mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

第8回 aAg Seminar 報告(3)

2014-06-04 10:48:41 | 日記


★ 教説の神髄――個別の真実に語りかける

***my 「死後の世界はこういうものではないかと、解釈を述べている。単なる思想として述べているだけ。そういうものとして受け止めればいいんじゃないか。どういうことで此の世が成り立っているのかわからん、といっている。」
***hm「そういうことなのか。」

***sy「それにしても信者が多すぎない? 葬式の儀式につながるから、広がったってこともある」
***fk「ブッダがこうした教説を広めようとしたことはない、目の前の人の苦を取り除こうとしただけって言われている。釈迦にしてもソクラテスにしても、言葉で語りかけているけれども、普遍的な何かを書き残すってことをしたことはないって、いうじゃない。つまり、語り掛けるときとところと相手とにおいて、瞬間瞬間に真実はある、瞬間瞬間にしか真実はないよ、といっている。それが、「色即是空、空即是色」なんじゃないかと僕は思う。つまり、聞いた誰かが後でこれこれが真実じゃないかと、ことばに書き留めたときに、普遍的なこととして受け容れられたんだと思う。」

***hm「現実世界の解釈としてなら、よくわかる。それをね、死後の世界がどうだということとかかわらせるから、わかんなくなる。」
***ts「坊主も稼ぐためにやっている話だと。」
***fw「これを利用しているんだね。」

* (私たち自身が、広まった教説を「普遍的な真実」と理解する傾きをもっている。しかし、釈迦にせよ、キリストにせよ、真理を説いた人と言われている人たちは、ほぼ例外なく、口説(くぜつ)のひとである。その場、そのとき、その人に向かって話したことが、伝聞と物語に彩られて「普遍的な真理」として伝えられてきている。私たちが理解するときに、それを今度は、いま私が、ここで、聞いていることと受け止めると、俄然、教説の彩が違ってみえてくる。hmくんの「現実世界の解釈としてなら、よくわかる。」というとらえ方が、これをあらわしていると思った。)


★ 自分に向き合う


km:この人のお母さんが、浄土真宗の信者だのに般若心経をあげられるって聞いて違和感があったんよ(浄土真宗は般若心経を唱えないっていわれてきたから)。(わたしは)浄土真宗だから浄土三部経って思い込んできたんじゃないかと思うと、この本(般若心経)も読んでみればいいんじゃないかと思うようになった。気持ちが安らぐんなら、どちらでもいいんじゃないかと思った。「羯諦羯諦……」という呪文も、慰めになるんなら、それはそれでいいんじゃないか。私は口をついて南無阿弥陀仏っていうて、心が落ち着くことがある。脳梗塞が起こるから気をつけなきゃならんとおもうと、南無阿弥陀仏っていいながら風呂に入る。人並みの生活をしてきてな。それでもな、風呂に入る瞬間に、不安に思いよんじゃな。その瞬間は苦に思いよんじゃな。

***fk「ブータンいったときに、豪勢な仏間がある。でもお位牌はない。曼荼羅や観音菩薩を飾ってある。死んだら川に流す。それは、この世に執着がないってことだよね。」

km:浄土真宗だって、そうだよ。過去帳があればいいんで、仏壇だっていらん。

(お清めの塩もいらない。)(戒名って、日本だけのモノよ。)(金儲け)(仏壇も墓地もお金儲けよね。お葬式いうと、お寺さんが来て。)
km:仏壇やお墓はな、仏縁をいただきなさい。愉しく楽に生きなさいっていうことなんじゃ。

***sy「マイナス思考の人が頼るんじゃない?」
***my「いや(般若心経は)、世界の解釈を淡々と述べているだけであって、頼るとか頼らないとか、そういうもんじゃない」

★ 日常を照らし出す言葉

***fk「スマナサーラさんが述べていることに、「無」を説く般若心経は生きる希望を取り去るようなことだと非難している。だけど、そうか。平々凡々たる日常では何も感じないことでも「無」という地点から見つめなおしてみると、急に、周りの人のお世話になって、ありがたいことだと見えてくることもある。ふだんは何でもないことと思っていたことが、大変な数の人々の関係に包まれて成り立っていることだと見えるようになる。そういうふうに生きているってことが見えてくる。そうでない何かに出逢ったときに気づくってことだと。「空即是色」ということも、目に見えないことが起ちあがって見えてくる。」

