mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ささらほうさらの知らない世界

2024-06-15 05:16:29 | 日記
 今月のささらほうさらの会は、サトルさんのレポート。いつもの面々が集まり、もう元気に集まっただけで、会を開いた意味があったという気配が漂う。交わされる世間話の雰囲気を切り換えるのはリョウイチさん。
「でははじめましょうか」と声をかけ、ワカさんの「夏合宿計画」が提案される。庶務会計と称する実務を、アキラさんから引き継いで1年半以上になる。まだ現役で仕事をしている若手二人が合宿に顔を出すという。そこでまた、その人たちの消息が世間話ふうに話題になる。冬合宿で「話すことがないんですよ」とレポートして茫然としていたシンペーさんには、参加するかどうかの確認をしなかったという。そうだね、そういうプレッシャーとは縁を切りたいということかも知れないねと私は思う。
 サトルさんのレポートの表題は「親愛なる者へ」。おやなんだろう今月は、と関心を引く。「二月の午後」という谷川俊太郎の詩を、先ず紹介する。

風は冷たいが穏やかな陽射しの
二月の午後
人に告げたいことが
なくなっているのに気づく

 と始まる詩句に引っ掛けて、「わたしも告げたいことがなくなっている」と困るでもなく、わが身の自然を描写するように話しはじめる。ああ、この「自然(じねん)」の姿がサトルさんだとワタシの身の裡が反応する。
 テーマを設けて、それについて陳述する、というのではない。ただそこにあることを、あるというままに言葉にする。いいなあ、そういうのって、とワタシの身の裡が感じている。
 人に告げたいことって、歳とともに、なくなるもんだよ。
「谷川俊太郎っていくつだっけ?」
「93くらいかな」
 そうか、あと一回り歳をとれば、ワタシも「なくなる」のかと一方で思い、もう一方で、谷川俊太郎はいつも「人に告げること」を言葉にしてきた表現者。「人」いうのが、見ず知らずの他人。
 ワタシは表現者じゃない。ブログで言葉にすることをつづけているが、これはワタシ自身への探求。私という(生命体史38億年の径庭が)無意識として堆積した身の内に巣くうワタシという意識が、さらにその外なのか内なのかわからない外部のヒトやセカイとかかわって感じる違和感や齟齬、いやそういっていいものかどうかも言葉にならないモヤモヤとした感触を、一つひとつ取り出して言葉にしてみる。そうすると、意識世界のワタシが浮かび上がる自問自答になる。
 へえ、そうなんだ。そうだったんだと、私を発見する。その不思議にまだ、驚いたりしている。やっと言葉にする緒に着いたばかりって感触が、自分で言うのも変だが、初々しい。谷川俊太郎のような手練手管を使い尽くした練達の士とは、違う(のかもしれない)と気づく。
 でもまた他方には、違う感触もある。
 歳をとると、他のヒトやセカイが、わが身の内か外かがわからなくなる。近頃の世の中を「分断」と呼ぶ識者が多い。「分けて」己の立ち位置を浮かび上がらせたい人たちが、他者を攻撃する。人を誹ったり、非難することで、自分は違うということを証明したつもりになっている応酬が、どこのセカイにも蔓延している。そうした事態を、互いに対立する相手を指さして「分断」と呼びあっている。ワタシがみていると、どっちもどっち。互いに相手を理解できないと非難しているだけ。それは、理解しないか理解したくないかわからないが、理解しようとしない次元で遣り取りを考えているからと思える。
 わが身に生命体史が、あるいは人類史が無意識として降り積もっていると考えたら、世の中のたいていのことは「理解」できる。同意するかどうかは別だ。すぐに善し悪しを区分けして、どちらを選ぶかとモノゴトを考える癖が付いていると、この次元がなかなかつかめない。ところが、善し悪しをひとまず棚上げして、中動態的に考えると、ものをみる次元が変わる。それがいいかどうかは、また別問題だが、そうやってひとまず、イヤなヤツの振る舞いも言説も、それなりの合理性を持っているかもしれないと思って意識してみると、相応に腑に落ちる(ことが多い)。
 そのときワタシの身の裡に起ち上がっているセカイは、ほとんど何もかも、わが身に堆積している無意識だと受け止めることが出来る。バカだなあと思うトランプの振る舞いも、ひどいなあ、コイツは許せないよなと思うプーチンやネタニヤフの言動も、由緒由来と取り囲まれた状況とを勘案すると、「理解」はできる。
「理解」したとき、同時に、どうしてワタシはそれに不快感をもつのだろうとか、許せないと思うのかというワタシの無意識に向けた自問が思い浮かぶ。そうやって自分なりの応えを考えていると、セカイがわが身の内か外か、だんだん端境がわからなくなる。
 つまり「人に告げる」というとき、「人」ってワタシじゃないのとも感じる。ま、心身一如というか、セカイとワタシが一如というか、人が全部ワタシであり、ワタシが全部人であるという、渾然一体となった混沌の海がワタシになる。こうなると、トランプもプーチンも習近平もネタニヤフも、笑っちゃうしかないけど、腹が立たない。ヒトってバカだなあとわが身を眺めるように感じる。
 でも、コイツらばかりじゃない。もっと広いヒトの世界も知らないわけじゃない。ものをつくる職人の世界、限定した世界の探索に乗り出している学者の世界、音楽や美術、芸能といったアートの世界、スポーツや落語、エンタメの世界まで、驚くほどワタシの知らない世界が広がっていることは「わかる」。なにより私のような市井の民の世界が広がっている。動植物の世界もまた然りだ。沈黙する宇宙も、これはまた、すごい。
 イイとかワルイとか口にできるヒトは凄い、とも思う。それらの奥行きに思いを及ぼすと、とうていワタシの触れることもできない諸々の凄さをヒトも動物も植物も、いやウィルスさえももっていると感嘆する。
 そう考えていると、「人に告げることがなくなった」というのは、端から当たり前といえば当たり前のこと。自分に告げることばかりで手一杯になる。知らない世界を知ろうと追い求めていた若い頃と違い、わが身に知らないことがこんなにあると知ることが興味深い。それが端緒となって、知らない世界の領域が広がることが面白く、それへの関心が興味津々。歳をとるのも悪くないと思える瞬間だ。
 ま、でも、そう気づいた頃にはぼちぼちお迎えが来る頃。三途の川向こうは、最後の知らない世界。そうとあっては、これもまた、みざるべからず。そういうことも、オモシロイと思えるようになった。

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