mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

36会 第8回 aAg Seminar ご報告(1)

2014-06-02 17:52:57 | 日記

 昨日は、第8回のSeminar。講師のkmさんは浄土真宗の僧侶資格を取ろうかと修行を積んできた方。テーマは「般若心経を読み解く」。浄土真宗は「般若心経」を唱えない。つまりひとつスッテプアウトした視点から「般若心経」を読み解いていただくことで、「仏教」とか「宗教」とか「信仰」ということについて考える機会をもちたい、そう考えたわけである。

 開始の冒頭、「般若心経」の読経が流れます。高野山総本山の読経です。つづいて、比叡山延暦寺のそれに変わります。さらに続いて、禅宗の曹洞宗大本山の、やはり「般若心経」の読経が流れてきます。講師のkmさんはそれに深く聞き入っていて、その違いを感じとれと私たちに言っているようです。ですが、禅宗の読経の合間に「ぎゃぁー」とか「きえぇー」と気合が入るにつれ、「もういいんじゃない?」と割って入る声が出ました。

 読経を(音で)聞かせるkmさんのネライと参加者の受け止め方の間には、大きなギャップがあるように思えました。どういう違いをkmさんが感じ取っていたか、最後まで聞けなかったのは残念でした。

 手元に配られた「資料」は、「開教文」と記されてはじまる「仏説般若波羅蜜多心経」の経文が、ふりがな付きでつづきます。もう一つの「資料」は「1、仏教の常識」「2、三法印、四法印」「3、縁起の教え」と3節に分けられた「要点解説」です。ことに「3」で「縁起」全般と「十二縁起」のひとつひとつを説明しています。

 kmさんは「般若心経にはいろいろな評価がありますが、仏教用語の主なものが全部書かれているという点では(仏説を勉強する上では)優れている」と前置きをして、まずは、南伝と北伝のふたつに分かれた流れとその特徴を、日本に伝わる仏教との関係で説明していきました。
 南伝の上座部仏教の方は、釈迦の言葉を忠実に再現して伝えているという自負をもち、北伝の大乗仏教を、後世の人が自己流に作った創作と非難していて、「般若心経」はその最たるものというわけです。
 彼女は浄土真宗の僧侶資格を取る人たちが勉強する「教科書」を学び、中村哲の著作や上座部仏教のスマナサーラ(駒澤大学教授)の著作を読み、それらの記述を全部受け容れて、胸中でどう受け止めるかを思案中という風情で、「それが面白い」と話していました。信仰というよりも、「学問する面白さね」と誰かに言われ、「そんなあ、ガクモンなんてことは……できゃせんが」と笑っていました。

 kmさんは、「般若心経」そのものの(逐語的な)「口語訳」は省略してしまって、いきなり「般若心経」の神髄、「空の思想」とは何か、に踏み込んでいこうとします。
 「(口語訳なんか)ありがたみがのうなるばっかりじゃけんな」
  と逐語的解説を一蹴します。参加者から、
 「でも、どういうことを言っとんのかくらいは、説明してよ」
 と言われても、傍らに置いた本を指して、
 「こんなに本があって、だいたいどれも同じような口語訳をしてるんじゃ。読みゃあ、ええが」
 と、取り合わおうとしません。彼女は、もう「般若心経」とそれをめぐる(上座部仏教と大乗仏教との)やりとりに夢中、といったところでしょうか。
 「そんなこと言わんで、耳で聞きたいんじゃが……」
 とf君が念を押してやっと、前段部分の「書き下し」を読み上げてくれました。

 世の中の目の前のものはすべて移り変わるもの、実体がない、それを「空」というてるんじゃあ、と釈迦言葉の解説に入る。そうして、
 《人間は生まれたら死にます。死に向かって歩いています。みんなが本じゃというから本になる。元は空なんじゃ。五蘊というのは、人間は五つのモノ(色受想行識)からあつまっているということ。[私]というのもありません。一切は苦です。》
 とつづける。