***hm「おれは信心なんて言葉は好きじゃないが、毎日毎日自分の日々を確認していくというところね、「自己確認」が仏教のなかにもあって、やってきてんじゃないかと思う。」

***fw「今も、毎日お経をkmさんはあげてんでしょ?」
km:私な、毎朝じゃないけど、日曜祭日にお寺さんに行って正信偈をあげる。築地本願寺のそばに住むようになったから、元気になれば行こう思うとんよ。
***fw「私は、感心してたんよ。いつも、あきもせず(仏説の本を)読んでる。」
***ts「いろんな解釈ができて、人それぞれでいいんじゃないのかな。」

*(「信仰」とか「信心」ということを考えさせられた。般若心経を浄土真宗の信者が読むことに感じた「違和感」を、講師のkmさんは「浄土真宗は浄土三部経」という自分の執着にあるのではないかと考えて、般若心経を読み始めたという。それは、自己批評性をもっているというか、自分の考え方や「信念」を突き放してみる、外部の目をもっている。そのようなあり方をしているときに、心の中に積もり溜まる「なにか」を、[祈り]を通じて[自然]への感謝を捧げることで、保ち続けようとすること、と感じた。hm君のいう「自己確認」も、kmさんの「自己批評性」にちかい、自分に対する態度だと、思った。)


★ どういう物語りに私たちは生きているのか

***fk「スマナサーラは、上座部仏教は直伝だというが、口伝であったかどうかは別として、それらしく物語としてつくってきたでしょ。大乗が物語りというのなら、上座部も同じなのよ。ということは、同じ物語としてお経を読むのであれば、どちらが自分にとってふさわしい物語りかということで、見てとればいいのではないか。」

km:大乗と小乗は、乗り物の違いをいうとるんじゃ。大乗はたくさんの人が乗れる(救われる)、小乗は厳しい修行を積んだ人しか乗れない(救われない)ってこと。
(小乗って差別語だよね)(そうか、そういう乗り物の違いってことか)

***fk「小乗と大乗の違いはカトリックとプロテスタントとの違いに通じるよね。ところが、小乗のタイなどでは仏教に対する敬意の表し方と大乗の私たちにとっての仏教の受け止め方とでは、大きな違いがある。お坊さんを大事にする。それはなぜ、どうしてなのか。単なる葬式仏教になっちゃってる。」

km:日本は豊かになったから、仏教に救済を求めなくなったんじゃろうか。

***sy「経済発展したからな、日本は。タイは仏教に縋り付いてるんじゃろう?」
***fk「タイの人たちが仏教に縋り付ているとは思えない。仏教や僧侶に対して真摯で誠実でしょ。」
***sy「経済のレベルがあるよ。日本は豊かになった。」

***hm「仏教で悟りの境地ってあるの? 禅宗は修行するよね。」
(千日回峰行もあるし、四国のお遍路というのも、そういう修行の名残が見えるよね。)
km:悟りを開いたのは、御釈迦さんだけ。親鸞さんは厳しい修行の延長上に悟りの境地があるって、考えなかった。

***ts「仏教は何で西に広がって行かなかったのかな」
km:中国は文明が発達してたから、そちらへ向かったなんじゃないか。
***ts「わからないことがなんでありがたいん?」
km:分からないから、ありがたいんじゃない?  わかってしもうたら、なんもありがたみがないようになる。
***fk「わからないことに、超越的な何かを感じとっているんじゃないか」
***hm「そうか、漢字か」

* (「修行を積む」というのは来世に善きことがありますようにと思ってやることじゃない。厳しい修行を積むことが「悟り」に役立つという趣旨で「修行」というのは行われるのであろうが、誰もが同じように厳しい修行に耐えられるわけではない。そこから、修行を積む上座部と修行をしない者のことも考える大衆部の違いが生まれたと言える。とすると、修行者と非修行者との間をどうつなぐか、という「論題」が発生したであろう。それがどうであったかはともかく、修行者と非修行者の区別が貫かれたタイで仏教への敬意が強く生き残り、いずれも大衆化してきた日本で、仏教への敬意はなくなり、葬式仏教と言われるようになってきた。その違いは、たいへん面白い問題を提示しているように思った。簡略にいうと、僧侶と一般大衆との「かんけい」がフラットになってきた日本で、超越的なこと(神秘的なこと)への経緯が蒸発し、両者の峻別が厳しくとりあつかわれてきたタイで「敬意」が残り続けるというのは、人間の精神性の不思議を示していると思う。)


