mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

過去が堆積する、時間が折り重なっている

2014-06-25 16:45:14 | 日記

 先日、弟Jの息子の結婚式があった。

 

 この欄にも書き付けてきたことだが、弟Jは、4月9日に亡くなった。結婚式の招待状は、亡くなる前に発送され、私が「出席」の返事を投函したのは、亡くなったその日であったと記憶している。そういうわけで、「招待状」のところに、お嫁さんの父親と並んで、弟の名が記されている。Jの息子は「父親の希望でもあったことですから」と、結婚式を予定通りに行うことを決意したのであった。

 

 結婚式も披露宴も、滞りなく晴れがましくおこなわれ、小ぶりの額に納められた弟の遺影が、それなりの席を占めて参列していた。そのときに感じたことであるが、ひょっとすると、時間というのが不可逆的に流れるという観念はひとつの見方であって、別の見方をすれば、時間は流れ去るのではなく、折り重なって現在に堆積している。そう言えるのではないか、と。

 

 視点を変えていえば、ハッブル望遠鏡で観測されている132億光年を経た星の光はそのまま私たちの「現在」である。超越的な視点を介在させれば、折りたたまれた時間が見える。

 

 眼前の132億年前をも、私たちは「過去」と呼ぶ。つまり「過去」は「現在」の「かんけい」となって現れている。それはまた「未来」が、現在の「かんけい」の堆積の中に芽をもって実在している。つまり「現在」という時間の中に私たちは「過去」も「未来」も、もち続けているとみることができる。

 

 そのような時間に関する自然観をもちさえすれば、輪廻転生も容易に理解できるかもしれない。「前世」や「来世」もまた、「現世」とともに「かんけい」の蓄積や萌芽としてとらえる「世界の構造」を見て取ることができるのではないか。つまり時間は、「世界」をとらえる構造的視点によって、一直線に流れ去る一象限とみなすこともできれば、現在に累々と堆積する「かんけい」として、あるいは円環を描いて結び合っている「たましい」としてとらえることもできる。どれを科学的と呼ぶかどうかも、また、どのような「世界の構造」をもってみてとっているかによって、定まると言える。

 

 そんなことを考えていたら、矢作直樹『お別れの作法――「あの世」と「この世」をつなぐ』(ダイヤモンド社、2013年)が、「輪廻転生を繰り返している事実」とか「霊心体が説く〝魂〟の存在」とか「臨死体験、体外離脱が示す魂とあの世の存在の可能性」という節を設けて、表題のような「作法」を説いている本に出くわした。そんな本だと思って図書館に予約していたわけではない。

 

 この、矢作直樹さんは、東大医学部の教授で、東大病院の集中治療部部長という職にある、歴とした医師である。昨年9月に行ったSeminarの、「ターミナルケアの資料」として目を通しておこうと思って予約した。それが、いまごろ順番が回ってきたというわけ。すっかり私は、忘れていた。

 

 矢作さんは、「体」と「魂」の分離や「あの世」の実在を前提にする。やはり医師であったキューブラ=ロスの臨死体験研究など、「近代スピリチュアリズム」関連の文献を読み、気功に触れ、エネルギー・ヒーリングという施術が「権威ある米国国立衛生研究所」によって「補完代替医療の一つ」に挙げられていることを取り上げて、彼自身の「世界の構造」に組み込んでいる。

 

 あるいはまた、知人の紹介してくれた「霊媒となった人の身体を借り、……亡くなった死者(母)と会話し……そこに母がいるのでは、と錯覚したほどです」という鮮烈な体験をして、次のように記している。

 

 《同時に私は、「あの世」と呼ばれるようなものの存在があること、人は肉体死を迎えても魂は滅しないこと、つまり、見えない世界の存在の確証のようなものを得たのです。》

 

 矢作さんは、しかし、彼自身の「世界の構造」を示そうとしているわけではない。正直に自身の驚きと自らが体験したことへの畏敬の念とそれに導かれた「知らない世界がありうる」という知的な自己の輪郭(の感触)をつかみとって、一挙に「輪廻転生」を取り出している。しかしその位置づけ方も、以下のように、「納得しやすくなる」ところに力点が置かれている。実利的である。集中治療部長としての「お別れの作法」に徹しているからであろう。

