mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

弟Jの守り札

2015-06-15 20:49:23 | 日記

 去年亡くなったの弟Jの遺品の中に、Jが若いころ母親を連れてアメリカ旅行に行った折のネガフィルムが見つかったと、Jの奥さんが私に送ってくれた。やはり昨年亡くなった老母の{祈念誌」を編集しているからだ。それと一緒に、母親のいくぶん若いころの写真が挟み込まれた絵葉書が入っていた。

 

 写真を挟んで折り畳むと、ちょうどはがきの大きさになる。写真が見える透明なプラスティック部分の端っこの余白には「さくらカラー」と刷り込んでいる。表は抽選番号らしく「004組024098」と印刷され、文字は消えそうになっているが、「昭和42年1月中旬 有力新聞紙上」とあるから、「お年玉付年賀はがき」だったのだろう。消印は「○ 4.25」としか読み取れない。

 

 差出人は「私の名」、住所は「川越市**町××」とある。受取人は「弟J」だが、宛先は「大阪市東住吉区***町×× ○○様方」。ということは、Jが実家を離れて大阪の叔母の家に寄留して浪人しはじめたころのことと思われるから、一九六八年のことであろう。表面の下半分に書かれた文面は「写真出来上がり。ちょっとピンぼけですが、ポーズは面白いと思う。元気だろうか。焦らず着実にやってほしい。おばさんはよくなっただろうか。よろしく。」と、覚えのある私の文字である。ところが、挟まれていた母親の写真は別にピンボケではないし、ポーズが面白いわけでもない。

 

 もっとも、母親の写真というのは、どうして年相応に見えないのだろうか。いくつのときのをみても、皆同じように「母親」にみえてしまう。そう言えば、動物の子どもは最初に見たものを親と思うという習性があると聞いたことがある。眼にすら母親というのが「刷り込み」されるのであろうか。

 

 でも、わりときちんと写っているから、「祈念誌」に使えるかなと、取り外してスキャナーで読み取ろうとしたら、写真の裏側に「1966、41.3.22」と書き込みがある。これは母親の文字に間違いない。母親は56歳。このとき弟Jは、一六歳だから高校一年生。まだ岡山にいたはずである。それに私が「川越市」に住んだのは1966年から1969年の3年と3か月。1969年の4月から弟Jは埼玉に出てきているから、浪人中の弟Jに激励のはがきを書き送ったものに、ほぼ間違いない。

 

 私の想定通りだとすると、浪人して大阪に出てはみたものの、心淋しい思いが溢れて落ち着かなかったのではなかろうか。岡山の家の前で撮ったと思われる母親は、雨上がりのお出掛けから帰宅したばかりであろうか、和装をして折り畳み傘をもってきりっとしている。はがきは、たぶん、何か私が撮ったJの写真を送ったのだろう。弟Jがそこへ母親の写真を差し替えて張り付け、ホッチキスで三方を止め、お守り代わりにしていたのではなかろうか。いかにも末っ子の弟らしい母親の処遇だと思った。

 

 男ばかり5人の兄弟がいたが、母親の思い通りに育った結果、四男を除いて診な親元を文字通り巣立ってしまった。次々と家を出ていく兄たちを見ていて、弟たちは心細く思っていたに違いない。ことに一番遅く家を出ることになった末弟は、母親に対する思いがひときわ深かったものと思われる。18歳にもなって、母親の写真を守り札にするなんてと、きっと当時の私なら、嗤ったであろう。その齢の頃の私は、大学へ行くというのは口実で親元を離れるのが本命だったのではないかとさえ、思ったことがあったからだ。

 

 5人兄弟の真ん中という私の位置が、親との関係を希薄にし、親よりもむしろ兄たちとのかかわりに深い影響を受けている。それに対して、下二人の弟たちは、年が離れていることもあって、長兄が家を出た時、四男は8歳、末弟は5歳である。相互の影響関係なんて感じる年齢距離ではない。長兄からすれば、末弟は可愛がりこそすれ、対等にやりとりをする立場に立ったことがないと言ってもいい。

 

 とすると、親という「刷り込み」も、私が一番希薄であったように思えるのだが、その私にしてから、56歳の母親が70歳の母親とさほど違わないように見てしまうということは、「刷り込み」の強度がことほど左様に強烈ということなのであろうか。