mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

あらまほしき逝き方

2015-06-12 20:18:26 | 日記

 瀬戸内寂聴『死に支度』(講談社、2014年)を読む。彼女はもう、93歳だそうだ。八面六臂の活躍をしているから、こんな年だとは思わなかった。ご本人も「いつ死んでもいい」と言っていたのが、「ああ、死にたい! どうして私、死なないんだろう、もう生き飽きたよう!」といっているらしいから、ほんとうに自在に振る舞って、不都合がなさそうである。「私、死なないんじゃないかしら」と98歳のころにおしゃべりをしていた宇野千代みたい。この本のタイトルも、老いゆく日々が「死に支度」と見定めて、どのように過ごしているかをユーモアたっぷりに書き記している。「ユーモアたっぷり」と妙に褒めるのは、私が読んだ数少ない寂聴のエッセイに比べると、説教臭くないし、余裕が醸し出されている。

 

 50年ほども一緒にそばにいて世話をしてくれたスタッフの申し出もあって、彼らの「退職」を承認し、引き継いで世話をしてくれる一人を残して寂庵のありようを変える「春の革命」をするところからを書き留めている。じつは仕事を少なくして、全国を飛び回る在り様を変えることを「革命」と考えていたのだが、求めてくるものを断れない寂聴の性格もあって、相変わらず繁忙のようだ。やはり人手が足りないともう一人補充して、20歳代半ばの若い女性2人に面倒をかけながら暮らす。その人たちとの触れ合いが、いっそう寂聴を元気づかせ、「余裕」を生んでいる。

 

 むろん、それだけの経済的余裕があってのことではあるが、何もかも自分で抱え込んでしまわないで、年齢に応じて自分でやりくりすることのむつかしいところを人任せにしてしまう、というのが大切なのかもしれない。しかし寂聴の「若返り」は、もう少し違った要素が作用していると思われる。この若いスタッフは実務的な役割をこなしながらも、何より寂聴に対する敬愛心を保ちながら、日々ともに暮らしている近親者のような振る舞いをしている。寂聴の「雇われ人」という交換関係ではなく、親身の贈与互酬関係を保っている。しかも寂聴自身が、この人たちの「被雇用者」としての「権利関係」に配慮しながら、アクチュアルには共同生活者という向き合い方を崩していない。

 

 もちろん『死に支度』も彼女の作品であるから、若いスタッフの振る舞いも寂聴の期待によって物語られていると言ってもいい。だが、その中での振る舞いや言説に現れる「かんけい」は、ほとんど歳の離れた友人関係のように自在であり闊達なのだ。つまり次のように言いかえることができる。雇用―被雇用関係があるから、秩序がきっちりしている。それに加えて、瀬戸内寂聴という高名な作家僧侶と孫以上に歳の離れた若いスタッフという社会的ステイタスとしても秩序は揺るがない。そうして、親身なかかわり方がもたらす敬愛と慈愛のかたちづくる関係は、家族とか友人というよりもはるかに、寂聴にとって安定した「場」をもたらしている。

 

 まず寂聴が、夜は一人で寂庵に身を置いていることだ。人知れず死ぬことがあっても、それはそれで構わないという見切りが、はじめにある。それがあるから、「勤務時間」が終わるとスタッフは帰宅する。だが、家事いっさいから、寂聴のスケジュール管理、外出の手配、付き添いという「仕事」は、当然のように心身ともに共同性を生み出す。「かんけい」における「敬愛―慈愛」は、相互に言いたいことを言い、若い者が年老いた寂聴に(冗談交じりに)忠告をし制約を加える/拒むやりとりをする。その「かんけい」の柔らかさが自在を生み、闊達な雰囲気を醸し出す。それが「死に支度」そのものになっていると思われる。

 

 老後の「いま」がすでに「死」でもあるという寂聴の見方は、次々と知り合いが他界してゆくことへの「思い入れ」もあろう。それは、自分の(かかわってきた)「かんけい」が死滅していることを目の当たりにすることであり、自らの世界の「死滅」であるという実感に支えられている。つまり寂聴さんに(限らない、年寄りに)とっては、日々がすなわち彼岸と此岸の融け合った中にある。そのようにして、日々の(寂聴の/年寄りの)たたずまいがすなわち、若い人から見ると、「死に支度」になる。「若い人」というのは、自分は死とはまだ縁遠いところにいると思っている人のことである。だから、大半の人たちということになる。つまり寂聴の「死に支度」は、生きている人たちに向けた「永訣」の振る舞いと言いかえることができる。

 

 さて私たち年寄りは、「永訣」の振る舞いをしているであろうか。私はまだ72であるから、それほどの切羽詰まった思いは抱いていない。だが、私の周辺の深い「かんけい」の人たちの他界は、明らかに私の「かんけい」の逝去を意味した。そろそろ心を決めなさいと、ささやかれているのかもしれない。それにしても、寂聴の「死に支度」のさまは、うらやましいほど自在であり闊達である。そのように逝きたいものだ。