 すると、質問が入る。
 「あなたの実感からそう思う?」
 「そうじゃ、生きているのは苦じゃ」
 「貧しい昔はそう思うこともあったが、いまは時代が違うんじゃないか。生きていることを謳歌しようというふうに変わってきているよね。」

《次から次へと苦が出てくる。決して苦はなくならない。人間はじっとしているわけじゃない。移り変わっている。死に向かって生きている。老いつつ死につつ。子どもがいても不幸せかもしれないし、子どもがいなくても幸せかもしれない。どうやったら苦をなくすことができるかというのを、御釈迦様はな研究なさったんじゃな。》

★ 般若心経で救われたか?

 面白かったのは、「般若心経を読んで、救われた?」という質問に対するkmさんの答えからだ。

 《いや私は、救うてほしうて般若心経を読んでいるわけじゃないんよ。面白いなと思って、東京でおうた浄土真宗の住職さんは、浄土真宗を信じたからというて人間ができますということはないよ、商売がうまくいくこともないよ、子どもが大学に受かるってこともないよと言われた。そのときはじめて納得したわけ。それまではお賽銭をあげて願い事をいうてたんじゃな。現世利益はありませんよ。そういうことを言うてくれるお坊さんはおらんかった。わあそうなんかと思うて、面白うなる。》

 その師匠に出逢ってから通信教育を受けて、僧侶の資格をとるまでの勉強をつづけてきた。そのお師匠さんが亡くなって、いまは中断している、という。

 「学問として面白いってこと?」

 《学問いうほどのことじゃないが。こんなことがあるんかと思って。それがすごいたくさんあるんよ。全部読んでから死にたいわと思うて。脳梗塞になった時に、信仰をもっとったことで救われる、信じるか信じんかという話じゃけん。なんか面白いなあ。》

 勉強するとか何とかいう前に、自分が生きていることを自己確認するような「勉強すること/ガクモン」が面白いとkmさんは言っているように思った。 (つづく)


36会 第8回 aAg Seminar ご報告(1)

2014-06-02 17:50:18 | 日記

 昨日は、第8回のSeminar。講師のkmさんは浄土真宗の僧侶資格を取ろうかと修行を積んできた方。テーマは「般若心経を読み解く」。浄土真宗は「般若心経」を唱えない。つまりひとつスッテプアウトした視点から「般若心経」を読み解いていただくことで、「仏教」とか「宗教」とか「信仰」ということについて考える機会をもちたい、そう考えたわけである。

 

 開始の冒頭、「般若心経」の読経が流れます。高野山総本山の読経です。つづいて、比叡山延暦寺のそれに変わります。さらに続いて、禅宗の曹洞宗大本山の、やはり「般若心経」の読経が流れてきます。講師のkmさんはそれに深く聞き入っていて、その違いを感じとれと私たちに言っているようです。ですが、禅宗の読経の合間に「ぎゃぁー」とか「きえぇー」と気合が入るにつれ、「もういいんじゃない?」と割って入る声が出ました。

 

 読経を(音で)聞かせるkmさんのネライと参加者の受け止め方の間には、大きなギャップがあるように思えました。どういう違いをkmさんが感じ取っていたか、最後まで聞けなかったのは残念でした。

 

 手元に配られた「資料」は、「開教文」と記されてはじまる「仏説般若波羅蜜多心経」の経文が、ふりがな付きでつづきます。もう一つの「資料」は「1、仏教の常識」「2、三法印、四法印」「3、縁起の教え」と3節に分けられた「要点解説」です。ことに「3」で「縁起」全般と「十二縁起」のひとつひとつを説明しています。

 

 kmさんは「般若心経にはいろいろな評価がありますが、仏教用語の主なものが全部書かれているという点では(仏説を勉強する上では)優れている」と前置きをして、まずは、南伝と北伝のふたつに分かれた流れとその特徴を、日本に伝わる仏教との関係で説明していきました。
 南伝の上座部仏教の方は、釈迦の言葉を忠実に再現して伝えているという自負をもち、北伝の大乗仏教を、後世の人が自己流に作った創作と非難していて、「般若心経」はその最たるものというわけです。


