mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

断片と筋書きとマンスプレイニング

2024-06-03 08:47:30 | 日記
 一昨日の山行の最後の1時間ほど、行を共にした女性がいたことを書いた。道がわからなくなっていたのがきっかけで言葉を交わし、沢筋をお喋りしながら下った。沢のルートファインディングのポイントを話していて、ふと「マンスプレイニング」になっていないかという思いがチラリと浮かんだ。
「あなたは若いから・・・」と私が言うと、「もう若くはありませんよ」と彼女は返し、彼女が私の娘と同世代とわかる。やはり娘と同じように子育ての手が離れ、自分の人生に乗り出したところ。趣味のないことに気づき、山歩きを加えようと歩きはじめた。高尾山が一番近所のホームフィールドだが、そちらはあまりに人が多い。中央線と富士急行線沿線のあちらこちらへということも問わず語りに伝わってくる。
 ネットでいろいろ調べ、yamapの地図を頼りに歩く。彼女のポケットから「標高700mです」とか「13時**分です」とyamapのガイド音声がときどき聞こえてくる。デジタル世代なのだ。
 いつも私は国土地理院から転写した紙の地図とyamapを併用している。ただ私は、yamapの地域案内地図「高尾・陣馬」をスマホに読み込んでいるが、歩いているのはその地図に赤い案内ルートが示されていない、中央線南側の山域である。そこは地理院地図だけが表示され、GPSで現在地点が示される。紙地図が示す山道と同じ点線のルートの上を、通過した青い線が現在地まで連なっている。地図を拡大すると、沢の右から左へ、左から右へと何度か渡り返していることも分かる。
 ところがyamapの地域案内ガイドに頼ると、赤い線の上にいることは分かるが、沢沿いに下ることは、赤い線と一緒になってわからない。これで彼女は「道に迷った」のではないかと思った。
 こうも言い換えられようか。紙の地図で見ると(yamap地図を拡大して見るのと同じで)自ずから地形を確認し、現在地を意識する。地形を意識するとは、山体と谷沢という眼前の景観に身を置いてどちらへ向かうかを決めること。ところが赤い線で示される案内ガイドは、町歩きの道路マップと同じ。明らかにどちらへ向かうかは自ずから見える。
 地形図はその場の断片を意識させる。今自分がいる地点から、どちらへ向かうかは自分で決めなければならない。だが道路マップは道筋の向かうところは道路まかせ。物語に乗ってしまえば、自ずと向かうところは道が示してくれる。この違い。
 言わずもがだが、地形図といえども、さほど細かくは道を示していない。山道として引かれた点線も概ねそうだという程度。つまり地形図を見て、踏み跡を確かめ、道を選ぶ。ところが沢は、ゴロタ石が転がり、踏み跡が何処かよくわからない。そこへもってきて、朝方まで雨が降っていた。石の上の、人が歩いた形跡もなくなり、方向を見失うことが多いってわけだ。
 とは言え、彼女が(問わず語るように、山をはじめたばかりだとしても)山歩きの知恵知識を白紙から学んでいるとは限らない。私より30分も遅く出発して、3時間半後には(山頂でお昼を摂っている)私に追いつき、追い越していったお人。歩く力量は、ある。それも単独行。度胸もある。娘のような歳の方とは言え、ルートファインディングの要領を教えるようなことをしては、それこそマンスプレイニングになる。そんなイメージがチラリと頭をかすめた。つまり私は、山歩きの知恵を筋道立てて語るようなことをしてはいけない。断片だけを話すにとどめ、むしろ彼女の山歩きを始めたばかりの、緊張感を持ったタノシイという感触を、やはり断片として受けとり、わが身に置き換えて腑に落とす。
 道筋は、英語で「plot」という。「物語り」であり「構想」である。それは更に「陰謀」とか「たくらみ」という意味にもなる。マンスプレイニングも、女性は弱いものだとか、女性は世界に対して無知であるという(女性保護/蔑視の)前提を無意識に組み込んで、目前のコトゴトにサジェストするという男の高い目線を非難する言葉である。
 問題は、無意識の前提にある。自分の持つ無意識の前提を避けようとすると、遣り取りは自ずから「断片」にとどめる。「fragment」とか「piece」ならば、繰り出す言葉もその前提から解き放たれて発せられ、受けとる人の意識に応じて受容される。
 もちろん互いが持つ無意識のベースの上に送受されるから、誤解が生じる可能性はあるが、それはそれ、世代のギャップとかいって許容の範囲に収まる。
 駅まで同道したといったが、途中彼女は花を見つけて立ち止まりカメラを向けている。私は構わず、前へ歩く。彼女が追いついてきて、カタバミがきれいだったと話す。駅に着く。私は電車の時刻を見て、トイレに向かう。彼女はホームへ降りたって待つともなく私が来るのを待っていたようだ。電車に乗る。荷物を置けるようにひと座席空けて座る。
 私はそのとき、本と眼鏡を落としたことに気づいた。これはショックであった。だが致し方ない。私は瞑目し、はて、落としたとしたら、何処であったかと今日の行程を丹念に思い返す。あそこかな、ここだったかな。いくつか思い当たる。
 彼女はスマホを見ている。40分ほどして着いた高尾駅で彼女が降りるときに、挨拶を交わしただけ。
 それがいい。その断片の向き合い方が、関係的には軽快で、でも山歩きの起点を思い起こさせ、わが身の習癖の底の方と出遭ったような感触を残した。そうだ、これがあるから今も歩いているのだと発見するような思いがした。