mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

映画『幸せのありか』

2015-02-03 06:35:33 | 日記

 映画『幸せのありか』(ポーランド、マチェイ・ピェブシツア監督、2013年)をみる。脳性まひと身体の不自由を抱えたマテウシュが、「植物状態」とみなされて社会的なかかわりから切り離された暮らしをしながら子どもから青年へと成長し、関わる家族に支えられあるいは疎まれて施設に収容されてなお、(自らの)意思を(他者に)通じたいという願いを果たしてゆく過程を描いた。

 

 ここで「植物状態」と言っているのは、「外部からの呼びかけが理解できない」ことを指している。「理解できない」とみているのは「外部」の方だ。だが「マテウシュ当人/(植物状態の)内部」は外部を「受け止め(理解し)」ている。その当人の、「外部」からみた姿を映像化しつつ、「内部」の「思い」が浮き彫りになるように、この映画はつくられている。観客である私たちは、当人が感じているであろう「世界」を感じとりながら、徐々に感情移入することになる。観客である視点がすでに「外部/内部」を往還する要素をもっているから、映画に登場する人物のマテウシュに対する「外部/他者性」の(理解しようとする)度合いが、濃淡を込めて表出してくる。つまるところ、「外部/内部のコミュニケーション」において「内部(マテウシュが)理解できる/できない」と概括されることは、じつは「外部(内部と対照される人たち)が理解しようとする/しない」ということであることが、析出されてくる。まさに「意思疎通=コミュニケーション」であることを示している。

 

 ところが、上記の表現においてもそうであるが、「理解できる/できない」と「理解する/しない」との間には、画然とした「ちから関係」が横たわっている。つまり、マテウシュは「判断される人」であり「外部」の人たちは「判断する人」という「かんけいの絶対性」が底流している。その「ちから関係」を支えているのは、私たちが身を置く「日常社会の共通感覚=常識」である。この映画は、それを突破して「日常社会の共通感覚=常識」を揺さぶろうとしている。揺さぶられているのは、したがって、私たち(外部)だ。

 

 マテウシュが「幸せのありか」を見出す「人間」と表示された「章」の最後のところで、「水星と金星が良く見える、明日は晴れだ」といって天体望遠鏡から目を離し、観客をのぞき込むようにみるマテウシュの目が、ラストシーンでクローズアップされる。それは、「ところであなたは、人間か」と問うているようであった。

 

 この映画を、障碍者と健常者というスタンスでとらえるのは、(たぶん)制作意図の矮小化になる。人と人とが交わす感情や意思や言葉が「かんけい」をつくりあげる。つくりあげた「かんけい」が、それぞれの人の変容に連れて変わりもする。それらの空間的な「かんけい」は、生まれ育つ間の時間的な蓄積を土台にして支えられている。その中に「幸せのありか」を見出すには、まずなによりも「互いに理解できるという思い」が互いの間に先行しなければならない。つまり、障碍者マテウシュの「内部」を表現することによって、私たち「人間」の誰もが抱えている「かんけい」の「闇/病み」を剔抉したのが、この映画なのだ。

 

 だから映画の中では、マテウシュもまた「外部」の無理解をそれとして受け容れる(理解する)ことを要求されてはいるのだ。ただそれがそれとして強調される必要がないのは、たとえ要求されなくても、受け容れるほかないほど現実の「ちから関係」は明白であることを(最終段階の「面接」で)明示してマテウシュは自らの「場」を得ているとみることができる。

 

 今日(2015/2/3)の新聞に、「秋葉原殺傷事件・被告に死刑判決確定」と記事が出ている。最高裁が1,2審判決を支持したのだ。被告の加藤智大もまた、一人のマテウシュではなかったか。そんなことを思う。        


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