★ 「悟る」とはなにをどうすることか


***sy「kmさんは死に対する恐怖とか、楽になった?」
km:むかしからそんなに深刻に考えておらんかったから、楽になったかどうかはわからんが。だけど、そんなに長く生きられんのに、何をくよくよすることがあるんじゃと思うようになった。他人の猫が死んでも哀しくないが、私のそれがなくなると哀しい。それが執着だと思う。思う通りにならん。どうすりゃそんなにいつまでもくよくよ思うてって。私は私で勝手にさせてもらう。わりいことはないんじゃ。

***fk「あらゆることが、私の……ってことでしか世界を見ていない。自分のポジションからみているのを、みなにとっていいと表現しているだけではないのか。」
km:それはいけん、言うてるんよ。
***hm「いいとか悪いとかではなくて、俺が感じたり認識したりする以外に……ものの見方ってのはないじゃないか。」
km:そこを抜け出なさいって、ここに書いてあるんじゃ。ああ、私いいこと言うたな。それが結論じゃ。私結論が分かったよ。
(hmくんは苦しんでないんだから……と傍らから声。)

***fk「退職してからすっきりそのあたりが見えるようになったって、思う。」
***ts「あるがままできているから、わかんないよ」

***fk「あるがままで来ていても、いろんな幸運に恵まれて、いまここにあるって、思うよね。事故にせよ病気にせよ、自分のことにせよ自分の家族のことにせよ、さ。」

***ts「輪廻ってことは出てこないね」
***fk「ネパールの人は輪廻を切実に受け取っているよね。」
***hm「ヒンドゥから来ているよね、輪廻って。」
***fk「御釈迦様は散華っていってる」
(華と散る、か。)

進行:時間が過ぎました。ありがとうございました。

* (良し悪しではなく、人は結局「いまの、自分の位置からモノ・コトをみている」という事実がある。それを、生きる上での「業」と読んでもよかろう。「業」は、必ずしも悪いことではない。我がことと考えるから、モノ・コトに真剣になれる。真摯に向き合うこともできる。我がこととは考えないから、みていられない悲惨な出来事や暮らしぶりにの中に置かれた人たちがいることも忘れて、歌ったり踊ったりすることもできる。むろん喜びも悲しみも、どうしていいかわからないような哀切さを感じることも「業」あるゆえである。それを執着だとみると、生きることの悦びは執着の中にあり、悲しみもまた執着の中にある、と言える。痛切さを忘れていられるのも「業」ゆえだ。だからそう簡単に「苦」から離脱すると言えないのだ。
 その「業」から抜け出さない限り「執着」から自由になれないというのが、「解脱/さとり」の教えだとすると、その両者の間には、ものすごいギャップがある。そのギャップをどうやって跳躍するか。それが「修行」であったり「他力本願」であったり「信心」であったりするのだと思われた。
 だが考えてみると、「死ぬということ」は、「業」から解放されるということでもある。「いや、よく生きてきた、お前さん。ここまでの喜びも悲しみも、苦も楽も、思い返せば華ですよ。死ぬということは散華、華と散ること。次の世代にバトンを渡したってことを思えば、散ってしまうのは、心地いいことではないか」というのが、釈迦の心境であったろうか。
 講師のkmさんは「信心」の道を歩みはじめている。[理解]しようとか、自分流にわかってしまって得心している私たちをしり目に、「そんなことはどうでもええが」と恬淡としている。
 だが、果たして「解脱/悟り」の跳躍が必要なのかどうかも感じていない私たちは、「どうでもええが」と思えないまま、それこそ「業」を抱えたまんまで、一歩一歩「現実」の階段を踏み歩くしか方法がない。つまり、「解脱の世界に跳躍」する、超能力的な瞬間移動ができないから、現実世界のコトゴトを、なぜ? どうして? と思い煩いながら、よろこんだり悲しんだりしながら、死への歩みをつづけるのだ。そのときひとつ、「死は散華である」と頭で(死の意味を)識ることが少しばかり、我が心を「執着」から引きはがしてくれるような気もする。
 そんなことを考えさせてくれたSeminarであった。)    (報告・おわり)