、忸怩たるものを感じて、子どもたちが帰ってから、つくづく教師って仕事は罪なもんだなあと自戒して、酒を飲むってところか。それが、ちょっとした贖罪のように感じられて、教師という仕事をまた(演技としてになろうが)つづけることもできる。
 
 大人の持つ二面性というのは、とどのつまり、(社会的)動物としてのヒトが背負わなければならない罪業のようなもの。子どもはいつかそれに気づく。気づいたとき、毎日うるさく支配してきた親や大人を「赦せる」ようになるのかもしれない。そんな気がする。