mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

第8回 aAg Seminar 報告(2)

2014-06-03 10:02:25 | 日記

★ 呪文


 「ぎゃあてぎゃあてって言ってるのは、どういうこと?」と質問をつづけるのは、hkさん。
km:あれはな、南無阿弥陀仏いうてるんと同じよ。痛いの痛いの飛んでいけというか、おまじない。呪文よ。
***hk 「はじめ人間ぎゃあとるずというのが思い出されて……」
km:私やこうが、南無阿弥陀仏というのも、気分が落ち着くっていうんか、「彼岸に行こう」とか書いたある。そんなのはどういうことはない。スマナサーラ、駒澤大学の先生しよんよ。子どもにかわってやりたいというても代わることはできない。なるべく苦しまずに歩いた方がいいんじゃないか、業の道。少しくらいは楽しいこともあるんだろうけど。

***ts 「苦と感じる人もいるし、感じない人もいる。それでいいんじゃない?」
km:苦と感じないようにな。
***ts 「苦の次は充だよ。誰かさんみたいに、競馬が面白いっていうように。」
***fw 「競馬は面白くないよ。……それよりも、コレはそもそもどういうことを言ってるん。それを解説してよ。」
km:そんなのはどの本をみても同じことを書いてあるから、読めばいいが。
***fw 「耳で聞きたいんよ」
km:ふ~ん、

* (呪文が、どうして「苦」を取り除いたり、気持ちが安らいだりすることに効果があるのだろうか。面白い問題の入口が見えたように思った。また、fwくんの「耳で聞きたいんよ」というのは、たしかに本で読むのとは違う「感触」をもっている。「ふ~ん」と講師のkmさんはここでは聞き流したが、音で聞くということは、「呪文」と関係のある作用をしているのではなかろうか。私たちは、すっかり文字の世界に暮らすようにしてきた。その中で、音声で伝えていた時代に持っていた何か大切なものが、失われてきたのではないかと、思う。
 話を転がせば、たとえば、高校などでは、入学式や卒業式で「呼名」をする。「どうして、時間がかかるのに、あんなことをするの?」と生徒に聞かれたときに私は、あれは場の神様にお伝えしているんだよ、と応えてきた。つまり、目に見えない何か――私は「かんけい」と思っているが――の存在に思いを致すという行為のひとつが、音声にすることにあると思った。呪文も、これとかかわっているのではなかろうか。)


★ 彼岸が問題なのか? 此岸が問題なのか?


***sy 「昔はどうしようもなく苦しかったから、どこかに精神的なものを求めてたんじゃないの。自分をごまかすというか、いまは学問もあるし、そんなに困ることもないから、何かにすがって生きるって感じじゃないから、その人のとらえ方であって、マチマチ。kmさんが言うように苦じゃというのはよくわかる。一つの方向に向かってみんなが行く、重い荷物を持ってる人もいる、旦那が持ってくれたりもする。重さも捉え方も違う。これをすると楽になるとか、自分をごまかすことはあるかもしれない。やっぱし考えるってことが。」
***ts 「むかしは電気なかったんだから、暗くなったら寝るしかないし……」
***sy 「豊かさというのも、その人の感じ方によるんじゃない?」

***hm 「誰もが死ぬということ。これは何年たっても変わらない。死後の世界をどう考えるか。俺なんか、死後の世界はないと思っている。仏教はそこを想定している。だから関心が持てないのよ」

***fk 「ただ、Hくんが言っているような、死んだらなんにもないってことをコレは書いているんじゃない? 死んだ世界のむこっ側に何かあるってことはないって。」

km:家だってなんだって、朽ちていくがあ。それを「色即是空」いうてるんやな。

***fk 「目に見えるものも、瞬間瞬間のモノよ。それは空だよ。空という目に見えないものも、関係があるんだよ、と。それが空即是色だよって。向こうもこっちも一緒よ。空だよ。無明もなければ、無明を盡すってこともないんだよ、っていうのは、hmくんのいうことと同じじゃないか。」
***hm 「あらゆる事物は空であり、固定的な実態をもっていないということ。永久不滅なものはないってこと。中村先生に言ってもらわなくても、自分が持っている。」

* (苦や楽のとらえ方が人によって異なるというのは、人によって感性が違うということではなくて、おかれたシチュエーションによって、背負った重荷をとらえる視点や意味合いが異なってくるからではなかろうか。目標をもって励んでいるアスリートにとって、鍛錬は苦ではあるが間違いなく愉しみでもある。だが、単にその日の生活を糧を手に入れようとする者にとっては苦役でしかない、と言える。般若心経は、それもこれも、普遍的なスパンで見てみると、「色即是空 空即是色」と一括したと言える。その意味では、hmくんの彼岸についてだけでなく、此岸、つまり私たちの日々のありようについて、述べているととらえることができる。)


★ 般若心経が言ってることは重要なのか?


***fw 「ちょっとさあ、コレがどういうことを言ってるのか翻訳してよ。」

 やっとここでkmさんは、読みぁええがと言っていた「解説書」を読み上げる。

km:観世音菩薩は、身も心もみな空であることを悟られ、形あるものが空であるように、空が形あるものとなっていて、……感覚も認識もこれと同様である。真実の姿はみな空であって、心の作用もない。何もないということをみることができるから、心に障りがない、心に障りがないから、恐れることがない。……真実に目覚める呪文を説こう。すなわちその呪文とは、「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦……」

***hm「やっぱり口語訳にしたらありがたくねえな」

km:こんなことはどっちでもええ。小さいところで、ああでもないこうでもないっていうようなことは、私はどうでもええ。

 講師のkmさんは、彼女の言いたいポイントはそんなところにはない、(今ここにあることを)ありがたいと思う気持ち、「信心」にあると繰り返す。

***fw「ありがたいかどうかじゃなくて、そこを通らないと次の理解へ進まないが……」

km:理解するって言っても、理解できるかどうかなあ。このスマナサーラさんはものすげえ悪う言うとんじゃ。(般若心経をまとめた人は)わかっとらんっていうて。誰がつくったかはわからんが、いろいろな仏説を集めて、つくったというのがこれなんじゃ。

 (やっぱりわからんよとHくん。わからんでいいのよ、とTくん。)

* (般若心経の教説を「理解できるの?」と思っているらしいkmさんのスタンスが面白い。つまり、たぶん自分などには理解が及ばないことを仏教者の方々はつかんでおられる。そういう超越的な存在に対して敬意をこめて接することが一番のスタンスよと、彼女は示していたように思う。
 現実の私たちの住んでいる世界は、「近代合理精神」に満ち満ちている。つまり、[理解できる]ことが優れていて、ものごとを理解したうえでの[意志]による決定こそが、「理性的な」「理知的な」人間的態度だと、考えられている。それに対して異議申し立てをするような態度が、kmさんのスタンスにある、と私は思う。それはたぶん、西欧合理性を越えた時代を生きる人たちにとって、とても大切なことを示唆していると思うのだが、いずれ考えなければなるまい。)  (つづく)