mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「祈り」ということ

2014-06-05 09:35:28 | 日記

 第8回Seminarの報告を書き記していて、ふと立ち止まったところがある。これでは正確には通じないな、と思いながら、でもどう表現していいか、わからない気分であった。講師の「信心」とか「信仰」に向かう態度から感じた私の所感の部分だ。

 

《自己批評性をもっているというか、自分の考え方や「信念」を突き放してみる、外部の目をもっている。そのようなあり方をしているときに、心の中に積もり溜まる「なにか」を、[祈り]を通じて[自然]への感謝を捧げることで、保ち続けようとすること、と感じた。》

 

 まず、《心の中に積もり溜まる「なにか」》とはなにか。

 

 「般若心経」は、とどのつまり苦も楽もない、と述べている(と私は理解している)。だが、私たちが生きている間にもつ「かんけい」では、「迷惑」をかけもしかけられもしている。目に見えることもあれば目に見えないところでそうしていることもある。また、そのときとところによって、「迷惑」になったり「気遣い」であったりもする。それがよかったかそうでなかったかも、価値観や受け取る立場、それを眺める時点や地点によって変わってくる。

 

 少し具体的にいうと、私は長く若い人たちの教育にあたってきた。定時制の高校生や全日制の高校生、最後には大学生を教えてきたが、基本的に学校の教師は「近代に適応することを推奨する」役割を果たしている、と考えてきた。

 

 それはしかし、時代を追うごとに過酷な「適応」を若い人たちに要求することが多かった。定時制の生徒たちには、成育環境のもろもろの事情によって「適応」が順調にいかなかった子たちが多かった。また大学生にしても、20歳ころまでのさまざまな事情によってであろうが、やはり「適応」がうまくいかず、それを己の内心に抱えて四苦八苦している人たちもいた。

 

 むろん学校のありようからすると、適応している方が優秀であり、多数派でもあった。それが進学や就職で「成果」として目に見えると、教師に対する周囲の評価もあがる。悪い気がしなかったこともある。

 

 しかし、教師が目にしている学校生活の日常では、四苦八苦する生徒の方に視線が向く。彼は何につまづいているんだ、彼女はどうして化粧やピアスなどばかりに気がむいているんだ、どうして彼らは果てしなくルーズで遅刻ばかりするのだろうか、まるで勉強が手につかないのはなぜだ、と。他方で彼らが文化祭や体育祭、球技大会や校外行事などで生き生きと活動しているのをみると、彼らを受けとめる社会の人間評価の仕方の方がイビツなのではないか、その社会をつくってきたのは自分たちではないのか、とも。

 

 その適応不全の生徒たちをみていると、適応を強要する方が悪いのではないか。適応できない在り様の方が自然なのではないか、と思うことも多かったのである。

 

 この戸惑いは、つまるところ、近代学校における教師の「原罪」を感じていたのだと言える。

 社会に適応しないでは生きていけない生徒たちを教育する仕事は、果てしなく自分を作り変えていく軌道に生徒を乗せることである。だが、ひょっとすると、適応できない生徒のありようの方が、大自然の人間のありようを反映しているのではないか。それは近代そのものに対する疑問であると同時に、自分の内部に、(今の)近代に適応したくないと感じてきた、人生数十年の経験的実感も込められている。

 

 そのような(社会に対する)違和感を、いつごろから抱きだしたかは別に取り上げるが、すべての仕事を終わって世の中を見てみると、経験的実感がさらに強く感じられるようになった。この、何がいいか悪いかは一口で言えない日常の営みにもつ戸惑いが、心に降り積もる「なにか」である。

 

 その「なにか」は、すでに過ぎ去ったことではあるが、忘れ去ることはできない。と言って自分でそれに対するなにがしかの「つぐない」をして、浄めることもできない。そもそも浄めることが忘れることにつながるとしたら、それこそ罪深いことではないか、と思う。

 

 人が生きるということが、そうした「原罪」をどうしようもなく積み重ねることだとしたら、「すまないことをしてきたなあ」と詫び、そのようにして生きてくることを許容してくれた「かんけい」の幸運と寛容とに感謝しつづけるほかない。それを「祈り」というのではないかと思ったのだ。

 

 この「祈り」の意味に気づいたとき、生きるということを、苦とか楽とか、理解するとか無知であるとか、偏見をもっているとか客観的であるとかいうこと自体、どうにでもいえ、それぞれに事情と理由と根拠をもち、それに分け入ることなしに価値的に結論を出してしまうことができない、と思う。つまり、「祈る」以外に、我が身の実在したことが犯してきた罪を感じていることの証はないのである。

 

 「小さいことはどうでもええが」「救いを求めることには何のご利益もない」という講師の祈りへの「信念」が、このあたりにあるのではないかと、思いあたった次第である。