mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

クローン人間の切ないもどかしさ

2015-06-25 14:41:07 | 日記

 カズオ・イシグロ『わたしを離さないで Never Let Me Go』(土屋政雄訳、早川書房、2006年)を読む。どういうわけでこの本を図書館に予約したのか忘れてしまった。誰かの文章を読んでいて、気に留まったからかもしれない。久々に「当たり」であった。

 

 最初から最後まで、テーマが解き明かされないままに話しが展開されているという「もどかしさ」を感じながら読みすすむ。子どもの生長とそれにまつわることごとが子細に繰り広げられる。「私」というのが間主観的な存在ということに挑んでいるのだろうかと思うが、そうとばかりは言えない、物語りの歯切れの悪さが浮き彫りになる。つまり、描出される情景の輪郭がぼやけている。いや、ぼかしているのだ。なぜぼかすか、どうしてぼやけるかという謎が、中ほどで垣間見える。その時、ひとつ思い当たったことがあった。

 

 もう5、6年前になるが、学生がクローン技術についてレポートしたことがあった。iPS細胞の山中教授がノーベル賞を受ける前のことだ。その学生は、臓器移植というがクローンをつくってそこから移植すれば生体反応の拒絶が回避されると、ひとつの提案をした。「えっ、それじゃあ、そのクローンの人生はどうなるの?」と私が質問して、その学生は「そこまで考えなければいけないのかなあ」とため息をついて、その話は蒸発してしまった。その時の私は、昔読んだ『家畜人ヤフー』を思い出していた。

 

 カズオ・イシグロは、その臓器提供者クローンを育成し、そのクローンが提供者として遜色がないように「立派に(健康に)」育ち、提供者となり、あるいは提供者となるまでの間をどう生きるかを想定して、物語りは展開する。だから、提供者の「人間形成」が物語られ、彼らの人生がそれ自体として価値を持つかどうかが行間に浮かび上がる。と同時に、それらが「提供者としての人生」として社会的に位置づけられていることも、読み取れるようになる。そう言えば、クローン羊のドリーが誕生したのは、イギリスであったか、アイルランドであったか。

 

 イギリス育ちイギリス在住の作者らしく、ノーフォークという土地が登場する。イングランドの北西端、この本の中では「失せものが集められる場所」とされて、象徴的に描かれている。この本の最後の情景に登場するこのノーフォークはこう描かれる。

 

 《何エーカーもの耕された大地を前に立っていました。柵があり、有刺鉄線が二本張られ、わたしの立ち入りを禁じています。見渡すと、数マイル四方、吹いてくる風を妨げるものは、この柵と、わたしの頭上にそびえる数本の木しかありません。柵のいたるところに――とくに下側の有刺鉄線に――ありとあらゆるごみが引っかかり、絡みついていました。海岸線に打ち上げられるがらくたのようです。……》

 

 この物語に登場する間主観的な存在である複数の「私」クローンが、自らの人生をごみのごとくに置き忘れ、それが吹きだまって「失せものの集積地」に集まり、有刺鉄線の下側に引っかかって絡みついている。死屍累々の情景です。そう読み終わったとき、これはクローンの話ではなく、今の私たちの社会そのものが、人をクローンとして育て、消費し、「海岸線に打ち上げられるがらくたのよう」にしているではないか、と思った。

 

 つまりカズオ・イシグロは、クローンとして育てられる「現代の私たち」の死生観をふくめて、俎上にあげているのではないか。読みながら感じた「もどかしさ」とは、だれがどこで操作しているわけでもないのに、世界が人々をクローンとして生み育て、しかもクローン自身がその状況に適合して自らの死生観を持ち来っている、その哀切さが、「もどかしさ」ではないのか。

 

 そう考えてみると、「輪郭」がおぼろになるのも無理からぬこと。そもそも私たちが何を目的に生きているわけでもない。しかもその中の優秀な作品が選び出されて展示館に飾られ、ひょっとしたらそうした幸運に恵まれたクローンには何か特権が与えられるのではないかという期待も、抱きながら私たちが生きてきていることが、鏡に映し出される。そうして、その果てに、ノーフォークがあり、鉄条網の下側に張り付くごみの山がある。それらが皆、私たちの失ったものだとすると、はて私たちは何ゆえに生きているのであろうかと、自分に問いが跳ね返ってくる。何とも切ない。


絶好の飯縄山、良い一日であった

2015-06-25 09:40:50 | 日記

 朝6時ころに家を出て、長野に向かう。長野着8時10分。アルピコバスのターミナルから「飯縄山登山口」へのバスに乗る。バスの切符を買うのにも、券売機を自分で操作する。画面を見て、どの路線に乗るかわからない。それを教えてもらって今度は、自分の降りるバス停がわからない。その都度、カウンターへ足を運び、お姉さんに教わる。お金を入れるのは、後ということも、やってみてわかる。確か去年の9月にこれをやっているはずなのだが、もうすっかり忘れているのだ。まいったね。

 

 まあ、こうしてチケットを手に入れ、バスに乗る。善光寺が御開帳とあって、人でにぎわう。バスの通りを窓からみていても、電信柱はないし、歩道はきれいなタイルで整備されている。「急行バス」は、善光寺の周りの細い道をぐるりと経めぐって、やがて飯綱高原の山間地に入って、高度を上げる。

 

 別荘地を抜け、「飯縄山登山口」で降りる。標高1120m。周りは緑に取り囲まれている。Khさんが待っている。彼は昨日からこちらに来て、昨日は下山口の中社から飯縄山へひと登りしてきた、という。往復、2時間とか。ほとんどトレール・ランニングだね。

 

