mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

反知性主義という「変革」の神髄は何か

2015-06-11 09:07:02 | 日記

 森本あんり『反知性主義――アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書、2015年)を読む。

 

 反知性主義というのが、その起源において、肯定的な意味で用いられていたことを知らなかった。宗教性を軸にしてアメリカ史を通観して、反知性主義の意味を解き明かし、なぜそれがブームになるのかにも分け入って、なかなか面白い論述であった。反知性主義というよりも、そこを窓口として見て取った現代アメリカ論である。

 

 著者・森本あんりは、プリンストン大学大学院で組織神学の博士号をとっている1956年生まれ。そのせいで「宗教性を軸に」したかと思わないでもなかったが、そういう読者の思惑を相対化するに十分なほど「宗教性」を対象化して、語り口は平明だが説得的。具体的な事象を取り上げて、まるで小説を読んでいるような気分で読み通した。

 

 13植民地形成の頃の「初志」が「ピューリタン」にあったことをほとんど理念的にしかみていなかった私にとっては、読みすすむにつれてイメージが起ちあがってくるようであった。移住した牧師のほとんどがケンブリッジやオックスフォードの学士号をもっていたこと、《ハーバード、イェール、プリンストンという三校はピューリタン牧師を養成することを第一の目的として設立された大学》であること、その最初のハーバード大学の設立がプリマスへの入植からわずか16年後の1636年だったこと、入植者の識字率が2/3を越えていたことなどなど。高学歴である。「聖書の教えに立ち返る」というプロテスタントの先鋭であるピューリタンの真骨頂を彷彿とさせる。つまり、(教養主義と呼ばれる)知性主義に満ち溢れて13植民地はスタートしたのである。

 

 そのピューリタン社会の知的土壌の上に開花したのが「信仰復興」(リバイバル)という「反知性主義」の運動だという。それは18世紀以来繰り返し現れ、アメリカ独立革命や奴隷制廃止運動、女性の権利拡張に指導的な役割を果たしたと、森本あんりは位置づけている。それがアメリカの大統領選の予備選挙から本選挙にかけて見られる「大がかりな大衆動員と集団的熱狂の伝統」の根底にあると説明されて、本書のサブ・タイトルの「熱病」が起ちあがる。たしかに、前々回の「オバマvsヒラリー」の予備選挙を傍観していて、これには日本の政治家も国民も適わないと感じたことを思い出した。あれは「熱狂」とか「熱病」と呼ぶにふさわしい政治ショーであった。

 

 森本あんりは《リバイバルが「平等」という極めてアメリカ的な理念を強く呼び覚ます……平等の主張は、プロテスタント信仰の中で、はじめは精神的な領域に限定されていたが、やがて長い時間をかけて実社会における平等へと転化する努力につながってゆく。このラディカルな平等主義こそ、本書が追究する「反知性主義」の主成分なのである》と解析する。

 

 森本あんりは、しかし、単純に結論に向かわない。第一次信仰復興運動が起こった18世紀の場合を取り上げても、その「熱狂」の内的要因についてこう記す。

 

 《ピューリタンは境界の純化を求め、一定の要件を満たした「見ゆる聖徒」だけで教会を構成する(セクトというそうだ)が、その新集団もやがて成長し拡大して……ゆるみが出て……知らぬ間に自分が批判してきた母集団に類似してくる。ために、回心体験への強い希求が醸し出される。旧世界では既存の態勢を批判する人々が、新世界では自ら体制を建設しこれを担ってゆく側にある。その矛盾がここに露呈する。……火をつければすぐに燃え上がるような、カラカラに乾いた乾草のような渇望状態だった……》

 

 加えて外的要因としての印刷業とメディアの発達と言えば、ルターの宗教改革を想いうかべる。大学の修士を経て初めて牧師となる知性主義的な(頽落した)教会システムに対して、霊性の再興を呼びかける「リバイバル」は、「身振り手振りを交えた平易な言葉で多くの人を魅了した」。ジョージ・ホイットフィールドの説教を聞いて、《彼がただこの言葉(「メソポタミア」)を何度も語調を変えて叫ぶだけで、それ以外何も話していないのに、全聴衆は涙に打ち震えたという》と。あるいは、《移住してきたばかりのドイツ人女性は、英語がひと言も分からないのに感極まり、「人生でこれほど啓発されたことはありません」と叫んだ》という逸話が記されている。つまり、演劇をみるように、そして、音楽を聞くように(何かを渇望する)彼女の心に響いたのであろう。これを「回心」として、リバイバルは「熱病」のように広がっていったというのである。

 

 つまり、新天地での苦しい開拓生活や到着したばかりの不安など、彼らのおかれた「情況」そのものが「カラカラに乾いたような渇望状態」を生み出していたと言える。それに響くことばは、「知性」によるものよりも、むしろ「知性=既成の権威」に反逆する「リバイバル」であった、と。つまり「反知性主義」は「頽落する知性」に喝を入れ、人々の「熱狂」を醸し出すことを通じて「集団のなかの自己承認」を回復する、肯定的な運動であったというのだ。

 

 森本あんりの指摘で私が面白いと思ったのは、キリスト教のアメリカ化である。神との「契約」に関して「申命記」の記述を取り上げ、《神の定めた目的に誠実に邁進するならば、必ずや祝福を受けて反映するであろう。しかし、もしこれに背き、神のかわりに自分の快楽や利益を拝んで追求するようになれば、あなた方は必ずそこで滅びることになるであろう》とあるのは、当事者の信頼やコミットメントを表すものであった。ところが《アメリカに渡った「契約神学」は、神と人間双方がお互いに履行すべき義務を負う、という側面を強調するようになる。いわば対等なギブアンドテイクの互恵関係である》と森本はみてとる。現世利益である。


  「申命記」の引用をしたレーガン大統領の退任演説を例示する。彼は《(神の命に従い)われわれは自分の役割を果たした。「われわれは成し遂げたのだ」》と結び、スピーチの締めくくりは(いつも)「アメリカに神の祝福あれ」なのだと。《神を相手に「契約の履行を迫る」……。こんな発想を平気でするのは、キリスト教徒の中でもやっぱりアメリカ人だけだろう。……そこにはきわめて単純で積極的な実利志向が隠されている》と森本はみる。

 

 ここに至って、日本における「反知性主義」との違いと類似性を認めることができる。私たちは「ヘイトスピーチ」をする人たちのことを「反知性主義」と呼んでいると思っていたが、そうではない。橋下大阪市長の登場を歓迎したのも「反知性主義」であり、安倍政権の立ち居振る舞いも「反知性主義」であると言える。「知性主義」に依拠してきた左翼や民主党系知識人などに対して、「知性主義」の権威に反逆する言説が、どうして「熱狂」(というほどではないかもしれないが、統治者選出システム的に生まれている多数派)を呼ぶのかと考えなければならない。それを受け容れる、社会全体を覆う内的要因と、「知」が魂を組み込む力を失い、単なる技術として生産工場の単なる用具に化している市場経済の、外的要因を読み取らなくてはならない。

 

 「教養」が廃れるのも無理からぬこと。「知」が「徳」をはぎ取られて「才能」になってしまった時代をどう生きるか。そういうことを考えさせてくれる、面白い本であった。