 

 《霊魂の使命は意識の進化だと考えれば、私たちが今ある世界で何を為したか、その結果どうであったか問うことで、次の課題が決まる、というわけです。……輪廻転生とは、さらに前向きに意識を進化させていくためにある、というように考えることができるようになれば、良心があることも、前世や来世があることも、納得しやすくなるように思います。》

 

 少しずらせば、プラトンの「イデア論」まであと一歩という感じの認識である。もちろん私は、揶揄しているわけではない。私自身、わからないことを含めて、そうした「世界の構造」に近い感触を感じていることもあるから、どちらかというと好意的に読んでいる。だが、あまりに「実利的」なスタンスを感じると、なにもわざわざそこまで話を広げることはないじゃないかと、眉に唾をつけたくなってしまう。

 

 だから、ずらして、「時間」の流れとして考えてみると、面白い「世界」を描き出す入口になると思った次第。ここで私の、弟Jの息子の結婚式に臨席していて感じた「時間感覚」と結びつく。

 

 死への跳躍を済ませてしまった弟が「招待状を出して」呼び寄せた私たちが、弟Jの息子の結婚を祝う「かんけい」に折りたたまれた時間を、私もいま生きていると共感したからであった。それは弟Jと久々に席を共にした時間であった。


佐渡の旅(3) 高度消費社会の自然に親しむリゾート地

2014-06-24 08:43:52 | 日記

 3日目(6/18)、今日も曇り空だが雨は落ちていない。2つ亀の宿を出て内海府に回り込み、大佐渡の東側を南下してドンデン山荘を目指す。お昼をコンビニかどこかで買おうと思うのだが、通過する集落のどこにもそのようなお店がない。とうとうドンデンへの入口に来てしまった。山荘にも何か食べるものくらいあるだろうと、山道へ入る。

 

 砂利を運ぶダンプが何台も山へ向かい、山からから下りてくる。砂利採石場を過ぎたあたりから、道は狭くなる。ところどころに交差するスペースがしつらえられている。九十九折れの道は、急角度で上りになる山の斜面を、右へ左へ折れ曲がりながら駆け上がる。幸い降りてくる車がないからいいようなものの、運転していて気が抜けない。マニュアル車じゃないのに4段ある変則の4つとも使って登り降る。方々は窓の外をみて花や草の同定をしている。そのうち、昨日同様、雲霧帯に入る。

 

 標高890mのドンデン山荘駐車場に車を止め、すぐ脇の登山道からドンデン池を目指す。距離は1.5km。ドンデン山934mの先、尻立山940mから30mくらい降ってドンデン池。標高差は合わせて80m程度。だがこの方々は、時速1kmで歩く。一歩ごとに周りの草をみてしゃがみこみ、あれやこれや評定をしてから次の一歩に進む。草や木の名前が分かれば、彼らの話も面白いのだろうなあと思うが、そこまで私の身はのめり込まない。

 

 ドンデン山を越えるあたりで陽ざしが差し、視界が開ける。大佐渡の最高峰・金北山が頂に通信塔のようなものを載せてそびえたつ。シャクナゲが鮮やかに花をつけている。ハクサンシャクナゲだそうだ。葉の切れ込みがないことなど、アズマシャクナゲとの違いを説明してくれるが、私の頭には残らない。花は大きいのも小さいのもある。蕾は赤く、花になると白く開く。ハチやチョウ、甲虫など、虫が寄ってきて花に頭を突っ込んでいる。尻立山のあたりは草原状になっている。牧場であったというが、ここまで牛を連れてくるだけで大変ではないか。どうやっていたのだろうと、思う。

 

 ここから池までの下りはざれていて、滑りやすい。もともとの登山道には滑らないように石を敷き詰めてあったようだが、その石にかぶさるように木々の枝が伸びてきて、自ずから脇へと道はずれる。そこがざれているのだ。池の周りの台地に、15人ほどの人たちが休憩をしている。私たちは、池へまっすぐに向かう。

 

 池にかぶさる木々の枝葉が白い泡に包まれている。モリアオガエルの卵胞が遠慮なく産み落とされているのだ。あまりの重さに、水面に落ちんばかりになっている塊りもある。すでに落ちているのもある。木々にたどり着けずに、池の端の水草に産み落とされているのもある。オタマジャクシもたくさんいる。サンショウウオやイモリを探したが、みつけられなかった。モリアオガエルの卵がオタマに変わるころ、一足先に孵ったそれらが餌にする、というのをみようと思ったのだ。