 彼女は浄土真宗の僧侶資格を取る人たちが勉強する「教科書」を学び、中村哲の著作や上座部仏教のスマナサーラ(駒澤大学教授)の著作を読み、それらの記述を全部受け容れて、胸中でどう受け止めるかを思案中という風情で、「それが面白い」と話していました。信仰というよりも、「学問する面白さね」と誰かに言われ、「そんなあ、ガクモンなんてことは……できゃせんが」と笑っていました。

 

 kmさんは、「般若心経」そのものの(逐語的な)「口語訳」は省略してしまって、いきなり「般若心経」の神髄、「空の思想」とは何か、に踏み込んでいこうとします。
 「(口語訳なんか)ありがたみがのうなるばっかりじゃけんな」
  と逐語的解説を一蹴します。参加者から、
 「でも、どういうことを言っとんのかくらいは、説明してよ」
 と言われても、傍らに置いた本を指して、
 「こんなに本があって、だいたいどれも同じような口語訳をしてるんじゃ。読みゃあ、ええが」
 と、取り合わおうとしません。彼女は、もう「般若心経」とそれをめぐる(上座部仏教と大乗仏教との)やりとりに夢中、といったところでしょうか。
 「そんなこと言わんで、耳で聞きたいんじゃが……」
 とf君が念を押してやっと、前段部分の「書き下し」を読み上げてくれました。

 

 世の中の目の前のものはすべて移り変わるもの、実体がない、それを「空」というてるんじゃあ、と釈迦言葉の解説に入る。そうして、
 《人間は生まれたら死にます。死に向かって歩いています。みんなが本じゃというから本になる。元は空なんじゃ。五蘊というのは、人間は五つのモノ(色受想行識)からあつまっているということ。[私]というのもありません。一切は苦です。》
 とつづける。

 

 すると、質問が入る。
 「あなたの実感からそう思う?」
 「そうじゃ、生きているのは苦じゃ」
 「貧しい昔はそう思うこともあったが、いまは時代が違うんじゃないか。生きていることを謳歌しようというふうに変わってきているよね。」

《次から次へと苦が出てくる。決して苦はなくならない。人間はじっとしているわけじゃない。移り変わっている。死に向かって生きている。老いつつ死につつ。子どもがいても不幸せかもしれないし、子どもがいなくても幸せかもしれない。どうやったら苦をなくすことができるかというのを、御釈迦様はな研究なさったんじゃな。》

 

★ 般若心経で救われたか?

 

 面白かったのは、「般若心経を読んで、救われた?」という質問に対するkmさんの答えからだ。

 《いや私は、救うてほしうて般若心経を読んでいるわけじゃないんよ。面白いなと思って、東京でおうた浄土真宗の住職さんは、浄土真宗を信じたからというて人間ができますということはないよ、商売がうまくいくこともないよ、子どもが大学に受かるってこともないよと言われた。そのときはじめて納得したわけ。それまではお賽銭をあげて願い事をいうてたんじゃな。現世利益はありませんよ。そういうことを言うてくれるお坊さんはおらんかった。わあそうなんかと思うて、面白うなる。》

 その師匠に出逢ってから通信教育を受けて、僧侶の資格をとるまでの勉強をつづけてきた。そのお師匠さんが亡くなって、いまは中断している、という。

 

 「学問として面白いってこと?」

 《学問いうほどのことじゃないが。こんなことがあるんかと思って。それがすごいたくさんあるんよ。全部読んでから死にたいわと思うて。脳梗塞になった時に、信仰をもっとったことで救われる、信じるか信じんかという話じゃけん。なんか面白いなあ。》

 

 勉強するとか何とかいう前に、自分が生きていることを自己確認するような「勉強すること/ガクモン」が面白いとkmさんは言っているように思った。 (つづく)