mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

人柄の入り込む余地のない別世界

2015-06-08 04:57:15 | 日記

 昨日のこのブログで、佐藤優『小説・北方領土交渉 元外務省主任分析官・佐田勇の告白』に触れて、《「もうワシャ知らんもんね」と、北方領土のことなど忘れてしまいたくなる》と、嘆いたことを書いた。そもそも北方領土のことを、さして気にしたことはなかったのに、いまさらそんな「知らんもんね」というのも、恥ずかしいではないか。なのになぜそんなに、慨嘆したのかを考えてみた。

 

 ひとつ思い当たること。佐藤のこの著書に登場する外務省などの人間像は、頭がいいとか凡庸とか、小賢しいとか要領がよいとか、女好きであるか慎ましいかというようなことばかり。つまり、「才覚がある/ない」、「保身に汲々としている/いない」、「出世のための世渡りが上手/下手」、「スキャンダルに用心深いか不用心か」という人物評価である。佐藤優という方がどんな方か知らないが、彼の見るような人間ばかりが跋扈する世界は、堪らないなあと思ったのである。

 

 政治の世界というのが、そういう魑魅魍魎が跳梁跋扈する世界であるとは、物の本を読んだりして知らないわけではないが、そういう人たちが「エリート」として「国民の利益」を斟酌しながら舵取りをしているという話は、ホントカイナと思うばかりである。いや、諜報機関や外事警察の活躍という次元の話なのではあろう。だから、そのような活劇ものとみれば、人柄がどうということなどが問題にならないのは、理の当然かもしれない。だがそれにしても、まるで庶民の人間感覚が入り込む余地がない。スキャンダラスな話としては口を挟むことができるが、そんなことばかりでエリートたちが「才能」を浪費しているのかと思うと、やめてくれよと思ったのだ。

 

 「やめてくれよ」と私がいう資格は、納税者だからとしか言いようがない。だがふと考えてみると、今の国会でやりとりしている「審議」も、似たようなことかもしれない。問い詰める、はぐらかす、さらに問う、堂々と同じことを繰り返す。はぐらかしているという自覚もないのではないのかなと思うほど、どうどうとすれ違っている。月刊雑誌などをみると、首相の口舌を批判する側も、支持する側も、政府の人たちは(信念を語っているかのように)得々としているとみている。そうか、外務省だけじゃないんだ。日本の統治機構全体が、そういう「才能」評価に満ち溢れて、己を省みるところがないのだ。

 

 これじゃあ、6年ほど前に民主党が政権の座に着いたとき、おっ、結構優秀なやつもいるんだと思った私が、バカであった。官僚が、民主党政権の足を引っ張っているとみたのも、ひょっとしたら間違いで、官僚機構自体が、民主党政権の意図するところに適応できなかったのではないか。「政局」ばかりが好きな友人がいたが、案外そういう人間観が、社会全体を覆う時代になっているのかもしれない。

 

 ここまできたら、「やめてくれよ」ではなく「(存在を)やめたいよ」と言わねばならないのかもしれない。まあ、そう言っても言わなくても、私自身のそれはそう長くはない。「やめなはれ、やめなはれ」と耳の後ろから声が聞こえる。