 

 さて、登山口に戻らねばならない。1時間半で来たところだから、しっかり歩けば45分で行きつけると、励ます。しかし尻立山への登り、標高差30mくらいで、もう息が切れそうになっている。考えてみれば、植物の専門家はもう80歳。齢を考えれば、良く歩ける方だ。ざれ場で四苦八苦のようであったが、皆さんのお荷物になってはいけないと思うのであろう、なんとか私の想定の時間で、山荘に着いた。

 

 山荘は、先ほどのグループが到着して一休みしている様子。とてもお昼を食べるどころではない。2時に、トキの保護をしている方と待ち合わせをしているので、下界で食事をすることにする。九十九折れの下山は、さらにスリリングであった。街に入ったところで1件のスーパーをみつけ、そこでお昼の買い物をする。約束の場所について、駐車場の縁戚に腰かけて昼食をとる。エゾハルゼミが鳴きだして、陽ざしが出たことを教えてくれる。

 

 トキの保護活動をしている方のことは先に触れたから省略するが、ササモチやタイヤキを買ってきてくれて、さらに帰りには彼自身の作った佐渡のコメとジャガイモをお土産にくれた。トキを見せてくれただけで十分なのに、このおもてなし。女性陣は大感激。

 

 1日目の宿と同じところに宿泊。今夜はご亭主が撮影した佐渡の動物と植物の映像のCDを頂戴する。その中にヤマトグサというのがあり、それをぜひ見たいと皆さんはいう。どこに行けばみられる? と聞く。「どこにでもあるよ。道の端に。」「どこにでもって、どの山とかどのあたりとか。」「どこで撮影したの?」と尋ねて初めて、昨日登ったドンデン山荘のさらに奥、マトネという山への途中にあるよ、と分かる。明日、そこへ行くことにする。

 

 4日目、早朝のトキ・ウォッチングがうまく運び、ホクホクしながらふたたび、九十九折れの道を行く。ドンデン山荘への分岐をやり過ごしてさらに奥に進む。ここが青粘(あおねば)峠と思われるところに、自然保護官と記したスズキのジムニーが止まっている。その脇に車を置き、マトネへの道に入る。すぐに深い森であることが分かる。

 

 ところが、その森をほんの50mくらいしかすすまないうちに、ヤマトグサを見つけてしまった。群生している。もう花は終わり、かすかに髭のような枯れた蔓が残る。さすが、植物の専門家とお弟子さんたちだ。

 

 すると、往復2時間をみていた山歩きがすっかり気楽なハイキングになった。十字路と言われる地点まで行って、引き返す。突然、森の奥からぬうっと人が現れる。私たちが歩いたのとは異なる登山道を通って来たようだ。「どちらから」と聞くと、「地元です。国道から」と応える。きっとあの、自然保護官だ。でも現れたところの先を覗くと、登山道らしい踏み跡がきちんと見える。そちらを還ろうと提案をしたが、方々は、道の急峻さに尻込みをして、来た道を戻ることにした。

 

 昨日立ち寄ったスーパーに寄り、土産になりそうな地元産のものを買う。小魚の練り物や魚の粕漬、干したぜんまいなど、随分いろいろとおいてある。植物の専門家は、佐渡のコメを注文して送ってもらっている。そういえば、佐渡のスーパーは、野菜を新潟から仕入れていると宿の女将から聞いた。コメは作るが野菜はつくらないのだろうか。この旅行を企画した佐渡出身の方の話では、地元の人たちは自家消費の野菜はすべて自分で作る。だが、売りに出すほどつくるわけではないから、形はいびつだし、大きさもとりどり。出来過ぎるとご近所に配ったりして、ほとんど島内の地産池消で事足りているという。新潟からの仕入れは、本土からの観光客のためのもてなし用と思える。

 

 レンタカーを返却し、12時40分発の船に乗る。修学旅行の小学生も乗っていて、にぎやか。おおむねいっぱいの乗船客。2等船室の畳で車座になって、おしゃべりしながら酒を酌み交わす一団もいる。横になって寝入る人もいる。2時間半の旅をてんでにくつろいで、穏やかな波の上を走る船に身を任せている。

