mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

二重性を組み込んでこそテツガク

2024-06-18 09:02:37 | 日記
 土屋陽介『僕らの世界を創りかえる哲学の授業』(青春出版社、2019年)を読もうと山へもっていった。往きに読んで、表題のようなことが気になった。帰りに読もうとしたら、納めていたポケットにない。一緒に入れていた眼鏡もない。山の厳しい斜面を上り下りしているときに、落としたのだ。
 図書館には、お詫びをして、買い求めたものを返却することにした。だから途中までしか読んでいない。表記のようなことを忘れないように記しておこうというわけ。
 この著者は欧米の幼稚園から小中校で学んでいる「哲学の授業」を、ものを考える考え方(のトレーニング)としてとらえ、幼い頃からの教育に取り入れている手法に学び、日本の学校で実践している方。日頃「哲学学じゃない、テツガクしよう」と考えてきた私には、そうそうその通りと相槌を打ちながら読み進めるものであった。面白い。
 ところが本書では、欧米ばかりか南米やアジア諸国のそれを紹介する過程で、学校教育がものの考え方を押しつけ、子どもの思考を型に嵌め、歪めていると述べている。たしかにその通りなのだが、しかし、そのことにも一筋縄で片付けられないワケがある。そのことに頓着していない。これじゃあ、ルソーのいう「自然に還れ」と同じで、子どもは無垢、社会の邪悪を押しつけるなと言っているのと同じになる。教育論議の、その部分に触れて教師をしてきた私としては、見過ごして通れないポイントである。
 学校教育が「(ものの考え方の)型を押しつける」という非難は、その通りである。学校というのは、子どもの必要によって形づくられたものではなく、国家や社会の、つまり大人の必要で行われてきた。
 国家、社会の必要とは何か。
 大きく枠組みをとれば「国民形成」といえようか。ナショナルな共有文化を受け継ぎ、ナショナル・アイデンティティをかたちづくり、規範を伝承し、近代社会を生きていく知恵と技能を養成することを意味している。近代学校教育のスタート地点の趣旨が、国家と社会の統治を目指している。「型に嵌める」というのは、その最も効率的な方法である。
 前近代社会に於いてそれらの子どもへの教育は、それぞれの家庭・家族や共同性を強く持っていた地域社会が行っていた。家業を継ぐのに、子どもは幼い頃から親の姿を見て育ち、社会関係を身に付けるのには、丁稚奉公とかある年齢からの若衆宿などの関わりを通じて学んできた。それが学校教育という形をとるようになったのは(日本の場合、欧米の模倣ではあったが)、家業を継ぐということでは立ちゆかなくなった資本家社会的要請に応えるため。当然、読み書き算盤だけでなく、近代社会の規範や就業する勤労への資質を培うものに変わった。
 子どもの考える力を育み伸ばすというのは、スタート地点では(その社会的気風もあって)ほぼ無視された。ところがWWⅡの戦後、経済一本槍で国と社会の運営に集中することのできた日本は20年ほどで高度経済成長の波に乗り、戦後35年で戦勝国アメリカに追いつき、「戦争に勝ったのはどっちだ」とアメリカに言わしめ、所謂高度消費社会を達成したのであった。
 そのときはじめて、そこまでは「追いつき追い越せ」が欧米の模倣で十分であったのに対して、先頭を走る者の創造的なセンスと思考が必要とされていることに気づいたと言えようか。つまり「型に嵌める」教育ではなく、自ら「しこう(嗜好・思考・志向)」し、想像/創造してゆく力が求められていることを知った。
 経済成長と並行するようにして浮かび上がった「画一的教育」への批判が、1980年代を通して社会の全面を蔽うようになり、学校教育や教師への非難・批判となってメディアに登場し、文部行政もまた、「ゆとり教育」という名の改革に乗り出したのであった。土屋陽介の「哲学の授業」の(叙述の)なりゆきで繰り出された「型に嵌める」教育への批判は、それと同質の起点に立つもの。ちがうのは、思考をどう創り鍛えるかを、意識的に論点に据えて、さらに次の一歩へと方法的な構築をしていることである。
 もちろんその発想にワタシは異を立てているわけではない。ただ、無垢の子どもが白紙に絵を描くように(哲学の授業を通して)自分の考えを描くと考えるのは、あまりにもナイーブにすぎる。
 自分の考えを描くというのを知的営みと言い換えてみる。わが身のそれが、どのように形づくられてきたかを思い返してみると良い。何もないところに絵を描いたのではないことに、すぐ気づくはずだ。いつ知らず言葉を覚えるように、そして言葉を、シャワーのように外から身の裡に注ぎ込まれるように浴びて、いつしかその文法や用法を感知感得し、それをベースにして学校教育がはじまっている。無垢ではない。生まれ落ちたときからすでに、ことばと振る舞い方と人との関係の波間に投げ出され、そこを泳ぎながら、浮かぶことを覚え、泳ぐコツを身に付け、習うように慣れて、我がこととして我が無意識に組み込んできた。この、身に備えた無意識こそが、土台をなしている。すでにそのなかに「ものの考え方」も含み込まれている。
 言葉を換えていうと、ヒトが(子どもが言葉の)世界を身に付けるのには、二重性がある。
 だからこそ、意識的に、つまり知的に受け止めようとするからには、もう一度自らの無意識に思いを致し、それを掘り返して「意識化する」ことが必要になる。それがテツガクすることだと私は考えている。
 二重性の、一つは無意識、もう一つは意識。これは個々人に於いてみると、順接も逆接も錯綜していて、一筋縄ではいかない。まして、無意識を意識する「テツガクする」となると、その二重性をかならずや意識して取りかかることが必要になる。いつであったかこの欄で触れた『啓蒙思想2・0』も、その二重性を超えようとして提案されたものであったと受け止めている。
 テツガクしなくても生きてはいける。今の社会を生きるに求められる技能・技術・技法の現在の用法を知ってさえいれば、なぜそれがそういう役割を果たすかをしらなくても、使うことはできる。だが、自分でものを考え、自ら創造的・想像的につくりだしていくためには、自らの無意識を掘り起こし、その「しこう(嗜好・思考・志向)」をとりだして吟味する過程を経なければならない。無意識を意識的にとらえ返す。つまりそのようにしてテツガクすることを、高度消費社会の末裔社会を生きる子どもたちは、求められていると言える。
 半ばからあとをまだ読んでいないで、こんな感想を記すのは不届きかもしれない。だが。やっと21世紀も二合目に入ってから、このようなテツガクが、やはり欧米から発祥して日本の学校に定着しつつあると知るのは、我がことのようにうれしい。ぜひとも、無垢の白紙に描き込むのではないと意識して、方法論を構築していってほしいと願っている。

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