mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

誰か、教えて!

2024-06-04 09:30:21 | 日記
 トヨタなど自動車会社の認証不正が報道されている。メーカーが国土交通省に提出した「安全基準」をクリアしたとする検査結果が、手抜きの不正であったというもの。でも報道を読むと、メーカーの性善説を前提にしているという。「国土交通省が(不正を)見抜くことは不可能」と関係者は話している。またメーカーのひとつ、トヨタの会長も、「撲滅は無理」「トヨタは完璧な会社じゃない」と述べたそうだ。
 昔から「盗人に鍵」とか「盗人に金の番」というではないか。資本家社会の生産・流通の要諦が「信用第一」といわれたのは、江戸から明治にかけての資本主義の勃興期、限られた狭い共同社会におけることであった。欧米で「資本主義の精神とプロテスタンティズムの倫理」がマックスウェーバーによって説かれたのは20世紀の初め。それはすでに、資本主義が社会の経済システムとして圧倒的な力を発揮してきて、はたしてこれが人の社会に相応しいシステムなのかと疑念が投げかけられ、いやむしろ人を搾取し、社会の気風を頽落させる悪辣なるシステムだと非難を受けていた頃であった。
 生産者や流通業者の自由な活動が、その社会に暮らす人びとの活計を立てる必要を支えるシステムをなすには、暮らしのQOLに見合った商品の品質も保証されなければならないという考えが芽生えてきたのは19世紀。それを保証できる社会体制をつくらなければならないとモノの生産流通のシステムを、国家も含めて考案し整備してきたのが20世紀であった。つまり、社会システムとしての資本主義が、世の人びとの暮らしに資するためには、自由な競争に任せておくわけにはいかず、統治的に制約を加え、国家権力を通じた再配分の仕組みを連動させ、製造販売に至るまで監視できる仕組みを調えなければならないと考えられてきた。
 つまり自由主義的資本主義はもはや理屈の上でしか成立せず、ことごとくポリティカル・エコノミーとして、政治経済の一体的システムの構成のなかで語られなければならない様相を呈していたのであった。当然のように、それぞれの国民国家は、政治的体制の経てきた歴史性、経済的関係の形成してきた固有性をもっているから、それぞれの社会的な文脈に合わせて、資本主義経済システムの自由な競争では適わないところを、法整備で調え、補完し、再配分するという統治的システムも、それぞれに考案して対応していかなければならなかった。民主主義という社会政治制度は、いっそうそういう制度構築に於いて尽力を必要とされていたのであった。
 しかし、圧倒的な世界支配力をもつに至ったアメリカは1990年以降、「新自由主義」を旗印に経済のグローバル化を掲げ、その実、アメリカの世界(経済)支配を保持することへと邁進してきた。その頃、アメリカを追い越したと勘違いしていた日本は、社会的・政治的固有性の差異に配慮して戦略を立てる方向ではなく、「新自由主義」的発想に追随して、部分的・断片的な製造工程や会計基準の改訂に乗り出し、とどのつまり(無意識に抱いている日本の固有性に固執して)自社の利益を守ることを第一優先にした企業経営へと邁進し、あげくに1980年代の優位性の根拠であった社会の固有性を壊して、中産階層を大きく削り落として、「失われた*十年」へ突入してしまった。
 ガラパゴス化と称される。それは多くの場合、企業経営の視界の狭さ(列島内他者しか目に入っていないこと)を揶揄うものである。だが実は、そうじゃない。社会的・文化的差異(グローバル化というのであれば、他の国々との規制や監視や懲罰を含む差異)などを視界に収めて、自社の製造工程のチェックや流通における不正を監視する仕組みを考えなければならなかった。
 商品の製造と流通交換システムが、空間的にも時間的にも広まり複雑に高度化するにつれて、社会や文化や政治的統治に於いて視野に収めなければならない範囲は広まり深まり、関わり合う関係は複雑に混雑する。ならばチェックシステムは、それを子細に捉えて手立てを講ずる、とイメージするかもしれない。だが、それはいたちごっこ。殆ど無理である。
 むしろ(アメリカやヨーロッパのように)不正が行われていたときには懲罰的に極端に大きな負担を課するという司法制度を設けて、「倫理」を、法人企業や人びとの心裡に植え込むようにする。これしかないのかもしれない。
 日本の「懲罰的」が如何に温いかは、今回自民党の「キックバック」「裏金問題」の始末を見ているだけでわかる。報告書を訂正するとか、知らぬ存ぜぬで通す。あるいは離党するとか役職辞職する、議員辞職するというだけで、何か問題を解決したような気分になっている。司法機関もメディアも、上級国民と下級国民とを区別して差配する。この社会の倫理が、すっかり廃れていることを、これほど強く実感させられたことはない。
 人って、変わらない。倫理って、そう簡単に変わるものではない。
 日本人の繊細さを誇らしく思っていたりするのも、ほんの一欠片に人を拾って称揚しているだけじゃないか。もちろん一欠片だからといって、価値がないわけではない。それよりも、多数の、それもエリートと自称する国会議員などの振るまいの示す倫理が、こんな無様な事態にあることに、どうして「愛国的」保守主義者たちは沈黙しているのであろうかと、思う。
 とは言え、そう言ったからといって、ワタシが清く正しく美しくなるわけではない。ただ単に、他人を非難しただけ。他人(ひと)を非難すれば自分が正しいと証明されるわけではない。
 グローバルに事業展開するトヨタの会長が「会社は完璧じゃない」といったのは、資本主義システムが「完璧じゃない」といっているように聞こえる。つまり、国家社会の方で、システムを調えてよと要請しているようだ。まさか自分から「アメリカのように懲罰的な制度にしてくれ」とは言えないからだ。
 もちろん、どんなに戦略的に「しこう(嗜好・思考・志向)」を凝らしても、社会が「完璧に」なることはない。だからと言って、トランプのように居直って、不都合なことはことごとく(誰かの仕掛けた)陰謀であり、窮地に陥った不遇のヒーローなんて自己喧伝するのは、お笑いもいいところだ。
 でも、そのお笑いが、まことに世界の現実。だとしたら、わたしの不明を恥じるしかない。じゃあ、何処からワタシは自らの「不明」を感じとっていったらいいのか。誰か、教えて!