 

 お昼を食べに船上のレストランに行く。1時を過ぎているせいか、それほど混んではいない。私はビールを飲みながら、この旅の企画者の話を聞く。佐渡が、のんびり遊ぶのにたくさんの見どころをもっていることが分かる。宮本常一が訪ね歩いた50年前とはすっかり違う様相を呈していると思う。この50年間の大きな違いは、ひょっとすると、日本列島全体の、高度消費社会に入ってからの変化に対応しているのかもしれない。

 

 宿の女将は、10万人くらいが佐渡は一番暮らしやすい規模だと話していた。ひところは12万人もいて窮屈な思いをしたという。で、いまは? と聞くと、6万人余、少し寂しいねと言っていた。若い人たちが高校を卒業すると本土に出てしまい、戻ってこないせいのようだ。

 

 しかし旅の者からすると、佐渡の自然は、懐かしさに満ちている。しかも、豊かさを感じる。宮本常一の時代とはるかに遠い着地点で、佐渡は自律的な暮らしの営みを確立しているように見えた。自然に親しむリゾート地として、面白いところがたくさんある、そう思った。(「佐渡の旅」終わり)


自分を変数とする、スマホの使い方。

2014-06-23 07:04:31 | 日記

 どこかのTV番組で、「小中学生へのスマホ教育が必要」とニュースふうにやっていた。

 

 スマホのLINEなどを使っていると、見ず知らずの相手から「バカ、死ね、ウザイ」と悪罵を投げつけられる、という。ところが、親も教師たちも、LINEが何者で、アプリがなんであるかを知らない。そこで、熟知している高校生が中学生や小学生に使い方をコーチしている、という内容であった。インタビューに応える高校生が「先生たちにも知ってもらって、その上で教えてもらいたい」と話している。

 

 う~ん、そうかなあ。もちろん、スマホの機能がいかようなもので、そのネットワークに加わることが何を意味するか、どういう災いに遭遇するかを、教える立場にある人が知っているには越したことはない。だが、もっと別のことを教えることができるし、それが必要ではないか。

 

 悪罵を投げつけられることに高校生がどう対応しているのか、放送では触れていなかった。だが、たぶん学校では「人を傷つけるようなことを書き込んではいけない」とか「知らない悪意の他者が見ていることも考えて、個人情報は出さないようにしよう」と言っているのではないかと推察する。それはそれで大切なことなのだが、中学生相手ともなると、もっと踏み込んでいいのではないか。

 

 何に踏み込むのか。悪罵を投げつける自分がいることに、だ。

 

 遠い昔に過ぎ去った、我が中学時代の胸中の、実際の微細な動揺はすっかり忘れてしまったが、心中に浮かび上がってくる無数の「想い」が定めようもなくあったことは、まちがいない。親や兄弟とのやりとりに発するアンビバレンツな「想い」、友人の言葉に刺激された不安定な「かんけい」の感触、授業中に聞いた教材や教師の話から紡ぎだされた、茫洋とした「世界」の端緒、読んだ本やラジオの報道から触れた「未知の世界」。こうした「想い」のひとつひとつに、自分の固有性が付着してどう見定めていいかわからない不安と、でも知らないことへの驚きと惹きこまれるような魅惑を感じていた。

 

 そうした無数の「想い」が(ひとまずの)落ち着き先を見出すのは、自分の意識の中で「世界を分節化」している途上なのだと感知したときであったと、いまにして思う。つまり、「自分」をも変数として「世界」をとらえることがはじまっていたのだ。そうと知ったときに、そもそも確たる安定点など求めようがないのだ。「自分」自身が変数であると感知するというのは、過去の自分と現在の自分、未来の自分が、いずれも「他者」であると承知することにほかならない。それは同時に、今現在自分と向き合っている「他者」もまた、「自分」にほかならないと見て取ることを意味する。

 

