mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ゆずり葉の頃

2015-06-02 16:40:31 | 日記

 「中みね子監督デビュー作」と謳った映画『ゆずり葉の頃』をみてきた。物語りは単純。「やり遺したことが」と中途半端な書きつけを残して、独り暮らしの老母が軽井沢に出かける。海外の赴任先から一時帰国してきた息子が、母を追って軽井沢に赴く。すれ違いと出逢い。

 

 だが老母は、息子のことなど、眼中になかった。自らの生きてきた原点ともなる「原風景」に触れようとする。老母は、まさに自分の人生を自らの手中に収めようと歩き、その緒につく。やっと会えた息子は「子不幸だね。困らせないでくれよ」と老母を気遣う。だが老母は「あなたらしい生き方をみせてくれればいいんだから」とやんわりと、気遣い無用を伝える。

 

 トピカルにはそれだけの物語りだが、イエや家族のしがらみから解き放たれた老母を取り巻く「環境」が暖かい。喫茶店のマスター、食事処のたたずまい、ペンションのオーナー。皆、接し方がていねいで心配りが行き届く。何より軽井沢の緑がいい。街のはずれにあるというお寺の森と湧水を湛えた池の風情は、私たちの郷愁を誘うように、昔と変わらない。「帰りなん、いざ」と、ふと思う。

 

 つまり、原点から遠く離れてしまった現在から振り返れば、過ぎ去ったさまざまなことが浄化されてしまったかのように見え、「原風景」だけがポツンと佇立する。「原風景」は「人を恋うる思い」である。佇立と言わず浮き彫りになると言えば、宣伝チラシの「淡い恋の追憶」となる。だが、それでは、単なるノスタルジーだ。その狭間に、若い子どもが老母になるまでの径庭と障碍とを置いてみると、私たちが失ったものの「原点」を吟味しなおそうとする視線を感じる。ことに山下洋輔のピアノ曲の末尾が室内楽的でなく衝撃的に力を籠めて弾かれているのが、象徴的に思えた。

 

 「中みね子監督デビュー」というのこの人が、故・岡本喜八監督夫人であり、76歳の初監督作品と知って驚く。果たしてチラシが歌うように「人間賛歌」なのか「文明批評」なのか。やわらかい視線が後者にまで届かないのではないかと私は思うが、そのように読み取った方が、この監督の将来性に希望を託せる、と思った。高齢になるということは、経験則的に文明批評をしてもいいということではないのか。口幅ったくとも。