mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

過去が堆積する、時間が折り重なっている

2014-06-25 16:45:14 | 日記

 先日、弟Jの息子の結婚式があった。

 

 この欄にも書き付けてきたことだが、弟Jは、4月9日に亡くなった。結婚式の招待状は、亡くなる前に発送され、私が「出席」の返事を投函したのは、亡くなったその日であったと記憶している。そういうわけで、「招待状」のところに、お嫁さんの父親と並んで、弟の名が記されている。Jの息子は「父親の希望でもあったことですから」と、結婚式を予定通りに行うことを決意したのであった。

 

 結婚式も披露宴も、滞りなく晴れがましくおこなわれ、小ぶりの額に納められた弟の遺影が、それなりの席を占めて参列していた。そのときに感じたことであるが、ひょっとすると、時間というのが不可逆的に流れるという観念はひとつの見方であって、別の見方をすれば、時間は流れ去るのではなく、折り重なって現在に堆積している。そう言えるのではないか、と。

 

 視点を変えていえば、ハッブル望遠鏡で観測されている132億光年を経た星の光はそのまま私たちの「現在」である。超越的な視点を介在させれば、折りたたまれた時間が見える。

 

 眼前の132億年前をも、私たちは「過去」と呼ぶ。つまり「過去」は「現在」の「かんけい」となって現れている。それはまた「未来」が、現在の「かんけい」の堆積の中に芽をもって実在している。つまり「現在」という時間の中に私たちは「過去」も「未来」も、もち続けているとみることができる。

 

 そのような時間に関する自然観をもちさえすれば、輪廻転生も容易に理解できるかもしれない。「前世」や「来世」もまた、「現世」とともに「かんけい」の蓄積や萌芽としてとらえる「世界の構造」を見て取ることができるのではないか。つまり時間は、「世界」をとらえる構造的視点によって、一直線に流れ去る一象限とみなすこともできれば、現在に累々と堆積する「かんけい」として、あるいは円環を描いて結び合っている「たましい」としてとらえることもできる。どれを科学的と呼ぶかどうかも、また、どのような「世界の構造」をもってみてとっているかによって、定まると言える。

 

 そんなことを考えていたら、矢作直樹『お別れの作法――「あの世」と「この世」をつなぐ』(ダイヤモンド社、2013年)が、「輪廻転生を繰り返している事実」とか「霊心体が説く〝魂〟の存在」とか「臨死体験、体外離脱が示す魂とあの世の存在の可能性」という節を設けて、表題のような「作法」を説いている本に出くわした。そんな本だと思って図書館に予約していたわけではない。

 

 この、矢作直樹さんは、東大医学部の教授で、東大病院の集中治療部部長という職にある、歴とした医師である。昨年9月に行ったSeminarの、「ターミナルケアの資料」として目を通しておこうと思って予約した。それが、いまごろ順番が回ってきたというわけ。すっかり私は、忘れていた。

 

 矢作さんは、「体」と「魂」の分離や「あの世」の実在を前提にする。やはり医師であったキューブラ=ロスの臨死体験研究など、「近代スピリチュアリズム」関連の文献を読み、気功に触れ、エネルギー・ヒーリングという施術が「権威ある米国国立衛生研究所」によって「補完代替医療の一つ」に挙げられていることを取り上げて、彼自身の「世界の構造」に組み込んでいる。

 

 あるいはまた、知人の紹介してくれた「霊媒となった人の身体を借り、……亡くなった死者(母)と会話し……そこに母がいるのでは、と錯覚したほどです」という鮮烈な体験をして、次のように記している。

 

 《同時に私は、「あの世」と呼ばれるようなものの存在があること、人は肉体死を迎えても魂は滅しないこと、つまり、見えない世界の存在の確証のようなものを得たのです。》

 

 矢作さんは、しかし、彼自身の「世界の構造」を示そうとしているわけではない。正直に自身の驚きと自らが体験したことへの畏敬の念とそれに導かれた「知らない世界がありうる」という知的な自己の輪郭(の感触)をつかみとって、一挙に「輪廻転生」を取り出している。しかしその位置づけ方も、以下のように、「納得しやすくなる」ところに力点が置かれている。実利的である。集中治療部長としての「お別れの作法」に徹しているからであろう。

 

 《霊魂の使命は意識の進化だと考えれば、私たちが今ある世界で何を為したか、その結果どうであったか問うことで、次の課題が決まる、というわけです。……輪廻転生とは、さらに前向きに意識を進化させていくためにある、というように考えることができるようになれば、良心があることも、前世や来世があることも、納得しやすくなるように思います。》

 

 少しずらせば、プラトンの「イデア論」まであと一歩という感じの認識である。もちろん私は、揶揄しているわけではない。私自身、わからないことを含めて、そうした「世界の構造」に近い感触を感じていることもあるから、どちらかというと好意的に読んでいる。だが、あまりに「実利的」なスタンスを感じると、なにもわざわざそこまで話を広げることはないじゃないかと、眉に唾をつけたくなってしまう。

 

 だから、ずらして、「時間」の流れとして考えてみると、面白い「世界」を描き出す入口になると思った次第。ここで私の、弟Jの息子の結婚式に臨席していて感じた「時間感覚」と結びつく。

 

 死への跳躍を済ませてしまった弟が「招待状を出して」呼び寄せた私たちが、弟Jの息子の結婚を祝う「かんけい」に折りたたまれた時間を、私もいま生きていると共感したからであった。それは弟Jと久々に席を共にした時間であった。


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