 「バカ、死ね、ウザイ」と(見ず知らずの人に)悪罵を投げつける「彼/彼女」は、そうすることによって何を護っているのだろうかと考えると、実際の事情は分からないながら、我が身に置き換えてみることができる。友人といさかいを起こした、親に叱られた、自分のふがいなさに腹をたてている、ひょっとすると体調が悪いのかしらなどなど、自分ならやりそうなこと、ありそうなことに思いをはせると、気の毒には思えこそすれ、その文言に腹を立てることが無意味に思えてくる(と思うようになるのも、とっくにそれを通過した年寄りだからだと言えば、その通りだ。その経過中の中学生にそこまでの老成を求めているわけではない)。

 

 スマホの機能はわからないが、心無い他者がいるとみなしたり、用心しなさいと説いたりするよりも、「自分を他者」としてみつめることによって、「世界」との共感性をひろげ、「他者」と付き合うステージを形成途上にあると見てとることが必要なのではないか。そしてそこにこそ、親や教師の子どもや生徒に向き合うスタンスがあるのではないかと思う。

 

 それにしても、なぜ「中学生に対しては」なのか。

 

 私は、小学生にそこまで「自分」と「世界」を位置づけてみよというのは、過酷に過ぎると思っている。小学生はもっと、わけもわからず茫洋とした「かんけい」に身を置いたままでいていいと思う。だから、スマホを小学生に持たせるのは早いという主張に賛成である、とりあえず。

 

 考えてみると、いまの子どもは幼いころから「自分と世界」のかんけいを見定めるように、時代に要求されているのだ。言葉を換えていうと、早く一人前になれと、メディアからせっつかれている。

 

 そう思うと、私などの育った時代は、まだ純朴であった。心身が育つ速度と時代の変わりようが、まだ見合っていた。いまの子どもたちは、はるかに速い速度で変化する外界に、適応していかなければならない。パソコンのやり取りに起因して同級生を殺害した小学生がいたことを思い起こしながら、そんなことを考えた次第。


佐渡の旅(2) 深い天然杉の森に浸る

2014-06-22 12:06:56 | 日記

 佐渡島は、少しいびつなH型を45度横にした形をしている。その北西側を南北に連なる山並みを「大佐渡」、南東側の台地を「小佐渡」、その間にはさまれた平野部を国中(国仲)と人は呼んでいる。

 

 2日目(6/17)に訪ねたのは、大佐渡の北部地区にある「石名天然杉」。海沿いの和木地区から急峻な山岳地帯に入る。細い1車線の道路。とてもバスなどは入れそうにない。まるで農道にみえる。整備されていないらしく、つぎはぎのガタガタ。道を間違えたのではないかと、最初は思った。しかしnaviは、間違いなくこちらを示している。あとで分かったのだが、この石名天然杉を見て回る遊歩道は昨年開設され、今年は6月15日から開放された。それ以前だと、道がぬかるみ、歩くのに難儀するらしい。

 

 乗っている方々は、しかし、その途上の植物相に関心が向かう。ヤマボウシが咲き誇り、マタタビの葉が白くなって山肌の緑にアクセントをつける。車を止めると、降りてあちらこちらと歩き回る。私はもっぱら鳥の声に双眼鏡を向ける。高度を上げるにしたがって、徐々に霧が深くなる。雲霧帯というのであろうか、雲の中に入った。

 

 標高900mの石名に抜ける峠に、車が10台くらい止められるところがあり、そこから遊歩道がはじまる。タニウツギが花をつけて明るい。すぐに鬱蒼とした森に入り込む。オオイワカガミが大きな葉をひろげててかてかと輝いている。カタクリが平たい箱型の実をつけて、楚々として立っている。杉の木々の下にランの仲間も花をつけている。方々はいちいち立ち止まって、草の名前を言いながら、道程に余念がない。本当に植物が好きなのだと、みていて感じる。

 

 杉の木が枝を押し下げられたように地面に傾けて、長く伸ばしている。その枝の地面に着いたところから根を生やして樹幹が倒れないように支え、それが成長して幹同士がくっついて太い幹をかたちづくる。太いところは、胸の高さのところで12mを軽く超える。象牙杉とか四天王杉などと、5本にだけ名前が付けられている。これもあとで知ったのだが、名前を一般募集しその中から選んだという。しかしみている限りでも、名前のある5本以外にも、名前を付けてもいいと思えるような立派なスギが何本もある。屋久島の縄文杉もいいが、それほど歩けない人は、ここの杉をみて満足してもいいのではないかと思った。

