mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「もって知るべし」って、なにを?

2024-02-04 10:19:05 | 日記
 東洋経済オンライン(2024/02/02)の記事「日本はこのまま「国家の衰退」を黙って待つだけか/いまこそよみがえる、福沢諭吉からの警告」が目に止まった。「失われた30年」に何年も前から私はこだわってきたからだ。
 筆者の的場昭弘の肩書きは「哲学者、経済学者」となっている。
 ローマ帝国の盛衰、ヨーロッパ文明の後退、西欧に対抗する東アジアの星・日本の、二度にわたる盛衰をとりあげて、なぜ衰えるのかを考えようとしている。モンテスキュー『ローマ人盛衰原因論』(1734年)、フランソワ・ピエール・ギョーム・ギゾー『ヨーロッパ文明史-ローマ帝国よりフランス革命にいたる』(1828年、安土正夫訳、みすず書房、1987 年)、福澤諭吉『文明論之概略』(1877年)、フランス・アカデミー会員のアミン・マアルーフ(Amin Maalouf)『迷える者の迷宮―西欧と対向者』(Le Labyrinth des égarés. L’Occident et ses adversaires,Grasset, 2023)と、内外古今の書物を引用し、いずれも優れた指導者が退いた後に、しばらくは反映した時代の遺産を食い潰して名残は続くが、凡庸なリーダーの時代がやってきて、衰退へ向かうと論じている。
 ふむ、そうかもしれないが、それでどうするの今の日本を、と期待が募ったところで、こう記している。

《西欧においても、すぐれた政治家が排出しているとはいいがたい。むしろエリート層の能力の衰退が顕著である。そうしたエリート層では、未來へのかじ取りができるはずもない》
《もう一度、福澤諭吉のあの警告を読み直してほしい。それは、「いやしくも、一国の文明の進歩を謀るものは、議論の本位を定め、この本位によって事物の利害得失を談ぜざるべからず」。福澤は危急存亡の日本の中で、日本の人々に議論の本位、すなわちいかなる方向に舵をとるべきかを、われわれに問いただしたのである。もって知るべしなのだ》

 と。な~んだ、この方も処方箋を考えて提示しようってんじゃないんだ。「もって知るべし」というが、優れた指導者の時代は終わって今凡庸なリーダーが排出し、「未来へのかじ取りができるはずもない」ってことを、「知るべし」って言ってるだけじゃないの。
 この論稿の欠点を次のように感じた。
(1)優れた指導者がかじ取りをする統治的視線から抜け出せていない。
(2)繁栄の時代に、統治者の指導的な精神が腐っていくという論理的骨組みなのであれば、ローマ帝国から始まってヨーロッパを経て東アジアにまで「経験」を積み重ねてきたフランス哲学と経済学の専門家ならば、自らの身に沁みた実感として、その腐朽して行く心持ちを抉り出す次元に迫らなければならないのではないか。
(3)私のような門前の小僧でも、今の日本の為政者を見ていて、凡庸どころかおおよそ生活者庶民の道義すら心得ない人たちばかりじゃないかと慨嘆することはできる。統治的に考える専門家なのであれば、そこを突破して、論議の次元をもう一段階引き上げるくらいの提案をしてもいいんではないか。
 とまあ、そんな感想を抱いた次第。
 ではお前さんは、どう考えるの? と自問が湧いてくる。知恵があるわけではない。体験的実感をちょっとメモしておくと、こんなことが言えるかな。
① 国民国家次元で遣り取りする限り、今の時代の限界は抜け出せない。今の時代の限界というのは、人新世時代の人間の世界は「人動説」が前面に押し出してきて、世界のすべてを席捲している時代である。それはしかし、「庶民の暮らし」の次元からとっくに離陸している。ウクライナを見てもガザに於けるイスラエルの振る舞いを見ても、あるいはそれに対抗する武器の贈与提供と開発の進展にしても、文化文明を破壊する次元にある。庶民の暮らしには関係がないばかりか敵対する為政者の振る舞いである。
② 国民国家次元を抜け出すのは、では、グローバリズムを再び称揚することかと思うかも知れないが、そうではない。小さな暮らしの単位の人びと(common people)が入会地(common land)でともに暮らすことを基本のキとして生活を組み立てることを始める。国民国家の仕組みの中であるから、それとの関わりを排除することはできないし、それの支援を得るところはそれなりにどんどの採り入れて、その関わりの範囲において行政などを変えることができれば、そう働きかけていく。ただ、それに期待したり依存したりするのは、できるだけ少なくする。
③ 庶民の暮らしだって国民国家と切り離せないじゃないかと批判が上がるかも知れない。そりゃあそうだ、私達はどう考えたって国民国家日本の中で暮らしている。庶民もまた、アメリカの半数近くがトランプを支持するようにアベ=スガ=キシダを支持してきた。庶民の「しこう(嗜好・思考・志向)」が「人動説」に浸りきってきたし、暮らしのリアルが資本家社会のシステムに乗っているのだから、そう簡単に変わるわけにはいかない。そこから次元を変えて、common landのcommon peopleへ離脱しない限り、いつまで経っても①の次元にオロオロするほかない。
(4)では、どう離脱するのか。そこにこそ、コミュニティ対話を始める意義がある。どうしたらいいかを、「小さな庶民の暮らしの単位」で考えるってことは、毎日の小さな暮らしについて、私たちがnation landのnation peopleとして振る舞っているのかcommon landのcommon peopleとして振る舞っているのかを、現実には絶対矛盾を一つ身のうちに抱えながら生きていくしかないのだと前提にし、ひとつひとつ俎上にあげ語り合い続けることで、解きほぐしていかなければならない。
④ 専門家の知恵を借りるのもいい。専門家に頼るとすぐに私たちはnation landのnation peopleに引き留められてしまう。私たちの身に堆積して無意識となっている人類史的知恵を総動員して、専門家の知見を使いこなすよう努める。それには私たち自身の無意識を意識しひとつひとつ吟味して用いることを目指して、コミュニティ対話を奨めなければならない。
⑤ このとき生きてくるのはcommon landのcommon peopleの知恵である。人が生きていく上で大切にしてきた「人倫」である。為政者のそれと異なり、庶民の間に根付いている列島の民主主義は、威勢のいい口舌や歯切れのわかりやすい単純明快な言の葉ではない。じっくりと皆さんが腑に落ちて納得するコミュニティの「得心」である。ひとつひとつ、なにゆえに「得心」したのかを、それぞれの人が自らの身に聞いて意識しながら「合意」形成へと進めていく。時間がかかっても構わない。それこそ、生き急ぐことではなく、歩一歩を確かめつつ積み重ねていくほかない。
 ま、こんなところだろうか。

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