mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

反知性主義が結晶化する核になる宗教性がない

2015-06-21 20:18:56 | 日記

 月例の勉強会。今回は仲正昌樹の『教養主義の復権論』と藤田敏明の「教養主義と知性主義と反知性主義」を読む。仲正昌樹の「教養」をエリートの視点からみたそれととらえ、庶民にとっての「教養」とずれがあると藤田は指摘する。仲正は「教養」と「知性」とを区別していないが、藤田は前者を「社会的に承認された知性」とすることによって、その「教養」が交換経済の大潮流の中で「徳性」を剥ぎ取られ、社会的に利用可能な「能力/才能」に堕した「知性」となってしまったと指摘する。

 

 「教養」が人間存在と深く結びついていたとき、人々はそれが「魂」を深く包み込んでいるとみていた。「教養」を深めることは「魂」を豊かにすることに通じており、人生の真実に迫る社会的共通規範を身に備える第一歩であるとみなされていたのである。だから、「人格」と不可分の扱いを受けて、敬意をもって遇されていたのだ。だが、「知性」が単なる「能力」になり「才能」になったとき、それは「魂」との結びつきを失い、「人格」とも手を切ってしまった。いわば見すぎ世過ぎのノウハウになったのだ。仲正は、その「知性」の力が蒸発していることを対象化していない、と。

 

 見すぎ世過ぎのノウハウになった「知性」は、当然のように現実社会にコミットして力を発揮することが求められるのだが、たとえば3・11のときの「原発科学者」の対応は、素人同然のみっともなさを暴露してしまった。あるいは、こうも言えようか。マスメディアも含めて、戦後社会の中で培ってきた「知性の象徴」である「憲法学者」が「(集団的自衛権は)憲法違反である」と指摘しても、政権が「違憲ではない」と強弁すれば手も足も出ないという程度の、非力ぶりをみせつけている。

 

 その背景には、国家権力が暴走し、怪物化する「リヴァイアサン」との戦いとして「立憲政治」が形成されたきたという西欧政治の理念を、結局日本の政治風土の中では、定着させえなかったことを示している。それは「戦後知性」の敗北であると言ってよいのではないか。その結果(控え目に見ても)、「憲法違反」よりも、「憲法が情況にそぐわないが、憲法を変えるような暇はないから、集団的自衛権を行使して、緊急事態に備えよう」という「状況倫理」が大きな顔をして通用しているのである。

 

 このことはさらに、先の大戦の「戦争」の問題を、私たちがほとんど「知性的に総括してこなかった」ことに起因すると言えよう。現行の「憲法」にしても、(戦勝者である占領軍という)お上が与えてくれたありがたい憲法だとして拝受したのであるし、「押し付け憲法」だと言い立てている人たちにしても、アメリカの世界戦略に追随することでしか「情況」を乗り切れないとみている点では、天に唾するようことを平気でしている。どちらも「戦後の民主主義理念」をタテマエとして取り入れたに過ぎないのであって、自らの政治思想として組み込んでいくような、身体化されたものにはしなかったのだ。

 

 政治上の図柄では、あいかわらず右だ左だと二元対立にして争う様相ばかりが目につくが、そんなことではない。ちょうど55年体制がそうであったように、保守も革新も相互補完的に補い合って、アメリカの力に依存し利用して、経済的な平和を享受してきた。右も左も、簡単、便利、快適、安全を善きこととして追求してきた結果、状況倫理的に価値判断をする積年の悪癖が、ここにきて露呈しているのだ。だから、憲法学者の指摘も、「戦争は嫌だ」という感情次元でとりあつかわれる仕儀となり、中国や北朝鮮の脅威という「喫緊の情況」に対応するためと言われれば、それもそうだとすぐに底が割れてしまう。結局、「世論」という数値に頼って、政府批判をする以外に道がなくなっている。

 

 安倍政権の主張通りだとすると「政権が変われば、何が正当化されるかわからない」という指摘も、「国民の暮らしと安全を守るのが私たちの使命」というタテマエの前に、沈黙するほかない状況である。アメリカ発祥の「反知性主義」が、じつは頽落する「知性主義」に喝を入れ、人々の「平等主義的な土壌」に支えられて、不安と困難に困窮していた人々のからからに乾いた心に、燎原の火のように火がついて燃えたというが、「平等主義的な土壌」は日本にもあるとしても、「魂」という霊性のベースが汎神論的な自然信仰では、結晶化する核になるほどの中心軸になりえない。どうしたらいいのであろうか。