 

 1時間余かけて一回りした見晴らし台のあたりで、団体さんらしい十数名が休んでいるのに出会う。年寄りが多いのに、元気がいい。歩くのも、私たちを追い立てるように速い。ウィークデイだから人が少ないのだろうが、「天然杉」と名所喧伝するほど道が整備されていないのは、ちょっとアンバランスな感じがした。まだ、始まったばかりなのかもしれない。

 

 車に戻り、外海府の石名に向けて山を下る。こちらの方は道がいい。「名所」の所管が違うからなのだろうか。くねくねと九十九折れの急斜面を下ると、日本海の大陸側に出る。狭いところにも必ずと言っていいほど田んぼがつくられている。ちょうど四阿が置かれトイレがしつらえられている休憩所で、お昼を食べる。

 

 食べながら田んぼの向こうに屹立する岩壁にユリが咲いている。スカシユリの仲間、イワユリだという。このあと、北鵜島のイワユリがたくさん咲いているところを子細に観察する。佐渡の特徴的な花だそうだ。植物の専門家は、ガードレールを踏み越えて海へつづく崖に咲くイワユリをカメラに収めようとする。危なっかしい。一眼レフデジカメが落ちないように手で押さえているが、身体が確保できずに転落しそうに見える。こちらは慌ててそばに行き、手や足の確保どころを指南するが、ご本人はそれほど危ないと思っていない。

 

 お昼を食べたところのそばの田んぼに、佐渡案内の方は目を落としている。モリアオガエルの卵をみつけている。暗い池に釣り下がる木の枝に卵を産み付けるとばかり思っていたのに、田んぼのヘリに産み付けている。卵がかえってオタマジャクシになっているのはアオガエル。ヤマアカガエルもオタマジャクシに手足が生え、しっぽがまだ長いままのがいる。産み落とされた時期が違うからなのか、卵もオタマもカエルもいて、踏み歩く草地からピョンピョンと田んぼみ飛び込む。

 

 翌朝の話になるが、宿の近くの田んぼでモリアオガエルのメスとオスを見つけたと、案内してくれた。メスは達磨のようなもっこりした大きな体、オスはその半分にも満たない小さい体をしている。田んぼにかかる木の枝葉に卵は泡とともにぶら下がっている。田んぼの周りにも卵泡は産み付けられている。田のまわりの草が刈られていたが、その中にも卵泡が転がっている。女性陣は一つ一つ拾って他の中に移してやっている。触ってみろというから卵泡にさわると、マシュマロのような反発力がある。面白い。

 

 大野亀に向かう。大野亀島と名づけられているが、陸続きで島ではない。国定公園に指定の看板をみると、大野亀の部分と陸の端境部分が区切られていて、大野亀は海中公園に含まれている。地質上の何か大きな違いがあるのかもしれない。この大野亀、トビシマカンゾウという佐渡に固有のカンゾウの密集生育地になっている。これを見に来たのだ。なるほど見事だ。が、知る人によると、かつてはこんなものではなかったそうだ。減っているという。

 

 二ツ亀に宿をとる。海から急に100mほど起ちあがった台地の上に、簡素な造りのホテル。見下ろす海辺には、歩道のようなものがつくられている。宮本常一の「佐渡紀行」によると、自動車道ができるまでは海辺を歩いていたらしい。それくらい山が海に迫っているのだ。二ツ亀との間は、引き潮のときには砂州でつながる。朝、ちょうど引き潮であったので二ツ亀まで歩いて渡り、亀に触ってきた。なぜ触っただけか。亀もまた急に起ちあがり崖になっていてとうてい登れなかったからである。海辺に沿って歩道があり、その向こうに2軒の旅館がある。「二ツ亀荘」と「よしや」と名前が大書してある。どちらも休眠中のようであった。きっと夏になると開くのかもしれない。

 

 とにかくホオジロがたくさんいる。そちこちの木々や岩場の先端に立ってけたたましく鳴きさんざめいている。山を越えるときにも、ホトトギス、カッコウ、ツツドリ、ジュウイチなど、とけん類の声を聴くことができた。佐渡は渡りの途中に立ち寄る島ではないのかな。でも、今ごろと渡りでもないか。

 