 歩き始める。9時半。昨日の大雨と雷が信じられないほどの好天。陽ざしが登山道の両側に枝葉を伸ばすミズナラの街路樹の影を落として、樹陰の散歩のように気持ちがいい。別荘地の手入れをしている方がいる。「cofe」と書いた小さな看板の見える、芝生の喫茶店も開店しているようだ。「るんびに」幼稚園も、昨年同様にひっそりと静まり返っている。15分ほど歩いて、登山口の鳥居をくぐる。やはり昨日の降った大雨が流れ下ったあとが、登山道にしっかりついている。ただ排水性がいいのか、ぬかるんではいない。

 

 「第一不動明王」の標示と石仏があり、「1368m」の標高も添えてある。その傍らに「十三仏縁起」と見出しを掲げた看板が置かれている。「十三佛とは死者の七七にその三十三回忌を司る神なり」とはじまるその看板には、ここから上に登るにつれて十三仏が置かれていたが、そのうちの二つが逸失していたので、誰某が寄進して設えた、と墨書してある。戸隠の高妻山にのぼったとき同じように石仏をおいて、何合目という表示にしていたのを思い出した。信仰の山というのは、死者を弔うように石仏を置き、そこを登りながら、死者の冥福とともに生者の平穏を祈ったのであろう。「第二釈迦如来」、「第三文殊菩薩」と標高差でいうと25mくらいごとにあり、「第十二大日如来」が「駒つなぎの場」に設えられていた。私はいくつかを見過ごしてしまったが、「第十三仏もありましたよ」とあとから登ってきた人が話している。

 

 シラカバが倒れミズナラが幅を利かせる。その梢から小鳥の声が聞こえる。キビタキよ、と鳥好きが教えてくれる。小さい鳥ほど声が高いのだろうかと、歌好きが訊いている。コルリの声が響く。ちょっとした前奏があるから、コマドリではない。すぐ近くでホイチッチッチーと繰り返す。このホイチッチ―は何? ホイチッチならクロジだけれど、何だか余計な声がついてるねえ、とやりとりがつづく。そのうち路は、ジグザグに急斜面をしのいで登り、1750mを越えたあたりで前方の視界が開け、ニセ飯縄山が目に飛び込む。振り返ると、飯綱高原の森と池と別荘地が台地上に広がる。

 

 1830mで戸隠中社への分岐を左に見て、さらにすすむ。レンゲツツジがいくつかの塊をつくって花をつけている。ハクサンフウロがあったとしたから声が聞こえる。サラサドウダンツツジも、小さなつぼ状の花を下に向けてつけている。タニウツギが鮮やかな彩を見せて、花をたくさん開いている。岩を乗っ越すように登ると、やがて飯縄神社のある1909m地点に着く。広くなっている。「飯縄山山頂10分」という表示板が目に留まる。11時45分。いいペースだ。でも雲がかかっていて、山頂は見えない。

 

 少し呼吸を落ち着けて、山頂を目指す。ここからは標高差が10mというから、ほとんど登りはない。上から小学生の集団がおりてくる。130人いますと先頭の教師が断る。歩みを止めて、彼らが傍らを通り過ぎるのを待つ。みな元気がいい。ポンポンと飛ぶように降っていく。長野市の小学校5年生、林間学校のようだ。朝7時ころ出発してこれから一の鳥居へ下山という。付き添いの教師の方が、息が切れて、苦しそうだ。高齢になると教師も大変だねと、どなたかが漏らす。

 

 山頂着12時10分。2パーティ、10人ほどの人たちが、円座を組んで昼食にしている。私たちも「30分」と声をかけてお昼にする。先ほどまでの雲が切れて、北西方向の戸隠連峰がぎざぎざの山並みをみせる。西側にあるおにぎりのような山を指してKhさんが一夜山だと、その地に残る鬼の伝説を話している。あとで調べてみると、天武天皇がこの地に都を築こうと計画したが、それを知った鬼たちが自分たちの住まいを奪われると一晩で山を築いてそれを阻んだ。遷都は行われなかったが鬼は退治され、鬼無里が誕生したとあった。鬼無里にはKhさんの兄弟が住んでいる。(たぶん)そこで仕入れた話をしてくれたのであろう。そう言われてみると、薄雲の下に広がる標高1000mを越えて広がる台地は、奥ゆかしい。陽ざしが当たり、皆さん今日の陽気を寿いでいる。風は涼しく、汗もひいて気持ちがいい。

 

 12時40分、下山開始。Khさんが先頭に立って、戸隠中社へ向かう。下り道は上りに比べてなだらかで、樹林の中。陽ざしも遮られ、快適。1時半ころ、Otさんの歩みが止まった。脚が攣りそうだという。Kwさんが漢方の薬を出して、飲むようにすすめ、攣りそうな太ももに保冷液をかけるようスプレーを出してくれる。たぶんスプレーは、鎮痛効果を持っているのだろう。漢方に即効性があるのかどうかわからないが、この二つの手当てで、Otさんは落ち着いた。あとは順調に皆さんに着いて下山することができた。

 

 私が昨年道を間違えた地点は、わりと簡単に分かった。背の高い笹の間の木にとりつけた「飯縄登山道→」の小さな標示版。これを、快調の飛ばしていた私は、見落として直進してしまったのだ。それさえ間違えなければ、簡単に林道に降り立つことも、分かった。あとは林道を10分余、たらたらと歩いて、中社に着く。14時50分。Khさんの奥さんと鬼無里の兄弟ご夫婦が出迎えてくれ、彼とはここで別れた。さてところが、お目当ての蕎麦屋は、今日は定休日。バスのが来るまでの間、別の蕎麦屋に入って、そばを食べる人、ビールを飲む人とそれぞれに今日の山行が好天に恵まれたことに感謝しつつ、無事の下山を喜んだのであった 我が家に帰着したのは7時少しすぎ。良い一日であった。