mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

こうして廃れてゆく

2024-06-20 05:43:30 | 日記
 昨日(6/19)の朝日新聞朝刊に、都知事選明日告示と報じられ、《N国ポスター枠「販売」へ》と子細とコメントが掲載された。
 一読、まず、こりゃ選挙(政治)の濫用だと驚いた。
 自民党の(というか、国政全体に及ぶ)裏金を必要とする選挙や政治活動の現状にぴったりマッチした(何もかも金勘定にもっていく)やり口。「この親にしてこの子あり」だなと、昔日の差別表現を思い浮かべて、民主主義って、そうやって廃れてゆくのだと思った。
 でも考えてみると、どこにどう焦点を当てるかによって、このデキゴトをどうみるかが変わる。私はどこに目を向けるだろうと思った。
 新聞は「法の盲点を突いた行為」と識者のコメントを載せている。これは私の最初の「選挙の濫用」と同じだ。1万4千カ所もの掲示板を、一カ所一万円で売るっていう。24人の立候補者の供託金300万円/人の合計、7200万円を経費と考えても(もし全部売れれば)倍額になって返ってくる。でも、それは税金の不当使用だろうという非難が付いてくる。
 じゃあ制限すればいいんじゃないかと思わず口にする。立候補の制限をするのは、これはもう香港や権威主義国の選挙と同じで、政権に不都合な立候補をさせないことになる。「販売」はいかんと言っても、「いや、売ってはいない。ここを(なにかの)主張の場としてつかうという政治活動。代価の一万円は「寄付」と言えば、ここ1年近く騒いできた自民党の「裏金問題」と較べても、透明性はあるし、何をしているかも明白である。
 つまり、従来の選挙活動の概念を引っ繰り返す振る舞いと考えると、みるものが違ってくる。
 誰がこのスペースを買ってどう使うかによる。もしこれを都知事選に因んで、都政に対する問題提起につかうとすると、一挙に選挙の風景が変わってくるかもしれない。そういえば、このN国というのは、ワン・イッシューで登場した。選挙掲示板という、小さな地区ブロックではあれ、その小さな区域に固有の問題を(都政は)どうしてくれるのよと訴える場と考えれば、通りかかる人も、立ち止まって読んでくれるかも知れない。あるいはそれを巡って、街角でああだこうだと遣り取りがはじまるかもしれない。そうなると、これは面白いではないか。
 ワン・ポイント・イッシューが1万4千カ所にあるとすると、マスメディアもこれを取材して取り上げることになるかもしれない。つまり選挙取材のやり方が、大きく転換する。
 えっ、どう変わるかって?
 どの党に投票しますかという取材は、いわば都民を数として集約するものだ。だが、ワン・ポイント・イッシューとなると、これは都政そのものの見落としている問題を直に取り上げることになる。それに対する意見を取材・集約するとなると、都民は数ではなく、その地区で生活している固有の姿をもって現れる。これまでのマスメディアのセンスからすると、そうした問題は個々の地区の、小さな問題と見做されてほとんど話題にもされなかった。だが都民にとって「問題は常に現場で起こっている」。都政を巡って、首長を選ぶ選挙であればなおのこと、現場の、小さな問題を抜きにしてああだこうだと遣り取りする公党の選挙演説は。謂わば空中戦である。メディアの取り上げる候補の、着飾った選挙公約。口先ばかりのつまらないサービス、それを非難する、切り口は鋭いがそれだけの口舌。それにすっかり飽き飽きしている都民の、何と多いことか。
 ところが、N国の思わぬやり方が、瓢箪から駒。選挙の様相を変えてしまう発端になるかもしれない。
 妙案を一つ思い付いた。今回のN国の「販売」を制限するというよりも、選挙掲示板を(金勘定に代えようというN国の狙いを)無効にする方途を、選挙管理委員会がとればいい。掲示板を立候補者の「顔写真ビラ」の貼付に限定し、その脇にその地区の都政に関する主張の掲出ができる「立て看」を掲出できるスペースを提供すればいい。1960年代後半まで続いた大学の雰囲気をイメージしているのだが、もしそれが盛況なら、都民の政治参加の形と意欲が変わってくる。そんなことを夢想してしまった。
 廃れた政治風土から、瓢箪から駒が出るなんて、年寄りの妄想。ははは。お笑い種だ。

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