 気温は高いが、それほど暑さを感じない。今日2日めもまた、雨にあわなかった。(つづく)


佐渡トキの旅(1) トキを毎日現認する幸運

2014-06-20 11:17:37 | 日記

 16日から4日間、佐渡に遊んできた。植物の専門家とそのお弟子さんたちの「佐渡の旅」をサポートするアッシー君なのだが、山部分の安全保障装置でもある。

 

 大宮を6時半ころに出て佐渡に12時前に着くというのも、その間のバス連絡などがスムーズに運ぶというのも、新鮮な発見であった。新津港から佐渡までは所要時間が半分以下の高速船もあるから、先を急ぐ人は、さらに1時間半短縮できる。暖かく遠景の霞む海は穏やか、ひねもすのたりの梅雨の間であった。

 

 「佐渡の旅」の目指したものは、佐渡の植相の特徴的なものを現認することとトキをみること。
 トキを見るのは、1日目の午後いっぱい、2日目の早朝、3日目の夕方、4日目の早朝の4回。4回とも見事なトキの姿を見ることができ、後半になればなるほど、おおっという感動的な出会い方をしている。

 

 佐渡の野のトキは、2008年から10回目の、今月初旬に放鳥した17羽を含めて現在100羽余らしい。養育ケージの中のトキがテンに襲われるなどのアクシデントを乗り越えて、2015年には60羽程度に増やしたいという目標値を、すでに超えている。野生の第三世代が生まれ育っているという報道もつい先ほどあった。増えているのだ。だが、今が子育ての時期に当たることから、あまり巣から離れないこと、採餌するのは早朝の田んぼが多いことなど、飛ぶのをみるのはムツカシイと言われてきた。

 

 1日目は、トキの森公園を訪ねた。港から車で20分ほどの場所にある。トキの育雛をしている。ケージの中のトキは、しかし、10m以上も離れてしか観察できない。展示は、「最後のトキ」から中国からの寄贈による飼育の開始、放鳥にいたるまでの、田んぼなど環境条件を整え、トキの餌になるドジョウやカエル昆虫類の繁殖など、ただならぬ尽力を記している。

 

 今回行を共にした植物の専門家は、ご自分のかかわってきた荒川周辺の園地の保護活動などに比べて、格段に手厚いことをうらやましくも不公平だという目で見ていた。つまり、1999年に中国の国家主席が訪日し天皇と会見した折に贈呈されたことで、環境省所感で取り組みが始まった保護事業は、いわば「恩賜」のご威光と対中関係のメンツから、他の植物保護事業などとは異なった格別の扱いを受けているというのだ。

 

 じっさい、トキの森公園のほかにトキ交流会館が置かれ、NPOも含めてトキの野生復帰とその啓蒙活動が手広くおこなわれている。手広くというのは、農家の稲作のやり方、田んぼのヘリを少しばかり開けて苗を植え、田に水がそれほどいらなくなっても、縁の部分に水がたまるようにして、水生生物が生き残れる稲作法や稲刈りの後、水を張ったまま冬を越すことができるようにする農法など、地区全体の条件整備が欠かせないことを、修学旅行の小学生や観光で訪れる人たちに広く知ってもらう。そのことを通じて、地元のひとたち自身が(野生との共存という方向へ)考え方を切り替えていくようにしているようであった。

 

 トキの森公園を出て、すぐ近くの田んぼの状態をみているときに、すぐ上をふわりふわりと飛来するトキに出逢ったのが、初見であった。電線のすぐ上というほど頭上を、上空の太陽を背に飛ぶ姿は、羽のいわゆるトキ色を輝かせるようにして、みごとであった。あんぐりと口を開け、トキの森の方へ飛び去るのを見やるばかりで、もちろんカメラを構えることも忘れていた。そのあと少し遠くを、トキの森の方から南の方へ飛ぶのを見て、来たかいがあったと喜んだのであった。

 

 2日目早朝、5時半に宿を車で出て、田を見やると、白い頭がいくつも見える。やったねと言いながらよく見ると、なんとウミネコ。それが田に降りて、水生動物を捕食しているのであろう。なあんだと通り過ぎたが、後で宿の女将のいうことには、「カモメに交じってトキがいることもある」ということであった。私たちは昨日の、二匹目のドジョウを狙った。しばらく待っていると思惑通り、ふわりふわりと頭上を南の方へ飛んで、杉の森の向こうに入る。杉の森の向こうを覗けるところまで歩いていた一人が、「あっ、いる」と声をあげる。杉の森の枯枝に止まって羽を休めているのが見える。スコープを出してクローズアップする。みなかわるがわる覗く。羽根はねずみ色にくすんでいて、トキ色の鮮やかさはない。しかしもちろん満足。

 

 3日目、佐渡の北西部、大佐渡の北半分を経めぐって午後2時ころ野生復帰ステーションで、現地の生椿地区で野生復帰活動を続けている高野毅さんと落ち合って、話を聞く。ここには佐渡自然保護官事務所も置かれていて、環境省のレンジャーから直接に「現状」を聞いた。野生復帰ステーションは鬱蒼たる森の中にあり、保護ケージもいくつも設けられている。それぞれに設けられたカメラでトキの活動や成長の状況を事務所にいながら観察し、第1回放鳥の失敗を教訓にして、トキの集団性を損なわないように、「自然に」飛び立つかたちの「放鳥」を試みている。カメラを通してであるけれども、採餌するトキをみることもできた。

 

 高野さんはそのあと、トキ交流会館へ案内しがてら、トキを見せようと考えていたようだ。車を止めて、左を手で示す。周囲を森で囲まれた広い田んぼの上空を、トキが3羽、飛んでいる。やあ、またみられたねと私たちは喜ぶ。トキ交流会館に女性陣は高野さんとともに入って説明を聞いていたようだが、私と植物の専門家は屋外で空を見つめていた。と、ひらりひらりと飛んでくるではないか。曇り空だから、トキ色が鮮やかに見えるというわけにはいかなかったが、目の前の杉の森の枯枝に止まって一休みしている。私はカメラを構えて、ズームアップ、シャッターを押す。専門家氏はデジタル一眼レフを操作しているが、うまくズームアップすることができない。そうこうするうちに、向きを変えたトキは、ふわりひらりと飛び立って、やってきたのとは別の方向の森の向こうへ飛び去ってしまった。ああ、と思ってところへ女性陣がやってくる。いまの情景を話すと、中へ入ったことをたいへん残念がる。高野さんが、「この森の向こうに巣がある。ここの枯れ木には、よく来て止まる。小学生を案内するときには、ここにきて話しているとたいていトキの姿を見せることができる」と解説してくれる。その話を聞いているとき、また1羽がふわりふわりと頭上に姿を現す。あーっ、あーっと言葉にならない声を出して見とれる間に、トキは巣のあるという森の方へと飛んでいった。

 

 大満足。「今日も見られたね」と大喜びで宿に向かったのであった。

 

 第4日目早朝、やはり5時半に宿を出る。三匹目のドジョウを狙う。トキの森付近はしかし、今日は飛来していない。だが、その近くのサドガエルの生息しているという休耕田を見に行く。今回の旅を設営してくれた方が、その休耕田の主に問い合わせをしていたようなのだが、そのせいか、休耕田の周りの草がていねいに刈られて、歩きやすくなっている。ありがたいことだ。しかし、アオガエルなどは現認されたが、サドガエルは見ることも声を聴くこともできなかった。

 

 三匹目はやはり、高野さんの案内してくれたルートと交流センターとみて車を回す。窓から3羽のトキが飛び去るのをみかける。ゆっくりすすませていると、すぐ脇からばあっと飛び立ったトキがいる。向こうに見える池の端の森陰に入った。と、そこから少し離れて別の個体と思われるトキが飛び立つ。間近に見て、きもちがふわあっと浮き立つ。私は田んぼ脇の道をいけの方へ降りていこうといったのだが、「間近にトキをみるときは車からみるのが原則、いけません。」と案内役の方に叱られる。採餌しているトキを驚かせて仕舞い、ヒナを育てる邪魔をしてはいけないということのようだ。

 

 ほくほくしながら、交流センターについてすぐ、トキが飛来して、昨日とは少し違った枯れ枝に止まる。みな車から降りて羽づくろいをするのをみていると、体の向きを変えて、やってきたのとは違う方向へひらりと飛び立っていった。ゆっくりと観察でき、いやはや大満足であった。(つづく)